笑う月 安部公房著 新潮文庫

笑う月

月の季節に「義務教育的な文語の世界を笑う」という感じでふと思い立って始めた「特別企画 その8」の「笑う月」。結局フレーズ抽出によりタイトル化するばかりとなりました。

「有限の情報から無限の組み合わせ」という思考の基本に立ち返り、文語的タイトルに限定されることなくフレーズから抽出して展開していくということを楽しみとしてやってみようということで、今回は新潮社さんより刊行されている安部公房氏の「笑う月」から、からフレーズを拝借してタイトル化して投稿してみました。

なお、笑う月は昭和50年刊行で、文庫版は昭和59年7月25日発行です。

今回も一覧表示しておきます。

笑う月は、17の作品で構成されており、目次は次のようになっています。

  • 睡眠誘導術
  • 笑う月
  • たとえば、タブの研究
  • 発想の種子
  • 藤野君のこと
  • 蓄音機
  • ワラゲン考
  • アリスのカメラ
  • シャボン玉の皮
  • ある芸術家の肖像
  • 阿波環状線の夢
  • 案内人
  • 自己犠牲
  • 空飛ぶ男
  • 公然の秘密
  • 密会

新たなる笑う月

きっかけがノーム・チョムスキー氏の「言語と精神」を読んでいて、生成文法のことを思い出したことであるということなので、「有限の情報から無限の組み合わせ」によって「義務教育的な文語の世界を笑う」ということで、特別企画らしくフレーズを用いて遊びを加えてみます。

笑う月本文中のフレーズであり、投稿タイトルとなっている文をつなげて要約改変版を生成していきましょう。

自分独自の「眠られぬ夜のための睡眠導入術」を利用し、程よく眠りについたのはいいが、空気を引き裂く弦の音に目覚め、時計を見ると起きるべき時間はとうに過ぎていた。

時針を見つめ、数字を逆に数えてどれくらい寝過ごしたのかを確認すると、急ぎ足で家を飛び出した。

電車で隣に掛けた客の本を覗き込んだのはいいが、字が細かくて普段は感じない電車酔いが襲ってきた。きっとまだ寝ぼけていることが酔いに関わっていそうだ。寝覚めの悪さは、寝付きの悪さ以上に、骨身にこたえる。いっそ眠ってしまおう。

ぼくを悩ます常連の化物は、いつも夢の中に現れる。墜落の夢はかならず覚醒につながっているということになるのか、程よく眠れたと思ったのも束の間、僕はよだれを垂らし、夢の中の恐怖心を上まわる羞恥心を伴いながら起きてしまった。

この手の夢で、いちばんなじみ深い夢は独特な非情さと脅迫めいた印象を持っている。最初はなんてこと無いが、追跡の恐怖が突然にやってくるのが通例だ。

そういえば、夢の中で動物の行動の真の意味を捉えようと、自然の中に旅立った日のことである。地図に出ているコースを走っている間は良かったが、山の中に入るとやはり追われるような描写に変わっていった。

意識下で書きつづっている創作ノートの中には、形見の品のようなもの、食料や日用品のような、一種の消耗品がたくさん描かれていて、それらが時折僕を追いかけてくる。

ひとまず彼らとしても自給自足できるようになればと、工程を順序立てて、誰にでも伝達可能な教本をつくることに尽力してみたが、現代のような分業社会では、そのような教本を仕上げたところで、受け取り手は、しぶしぶ仏頂面の対応をするのが関の山だろう。

うーん、どうやら糠喜びにすぎなかったようだ。まあ、共通の話題にしえない運命があったからといって、それほど深刻なことでもあるまい。

燃やしてしまった写真を思い返すと、あの時一緒に見た物語の主人公の最後の叫びが蘇ってくる。ある種の侮蔑を含んだ表情を繰り返し、厚化粧した廃墟のような顔をした写真の人物との軋轢を思い出す。

あの時、確かに僕は、腰をおろして泣いていた。その時の思いが、再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた。

発想の種子の、登場のしてきかたのさりげなさには毎度驚かされるが、意識的操作を超えたものが自分の運命を操っているとすれば、驚きの他に恐ろしさをも感じてしまう。

やむをえずつけた符牒が、そのやむを得なさに応じた意味しか持たないように、無名性によって構成された世界は、実は意味を持たないのかもしれない。

それに、モデルと言っても簡略化し数式化したようなものは、特定の分野の特定の減少にしか適用することはできない。あくまで一滴の雨のしずくが、大海の主成分であることに変わりはないのと同様に、それが適用できる範囲は限られていて、その集合の外には一切関係のないような話なのだ。

ふと、窓に顔を寄せると、車窓の外には、原野がひろがっていた。野生化が進むにつれて、より現実的に煩いは減るという。寓話の現実化のような、驚くべき展開が不意打ち性をもって突然に起こるということだろうか。

こんなふうに淡々と、日常茶飯のようにより今の現実に意識を向けていると、ちっぽけな誤解の種子が生まれてくることがある。それは、抑制が弱まり、奥底にあった概念が浮かび上がってくるからだろう。

そうした概念同士の空間の争奪戦が起こると、意図せず急にフラフラになることがある。気の利かない食糧分配係が急に声をかけてくる。見晴しのきく場所は、同時に見られやすい場所でもあるため、まず目についてしまったのだろう。

かばんの中には、心をときめかせるに足る珍品を忍ばせてある。磁石に吸い寄せられる鉄片のように、一気に虜になってしまった逸品である。

万一の僥倖をたのんでの事だろうか、目の前では浮ついた輩が舌なめずりをしていた。餅なんかにつく青カビのごとくふっと現れては、へばりつく機会を窺っている。

論理では辿り得ないその迷路は、論理で行き着くのではなく体感領域での気付きが欠かせないという。自身の方法でたどり着くものもいれば、修行の後に気づくという場合もある。集中といえば集中だが、意識をなるべく意識しないように努めていかねばならないという禅問答のような世界である。言葉を用いて、催眠的な支配力による不快感の解消という方法もあるが、結局言語の世界に縛られるので、万能ではないという。

家に着いて腰を下ろした。レコードを置き、針をのせた時、祖父が吠えた。何事かと思えば輩が玄関に来ていて自分を狩りに来たという。我が事としてはそのようにして祖父に吠えられるように咎められた記憶すらない。

さてさて、気を取り戻して音響機器のセッティングに取り掛かろう。ただ心配なのは音色である。蓄音機という牢屋の中に込められた情報も、外に表出する時に顔色を変えるからな。ずぶの素人よりはましだろうとイコライザーをいじってみた。「あれ、さっきのほうが良かったが、どうやっていたんだっけか?」ぼくは狼狽した。

砂糖などの貴重品は常時数キロ単位でストックしてある。肥満を防ぐ等々の理由で人工甘味料を選ぶ人もいるらしいが、もちろんそうしない。それは、この体が糖分を欲しているという面もあるが、もう一つ理由がある。それは人工甘味料の味は不味く、生理的に嫌だったせいだ。

滑稽を自覚できない一途さ、自分を客観化できない視野の狭さは、まだ成長段階として特に問題となるわけではない。しかし、めったに体験を語らない広告収入欲しさの運営者は、記事をスクレイピングしたりまでする。

仕事の上で欠かすことの出来ない道具のひとつとして、安部公房氏と同様にカメラがあるが、当然にデジタルカメラを使っている。現代では、フィルムの使用量は信じがたく低いというのは想像に容易いが、その消費量に応じて希少価値が高まり値段は高騰している。画像加工にしても操作が面倒な高級機は、横文字が多く理解するのに時間がかかる。現代の精神状態の反映として、やたらと煩雑か、やたらと簡素すぎるかの両極端に寄っているような気がしなくもない。

期待を失わずにいられる空想家は、時折とんでもない偉業を成し遂げたりするが、結構ズレているという場合も多い。カメラ好きの一つの特徴として、不可能にかけた、一瞬の緊張を楽しむという側面がある。楽しみの果てに飽きが来て、また楽しみを見いだせれば、多少はプロの心境に近づきはじめたしるしと言えよう。

ゴミを捨ててある場所にひきつけられる時がある。ふと、何か呼びかけてくる声を聞く。するとそこには小さな生き物がいる。かすかな音が明確な声へと変換されるというような現象である。

歓楽街に行くことは、かつてから、べつに禁止されていたわけではないが、めったに近付かなかった。しかしながら、今でも歓楽街の入口やその中にある雑居ビルの入口を見ると、人間を咀嚼する大地の口のように見える時がある。そこに踏み入れたものの末路として廃物、もしくは廃人のイメージが浮かんでしまうからだ。

ある程度の洗練さのためには、内容の解説は無用である。例外的な偶然の産物として、解説中に解説がまた別の世界を表現することがあるという場合もあるだろう。ただ、概ね一過性で終わり、ゴミと化す。ゴミは砕かれた人間の伝説なのかもしれない。

「強い仲間意識で結ばれた間柄は、長い年月をかけなければ形成されえない」ということは実感のあることだろう。少し知った程度では、良いときと悪い時の差を知り得ないというのもまた同様である。仲の良いふりをしている顔見知りの犯行ほど残虐性もひどいという場合もある。友人のつもりが敵意を持っていたという場合は日常茶飯のようにある。

そんな友人もどきに悪意に満ちたいたずらをされて怒るくらいならば、友人もどきにすらならないほうがいい。ふと懇意になろうと物を持ってくることもあるが、気に入らない貰い物は、そのまま突き返してやるのが一番だ。

口に出して呟いていると、秘密の抜け穴を発見することがある。こめかみのしこりを揉みほぐし、くじけかける心を、はげましながら、じろりと白眼をむいて「んあ~」としていると、ふと突破口が見えてくることがある。休憩時間が過ぎれば、いずれまた幕が上るのと同様に、待っていてもいずれ何かが終わり、また始まるので、幕が上ると同時にどんな状態になっていて欲しいのかは口に出して呟いておくに越したことはない。

風習に無知な旅行者に媚びを売るような形のこんな風習がなぜいつまでも黙認されつづけているのか、と思うことがしばしばある。

体験する主体としての一人称感覚を持ったまま、地図をしらべてみたほどのリアリティを伴った白日夢に浸ることがある。自己検閲の機構としての自我機能が弱まる睡眠中、イメージをともなわない言葉だけの網の中にいることがある。こうした体験の非日常性は、妄想の種になるが、妄想が加速しないように確実に見たかどうかを繰返し自分に問い質してみよう。

相手が案内人である以上、案内される客人の挙動を捉えねばならないはずだが、仕事が嫌いなのか、それとも根本的に雑なのか、先を争うようにして駈けて行く案内人もたまにいる。質の悪い臭いをかくすための偽装として、表情を読み取りにくいように縁の太い眼鏡をかけていたりもする。

手のこんだ料理に対して、「これはどこ産だ?」等々、そんな穿鑿をしてちゃ、味が悪くなるよ。ぱっと見の料理の量は大したことがなくても、一品一品かなりの努力を要する作業の果てに仕上げられたものだからちょっと値が張るのは仕方がないよ。

質問する手順を観察すると、その質問の奥になにやらいかがわしい憶測が潜んでいることが見えてくる。遭難の悲愴感のように、もう反証がし得ないと絶望する場合は、自分の意見に自分の評価をくっつけていて、意見に執著している証だ。玄人同士が語り合う場合、「見解は最初から一致していた」という場合もよくある。「既に考えたことがある」ということがその奥にあるからだ。

意見に執著を持って、自尊心という虚像と関連付けると苦しくなるから、いたずらに感傷的になるのはよして。別にうすのろのばかと言われても、実際には薄のろではなかったわけだから。

食べさせる相手がいなくなった料理人のように、職能に意味を与えられないということは、一つの苦しみを生み出す。持論が伝わらないということもまた然りだろう。「モノノカンガエカタ」の職業的誇りを傷つけられたせいか、若干の憤りを隠せないでいるようだったが、聴講の学生たちを見まわすと、やはり爆笑をこらえていた。

まだ青というまでにはなっていない夜明けの空は、感慨深い気持ちにさせてくれる。自信がなさそうな膝の角度でふとため息をついても、そのため息は夜明けの空に吸い込まれていく。別誂えで取り付けたような、本質的にはそれほど欲していなかったような知識と、記憶の底に貼りついた、もう一枚の薄い記憶が相まって、「あんな世界を見に行くのもアリだなぁ」という空想を作り出したりする。

のっぴきならない証拠を突きつけても、いずれ対外的には証明も否定もできないような領域に突入する。念力のようなものと妄想が紐付いて、オカルト的な方向に向かってしまうことがある。冗談ですませられる話ならばいいが、カルト宗教的にも化けていくので、たまにはそれらについても触れようと思う。

混雑したバスや電車の中には、プライバシーの盲点がたくさん潜んでいる。以前は、覗き見防止フィルムが多用されていたが、今は画面サイズやタップの関係からかあまりそうしたフィルムの利用を見ない。

飛ぶ人間を知ったことによる、心のゆがみによって、学問に励んだ部分もあるが、「まあ今起こっていることではないし、まあいいか」と思った途端、一種の崩壊感と共に視野が広がったような感じがある。

意図的にくたびれた服装で人と会うこともあるが、それは一種の消去法として、「カッコをつけようとしてスベっている」という構造を避けているという部分もあるだろう。スーツ姿で鞄を持たずにいれば不審がられることもあるが、考えてみると一部の世界では重役ほど鞄持ちがいるということも事実である。

宅地造成で新しい道ができると、近所のおじさんの散歩コースになることがある。年寄りじみた笑いを浮かべながら、安酒を持ってふらっと歩く。その光景は、少し微笑ましかったりする。しかしながら、「ゴミを何処に置いておくつもりだ!」

周旋屋は、情報収集や一種の選択のストレスを回避することをサービスとしている。ここからわかることは、選ぶ道がなければ、迷うこともない、迷うことがなければ楽ということである。

セールスマンや集金人などが、手摺にもたれて一服している光景の中に、かつての上司のような人を見かけたことがある。本来ならば、外に出ない内勤のはずであるが、もしかすると、降格になったのかもしれない。まああの人なら、何かをやらかしていても不思議はない。気のせいのようでもあるし、事実のようでもある。

断末魔のあがきの如く、調子に乗って叫びながら蛇行運転をしていると用水路にハマった。痩せ細った体ならばダメージも少なかっただろうが、そこそこのダメージを受けた。掘割を這上り、道端に立った後に椎名さんヤッホーを楽しもうと試みたが、スピードが足りなかった。そんな中、苛立たしげに、素早い会話をしていた同伴者のふとした失言により、狂人に絡まれることとなり、誰もが狼狽を隠せない状態となった。

倫理・道徳的な主張も、しだいに空洞化していっているのだろう。弱者への愛には、いつだって殺意がこめられているように、自己愛が他者への愛と混同されていたりするからだ。扇子のように折りたたみ可能な印象で、求愛のための虚勢があるように、素晴らしいとされているものであっても、その実はわからない。

駅のトイレットでは、白っぽい、頼り切った微笑を浮かべ腹痛に悩む人がいる。

先に弁明したほうが負けというのは、よくある構造であるが、世間を騒がす何かの悶着があったとしても、翌日の新聞記事の内容に、先に弁明した側はどちらかということが仔細に語られることはあまりない。猫を抱上げながら猫が振り返ったのと同じ方向を凝視した時、急速に轟音が近づいて「デマを飛ばすんじゃない」と選挙活動に勤しむ人たちも通り過ぎていった。どこかしら湿っぽい虚しさに身をまかせながら。

Category:特別企画 / 笑う月

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