一切行苦

一切行苦(いっさいぎょうく)、あるいは一切皆苦(いっさいかいく)について哲学的に紐解いていきます。一切行苦も仏教用語にはなり、諸行無常や諸法無我といった単なる理(ことわり)を表しますが、それら2つに比べてやや「どう生きるか」にわかりやすい側面を持ち、生きていく上での認識のあり方をつかみやすい面を持っています。ということで、端的には馴染みやすいという感じです。

諸行無常諸法無我についても書いたので、一切行苦についても書いておこうかなぁと思ったしだいです。何だかんだで一切行苦という用語もちらほら使っていますが、その要は「物事はアイツこと自我が想定したとおりにはならない、つまり望み通りにはならない。楽しいことも嫌なことも能動的にやっているようでやらされているだけ。ああ虚しい」という感じです。

一切行苦は「がっかり」でもありながら、「なぜ思い通りにはならないのか?」をはっきりと示しています。

だからこそ「日常の悩み」に対して最もわかりやすく馴染みやすい理として捉えることができます。

「なぜこんなに苦しいのか?」とか「苦しみから脱することはできるのだろうか?」とか、「なぜ何をやっても思い通りにいかずに自分は苦しいのだろうか?」ということに対するひとつの答えを示しています。

一切行苦(一切皆苦)の概要

一切行苦(パーリ語:sabbe saṅkhārā  dukkha,sabbe sankhara dukkha)とは、全ての形成されたものは苦しみであるという意味です。この「苦」には通常の苦しみも含まれていますが、「思い通りにならない」とか「不完全」とか「不満」とか「虚しさ」といったニュアンスが含まれています。なお、一切行苦は諸行無常や諸法無我と並び四法印の一つとされています。仏教用語のため、以下、一部原始仏教経典などを引用しますが、盲信的にならず、また、言葉にはとらわれないようにしてください。

一切行苦の概念が出てくるもので有名なものは、ダンマパダの次の部分です。

「『一切の形成されたものは苦しみである』(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ 278 中村 元 訳 岩波文庫)

また諸行無常と諸法無我と一切行苦のセットのような部分として、スッタニパータには次のような部分があります。

「楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にもおよそ感受されたものはすべて、『これは苦しみである』と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している」(スッタニパータ 738,739 大いなる章12 二種の観察 中村 元 訳 岩波文庫)

まずは「一切行苦」という言葉を構成するそれぞれの言葉を少し分解し、原始仏教経典など文献の中に登場する用語の他の使用法を捉えて見てみましょう。仏教用語ではありますが、あくまで漢字に訳されている用語なので、それほど厳密に考える必要はありません。パーリ語などとともに紐解いていきましょう。

諸行無常は「sabbe sankhara anicca」なので、前の2つ「sabbe」と「sankhara」は重複しています。最後の「dukkha」(ドゥッカ・ドゥクハ―)は苦しみと訳されていますが、この「苦しみ」に関しては、日常馴染みの深い、簡単に想起される苦しみとはニュアンスが少し違っています。四苦である生老病死を始めとした八苦(生老病死+怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五蘊盛苦)も含まれていますが、大きく「思い通りにならないよ」というような苦しみを意味したりしています。

単純にまた「sabbe」を「諸」としても良かったのでしょうが、四字熟語的に語呂の良いようにということなのか、この部分は「一切」と訳されています。「sankhara」は諸行無常で触れたとおりの「行」つまり「形成されたもの」です。まあ他のものと同じセオリーで行くなら一切行苦は「諸行苦」という感じです。

諸行無常の諸行と同じことになりますが、それではひとまず「一切行」から見ていきましょう。

一切行=諸行

一切行苦の「一切行」は諸行無常の諸行と同じです。しかし、若干視点が変わるので、もう少し別の見方で再考する必要があります。

もちろん同じことなので「一切の形成されたもの」ということになりますが、諸行無常は、それが「無常」つまり固定的ではなくすぐに変化するという理を示していました。

直接の原因となる「因」と、原因が形となるための諸条件である「縁」によって形成されたもの、つまりこの瞬間の現象は常に変化するという感じでした。そして、常に変化するその「形成されたもの」は、何も客観的な物理現象などだけでなく、それを認識する心の状態も含まれています。それは「今の気分」というようなわかりやすいものから、目の前のコップを視覚的に捉えるということまで全てです。

こうした「形成されたもの」を捉える上での注意点は、「自分の内側」も含めるということです。客観的に「街が様変わりした」というような外界に対するマクロ的視点だけでなく、それを捉えている自分の認識自体もあくまで形成されたものであるということです。

そうして形成される対象には現象だけでなく「動機」も含まれています。

お腹が空いた、のどが渇いた、ということ一つ取ってみても、何の原因もなくそれが起こっているわけではありません。しかもその原因に自分の自我の意識は関与していません。体の都合等々、内側から自動発生しており、厳密に考えればある種「自我としての自分」以外の要因のはずです。

また、それは思考上の動機発生でも同じです。情報の出どころは違いますが、結局この自分以外の情報が組み合わさって、動機が発生しているのです。

例えば「音楽アーティストになりたい」と思ったとしましょう。その一つの動機のようなものは、どこから発生したでしょうか?

直接のトリガーのようなものは、何かの楽曲を聞いたからということになるのかもしれませんが、それよりも手前にたくさんの外界からの情報の組み合わせで人格が形成されていたということが要因となっています。自分がゼロからオリジナルで生み出したわけではありません。

そうして、この場合は「動機」になりますが、そんな感じで自動発生した「形成されたもの」に自分は不在なのです。

「一切の形成されたもの」「一切の形作られたもの」とは、結局物理的な物や現象だけでなく、この心の動きのひとつひとつもそれに該当するのです。

苦(ドゥッカ)

次に一切行苦の「苦」に移りましょう。諸行は無常であり、苦であるということになります。ここが肝心です。

一切行苦における「苦」(dukkha/ドゥッカ/ドゥクハ―)は日本語の苦しみとは少しニュアンスが違っていて、漢訳では「凶」と訳されることもあります。「暑い、息苦しい」といった体の苦しさもありますが、どちらかというと「精神的な苦しさ」という風に捉えておくとわかりやすいかもしれません。

もちろん体の苦しさも結局もたらされるものは「苦しいという感覚や感情」ですので、精神的な苦しさと言っても「対人関係のストレス」といったようなものだけに限定されるわけではありません。

日常使用する漢字の意味やイメージを元に「苦」を単純に「苦しみ」と捉えてしまうと変な方向に行きます。一切行苦の「苦」をパーリ語の「dukkha」から紐解くと、「うまくいかない」とか「~し難い」といった意味になり、不満足、不完全といったニュアンスになります。そして名詞として捉えられる時は「思い通りにならないこと」を意味します。そこから苦しみとか悩みというふうに捉えられる感じになります。それが漢訳では「苦」と訳されたということになります。

「一切の形成されたものが全て苦しみだって?いやいや、楽しい瞬間は苦しみじゃないじゃないか!」

と、ここで認識のズレが起こってきます。まさにこの部分が無明と智慧の差になります。

ではまず、苦しいときはどんなときでしょうか?

それは欲と怒りがある時です。

何かを達成した時に嬉しいと思うこともあると思いますが、根本的に欲か怒りがなければ何かをやろうとすら思いません。基本的にやらなくても満足なのです。ということは、満足ではないからやるのです。

満足ではなくて不満足だから、満足しようと思って何かをやる、そして諸行無常ゆえ、満足した瞬間にそれは変化してなくなる、という感じです。

本当に最高に満足していれば、その満足した時点からずっと満足であるはずです。

しかし、何かしら不足に気付かされ、それを満たすことで若干の喜びを与えられ、与えらたもののそれは変化しすぐに消え、またその喜びの瞬間を渇望させられる、その繰り返しです。いつまで経っても安定した満足というものはありません。だから精神としての満足は、何かを満たすことではないのです。

何かをして、ゼロ地点から+100になったのではありません。

ゼロ地点にいたものが欲や怒りで「-100」にされて、何かの行動をもってゼロ付近に戻しただけなのです。

形成されたものとしての「動機」、それがのどが渇いて水を飲んだということであっても、社会的成功を欲して社会で活躍したということであっても、自我に不足を設定されてそれに対応したと言うだけなのです。

一切皆苦という表現

一切行苦はよく「一切皆苦(いっさいかいく)」と表現されたりしますが、一切皆苦と表現した上で、先の「苦」の概念を日常レベルで捉えてしまうと、「一切皆苦なんてありえない」というふうに考えてしまう恐れがあります。

「心地いい時や気持ちいい時は苦しくないよ」という感じで「皆苦ってのはおかしいだろう」というふうに思い、これを誤謬と考えてしまうという感じです。快楽を感じている時は「少なくとも苦しみはない」という風に捉えてしまうからです。

一応、一切皆苦でもニュアンス的には近いものがありますが、「苦楽」というコントラストなど、日常の言葉で紐解こうとしてしまうと「嬉しい時、楽しい時、楽な時もあるのに何が一切皆苦だ」というふうに捉えられかねません。しかし一切行苦ならおそらく「行とは何だろう?」という事になりやすく、また原語そのものなので、諸行無常と合わせて考えることで本来の意味を捉えやすくなると思います。

だから一切皆苦と表現するよりも、一切行苦と表現し「因縁によって形成された一切のものは、思い通りにならない苦しみをもたらす」という感じで捉えておいたほうがいいでしょう。

パーリ語表現から見れば一切行苦の「行」と諸行無常の「行」は同じです。それなのになぜ一切皆苦という表現を用いるのでしょうか?

おそらくそこには、一切皆苦という言葉を使うことで「全ては苦」とした上で、「現世は一切皆苦」という形にしておいて、「その後の世界」などに議論を持ち込みたいのではないかという意図が見えます。

しかし、仮にそんなところにいったとしても、「こうであって欲しい」とか「こうであって欲しくない」とか、「何かを味わいたい」とか「我」を「手放したくない」という執著が苦しみの原因であり「思い通りにならない」という苦しみを形付けていくという理から逃れることはできません。

スッタニパータには次のような部分があります。

「人々は『わがものである』と執著した物のために苦しむ。自己の所有しているものは常住しているものではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない」(スッタニパータ 805 中村 元 訳 岩波文庫)

一切皆苦と表現しようが、「一切行苦」はただの理であり、主義や思想ではないというところを再確認しておきましょう。

四苦八苦

さて、苦しみとして有名なのは四苦八苦です。

生老病死、つまり生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみというようなものと合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」そして、色受想行識(物質・身体、感覚・刺激、イメージ・概念、意志、記憶)に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」があります。

四苦八苦に関して経典の中で有名なものは、次のようなものです。

「生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。死も苦しみである。愛さない者と会うことも苦しみである。愛する者と別離することも苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、五種の執著の素因(五取蘊/ごしゅうん)は苦しみである」(律蔵/ヴィナヤ・ピタカ)

「死ぬ苦しみは分かるけど、生きる苦しみというのはあんまりよくわからない」

おそらくそんな感じだと思いますが、生きていると生命維持のために色々なことを「身体にやらされる」のです。そしてやらないと体から苦しみの信号がやってきます。

何かをやるとうまくいく場合といかない場合があります。そして行動の途中には様々なリスクが現れたりします。

人とあってその人に好意をもてば愛別離苦、その人に嫌な気持ちを持てば怨憎会苦がやってきます。それは、人だけでなく相手が動物でも植物でも、場所や空間であってもです。

そんな感じで動機についても、実際の行動についても結果についても苦しみだらけです。

「体的には爽快」という時はあるかもしれませんが、それもその瞬間の諸条件が何かしら適しているからだけなのです。そしてそれは永続しません。精神的には常に苦しみで満ち溢れているということです。

肩こりがほぐれれば爽快かもしれませんが、根本的に肩こりにならなければ、ほぐすということもしなくてよいのです。

また、良いことがあっても「あの時は良かったのに今は何だ!」ということになりかねません。

たまに快楽と幸せは別物だと言うようなことをいっていますが、その根本はそんなところにあります。

「それがないと心が落ち着かない」という条件を増やしてしまうのです。

一切の条件が必要なくなる時、ただそこに安穏があるという感じになります。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

思い通りにならないのはなぜ?

さて、日常「思い通りにならない!」と怒りが生じてしまうこともあると思いますが、根本をたどれば「思い通りにならない」とは一体どういうことなのでしょうか?

それは非常に簡単です。

この自分と思っている自分、つまりアイツこと自我が頭で考えた「期待」と現実にギャップがあるからということです。

あまりにも単純ですね。

あくまで自分の中になにかの基準があって、それに伴ったような現象が起こっていない、だから「思い通りにならない」という感想を持つことになるという感じです。

スッタニパータには次のような部分があります。

「ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは違ったものとなる。やぶれて消え去るのはこのとおりである。世の成りゆくさまを見よ」(スッタニパータ 588 中村 元 訳 岩波文庫)

一切行苦の「苦」は、主にこうした「思い通りにならない」といった不完全、不満、虚しさを含めた精神的な苦しみです。

といっても肉体的な苦しみですら結局自分の心が苦しいと感じているに過ぎないので、結局全て精神としての苦しみです。

思い通りに進めようと具体論しか求めない

ところが一般的には、自分の動機は正当で、欲も怒りも当然で、思い通りにいかないのであれば、思い通りにそれが進むようにと具体論・ハウツーだけを追い求めています。

いわば根本中の根本を棚上げして、目先で「意識の騒ぎ」を落ち着けることしか考えられないという感じです。

そうなるとまさに意識の奴隷です。そして「自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く」で触れていますが、その意識、動機が完全に自由意志かというと、厳密な意味での自由意志なんてなことはなく外界からの情報に反応させられているというだけだったりします。

そのような感じで、ただ自分以外が発端となって「形成された」動機に駆られ、その衝動を解消するためだけに何かを「やらされる」のです。

人に気遣って疲れるということがあります。

何かを相手に伝えねばならないと思っていながら、一方でそれを相手に伝えると相手の気分は悪くなり、これから先の二人の関係がギクシャクしてしまうというような葛藤を持つことがあります。

それを分解して考えると、何重にも苦しさが組み込まれています。相手を変えなければならないという思い、相手との関係を良好に保ちたいという思い、自分に都合の良いように事が運んで欲しいという思い、そんな思いが入り混じっています。

そんな時、どうしても「うまい具合に相手をコントロールできる方法はないか?」などと検討し、安物の心理学やマインドコントロールテクニックを学ぼうとするのです。

執著が「思い通りにならない」という印象を与える

ところで、「思い通りにならない」という場合の基準ですが、その基準の根拠はどこからやってきたのでしょうか?

他人から与えられた情報が塊となって「動機が形成される」という場合もありますが、それ以前に基準自体もこの「自分と思っている自分」以外のところから形成されてきたはずです。

八苦のひとつである五蘊盛苦は、色受想行識(物質・身体、感覚・刺激、イメージ・概念、意志、記憶)に対する執著から苦しみが起こるという感じで概念が示されています。

これはこうあるべきだとか、こうあってほしいという願いのようなものは、それそのものが問題ではなく、その思いへの執着が問題となります。

執著はどこから生まれたか?

元をたどると執著など本当にくだらないようなことが積み重なってできています。

「Macしか認めない」というような執著など全く無意味ですし、何の根拠もないのです。何かの雑誌で自分のあこがれの人が同じようなことを言っていたとか、仲間内で「センスのある人ならそれを選ぶはずだ」というような会話がよくあったとか、それ以前に広告の影響だったりだとかそんな感じのことくらいのはずです。

何かしら自分が心地よいという状態、心地よいと思う空間、そんな物が「自分以外からの情報」によって形成されているに過ぎないのです。

目で見て美しいと思った、耳で聞いて心地よいと感じた、そうした外界との接触が執著の発端にはなりますが、その接触から記憶までの全てのプロセスに執著のタネはあり、各項目で執著が生まれていたりもするという感じです。

「趣味を楽しんでいる間は楽しい」という場合でも、趣味を楽しむことが一種の執著であり、楽しさの条件となっています。そしてその執著は、楽しさという快楽から生まれたという感じになります。

そしてそんな執著が「思い通りにならない」と感じる「思い通り」の基準となっているのです。

ということは執著が無くなれば、「思い通りにならない」という印象は発生しなくなります。思い通りになるということではありませんが、理屈上、思い通りにならないという「苦しみの感情」が起こらないのです。

「快楽があるからその間は『苦しみ』ではない」というようなことではなくて、苦しみの感情の素因は快楽などを求める「条件化」にあるのだから、それらが無くなれば、ただ安らぎの中にいることになるというような感じです。

スッタニパータには次のような部分があります。

「己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が煩悩の矢を抜くべし。煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する」(スッタニパータ 592,593 中村 元 訳 岩波文庫)

アイツこと自我の判断や期待や願い

「思い通りにならない」という苦しみは、前提として期待があるからこそ起こります。

それが過去の記憶なのか、得てきた情報からの想像の上なのかはバラバラですが、「おそらくこうであろう」とか「こういう風にあってほしい」といった期待や願いがあるからこそ、現実とのギャップで苦しむことになります。

そうした前提はアイツこと自我がもたらします。

目の前の現象は「ただそうであるだけ」であるにもかかわらず、自我機能によって判断や期待や願いが生まれるからこそ、「自分が思ったとおりにはならない…」という苦しみが生まれるのです。

お腹が空かなければ、食べ物を探す必要もありません。しかしこの体は「生きろ」と衝動を与え、空腹の辛さを与え食べ物を探すように促します。

そうした本能レベルを通り越して「フェラーリでないと嫌だ」とか「ポルシェに乗ればモテるのにポルシェが買えない」などと嘆くのは馬鹿げています。

「仲間として認められないと生命として危険だ」というような本能レベルの衝動が姿形を変え、日常生活の「あるべき姿」「あって欲しい形」を生み出しています。

しかしそれをこなしたところで、全ての「不安」が拭い去れるわけではありません。

業から脱する

さて、「一切の形成されたもの」には、自分の思いや考え、期待や動機までもが含まれています。

日常「形成されたもの」といえば、それが物理的なものであれ無形の情報状態であれ、自分の外側にある客観的な現象のことを想起してしまいますが、「一切の」というからには、この虚像たる自分、つまり「自我」が持つ「自分の考え」や「やってみよう」という動機など、全てのものが対象となります。

で、幾度となく触れていますが、そうした考え方や動機すらも「この自分」以外の要素が組み合わさって「自分という地点で集合して形成されている」と考えてみましょう。

そうなると、この私は、私でありながら、私以外のものから「形成された状態」にしかすぎません。

そして、そうして「形成されたもの」に沿ってある考えを持ち、あることをやりたがり、あることを避けるようにプログラムができているという感じです。

本能をベースとした衝動や衝動の解決策を思考上で考えたことなど、様々な動機が自然発生し、それをこなすだけにとどまっています。

ということで、「意図的にやりたくてやっているようで、外界からの情報によってやらされているだけ」ということです。

そういうわけで、業とかカルマとか言われるものを因果律、決定論的に再考してみましょう。

「今の状態が次の状態を決定づける」

という感じです。

「直前の状態が今の状態を決定づけた」

という感じでもいいでしょう。

では、「今の状態が次の状態を決定づける」という感じで捉えた上で、その「今の状態」を作り出したものは何なのかということです。

あることが次のあることの原因となる、そして結果が起こって、その結果がそのまた次の出来事の原因となる、というのはいいですが、発端を考えるとそれら動機は全て「外界から形成されたものとしての自我」がやっていることです。

「自分は自分の自由意志で今の仕事を選んだ」

といいたいのは山々ですが、確かに社会学的に捉えて「強制的にやらされたわけではない」という意味では自由かもしれませんが、「その仕事に関心を持った」とか、「その仕事に就くための環境が近くにあった」とかそうした様々な要因は全て自分以外の要素です。

「なぜその仕事に関心を持ったのか?」

そこまで掘り下げて考えると、それは幼少期からそうしたものに関心が向くような環境があり、職業選択の頃に成長するまでの間、人から話を聞いたとか、時代的にそれが流行りだったとかいったように、その仕事を選ぶということの動機が「外界によって形成された」からです。

そう考えると「選んだようで無数の情報から選ぶように決定づけられただけ」ということになります。

以前、ニーチェの特別企画中に「奇妙な幻影の世界」なんてな表現がありましたが、人は各々が他人の意識の中で生きているという奇妙な構造になっています。

まさにコントロールできない睡眠中の夢の世界と同じです。

不足感や願望は「過去からの因果」という思い込みの「起きているときの妄想と夢の中の景色」で触れていましたが、「起きているときの妄想は自分でコントロールできるものの、睡眠中の夢は自分でコントロールできない」という感じに似ています。

「業・カルマから脱する」なんてなことを言うと某カルト宗教のようですが、哲学的に考えると何てことはありません。

無意識が投影された夢の中

通常、無意識が投影された「睡眠中の夢の中」では、自分で行動や意志決定、環境をコントロールすることはできませんが、それは夢の中だけの話ではなく、起きているときでも同じだということです。

起きていても、様々な衝動が無意識からどんどん押し寄せてきます。そしてそうした衝動、動機は、自分が意図して作ったものではありません。だいたい、やったところでマイナスからゼロに戻るだけです。

そうしたものは、今までの経験や現在の体の状態などから、勝手にやってきているのです。その奥には「自分以外」によって形成されたものがあります。

しかし、印象的な話になりますが、起きているときの妄想は「睡眠中の夢の中」と異なり、自由に世界を展開させることができます。ある種、無意識が蠢くままに勝手に暴走させずに、意図を持って展開しているという感覚です。

結局はそれすらも無意識による産物ですが、少なくともイメージの上では自由に展開させることができます。発端は無意識ですが意識でコントロールできるような感じです。

「業・カルマ」とは、結局そうした現象の展開にあたっての因果の「原因」です。睡眠中の夢の材料となる「外界から与えられた無意識の材料」だと思えばいいでしょう。

ということは、「業・カルマから脱する」とは、つまりそうした「外界からの情報によって形成された状態」から脱するということです。

外界から形成されたものには、考え方や考え方に対する執著、意志決定における様々な柵など、数え切れないほどの「関数」があり、何かの動機の発生すらもその中に含まれています。

そんな感じで「業・カルマから脱する」とは、コントロールできない夢の中から覚めて現実を観ることができるという感じになります。無意識に任せるまま、衝動を野放しにしたまま、やっているようでやらされているだけ、という領域を脱するということです。ということで「業・カルマから脱した者」を覚者と呼んだりします。

端的には「他人」を含めて「外界に反応する」ということから離れるということになり、「自由が訪れる」ということです。

そうなると人によっては「何でもかんでも自由なのであれば、豪邸に住む」というようなことを考えたりします。

しかし、それは本当に自由に考えたことなのでしょうか?

他人を含めた外界のことを一切気にせず、心の底から本当にそう思っているのでしょうか?

「誰かに自慢したい」とか「満足感を得たい」というものが奥底に残っているはずです。

ということで、そのような発想自体がまだ脱していない証拠になります。

といっても、これは思考上の理解だけではなく体感領域になります。諸行無常や諸法無我を体感し、アイツこと自我が虚像であることを見破ることで、苦しさから脱するという感じです。

だから、簡単なことにもかかわらずその領域に飛びこむことが困難だったりします。

究極的には「苦しみがないこと」つまり安穏がその地点になりますが、通常の発想だと「安穏のために」と条件をつけていくことになります。それ自体が柵の中ということになります。

「みんなに注目されて尊敬されていれば満足」

という感じは、結局、人々の関心や尊敬というものを得なければ満足がないということになります。

しかし、最も理想的なのは「尊敬すら必要ない」という状態のはずです。なぜなら、外界を条件とせず安穏であるからです。

外界の変動、環境の変化に一喜一憂することがないということこそ、「苦しみがないこと」につながっていきます。

一見嬉しいような、プラスになりそうな事柄であっても「思い通りにならない」という苦しさのタネになります。

幸福と「幸福感」

嬉しいとか楽しいといった感情、そして幸福感というものもあくまで感情です。

感情は「一切の形成されたもの」つまり「行」であり、その場限りの現象にしか過ぎません。即時的で論証の必要もなく純粋な状態ではありますが、それが「記憶」として条件化の材料になっていくとすれば、それは苦しみの材料にもなります。

某カルト宗教などがあるので「幸福」という言葉はあまり好きではありませんが、幸福と幸福感は別物です。

カルト宗教を含めた各宗教や宗教まがいの団体・自己啓発などでは、幸福と幸福感をごっちゃにしていると考えています。

結局世界平和とか万人の幸福などといいながら、万人の状態を幸福の条件にしているという側面を持っています。教祖の教えに沿わないものを敵とみなして怒りを生じさせることは幸せなのでしょうか?確実に幸せではありません。

また経済人にしろ宗教家にしろ「所有すれば安心だ」という発想がどこかにあります。実際に墓地や施設などを所有し収益化を図っていますからね。そしてその所有には物理的な物や財産といったものだけでなく、主義、主張、考え、妄想も含まれています。そうした所有対象に執著している様は愚かにしか映りません。

そして、そうしたものの「教え」はたいてい嬉しいとか楽しいといったポジティブな「感情」を得るためにというハウツーになっています。もしくはネガティブな感情を一時的に忘れるためという感じです。

そうした感じではなくて、常に「苦しさのない安穏」の状態にあること、それこそが幸福であり、それはマイナスのない世界であり、「ゼロに戻すために」と、あれこれやらされることのない状態です。

だからいろいろな主義を持つ他者のことなどはひとまず脇においておいて、己自身が安穏の中に入り込むのが先です。

「人を説得できてこそ正しい」とか、「人に認められてこそ」とか、「たくさんの人を幸せにしてこそ」などは、理の中では関係がないのです。むしろそれが「関係していると思うこと」こそが無明たるゆえという感じです。ただの条件化ですからね。

所詮、本能レベルの「不安感をなくしたい」という衝動にあれこれやらされているだけで、嬉しいとか楽しいとか幸せ感といった感情すらも、本能に「そうだ、その形だ」と報酬としての快感を与えられているに過ぎないのです。

その状態では永久に安穏は訪れません。

「そうか夢を見させられていただけだったのか」

そんな瞬間が訪れますように。

「がっかり」の先に、揺らぐことのない安穏がやってくるでしょう。

心とは何か

Category:philosophy 哲学

「一切行苦」への3件のフィードバック

  1. 脱したいと思うことすら自分の意識ではないとしたら、この構造から逃れるにはどうすれば良いでしょうか。

    1. 答えになっているのかどうかはわかりませんが、そうした意識を含め、一切について「流れ」として観るようにするという感じになるでしょうか。
      「脱したいと思う」ということも、「構造から逃れる」ということに対する意志も、意識はただ形成された意識であるということを明らかに観るというような感じです。

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