簡単な異なる表現
先日の実験によるダメージから徐々に気力体力ともに回復してきました。現在、8割位の回復です。 またまた、頭の回復のためにちょろちょろ書いていきます。 最近、少し思うことがあるのですが、たまには平易な表現で書くのもいいかなぁ、ということを考えています。 かと言ってB層に合わせるような「ネタ」を書く気はありません。 あれ面白
祖先に対する批判
新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、
商人文化の根本思想
個人的な競争が古代ギリシア人にとって精髄であり、戦争や、勝利や法がローマ人にとって精髄であったのと同じように、商業が精髄である社会の文化が成立しつつあるのを、われわれは今日幾重にも見る。商人は一切ものを作ることなしに評価し、しかも彼自身の個人的な需要に応じてではなく、消費者の需要に応じて評価することを心得ている。「誰が
醜くみえる
適度は自分自身を美しいと思っている。過度なものの眼にとって適度が下品に、平凡に、したがって醜いものにみえるということは、適度の責任ではない。 曙光 361 これは、ウェーイがサラリーマンを見て「ダサい」という時の光景を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。 ある状況にいる人の目線から見れば単に他の状況にいる人
功利主義者ではない
「悪いものがたくさん示され記憶に留められるような力は、ただよいだけのものに与えられる無力よりも価値が多い。」― ギリシア人はこう感じた。すなわち、力の感情は彼らによって何かある利益や名声よりも高く評価されていた。 曙光 360 アイツだましの実験終了記念、というわけではないですが、連投です。ブログを書くことによって頭を
和解させる
一体哲学の課題は、子供が学んだものと大人が認識したものとを和解させることであるだろうか?青年たちは子供と大人との中間にあり、中間の欲望をもっているから、哲学はまさしく青年たちの課題であるだろうか?哲学者たちが現在どんな年齢で哲学の構想を抱く習慣であるかを考えると、― それは、信仰には遅すぎ、知識にはまだ早すぎる年齢年齢
アイツ騙しで強力な執着による集中を呼び出した結果
ご無沙汰しています。bossuです。 最近、自分の体を使って実験しています。 … 別に怪しい実験ではありません。 怪しい実験ではないのですが、だからこそ更新頻度が減っているという点もあります。 では、それはどんな実験でしょうか? それは、一つのことに執着して集中してみるということです。 もうそろそろ実験結果も出ましたの
第800回投稿記念
これで800記事目になります。少し前、「第797回投稿記念&祝二周年」だったため、ある程度趣旨を変えてお送りします。一応800回目の公開の今回、「第800回投稿記念」です。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 相変わらず「靴べらの売上」並にアクセスは安定しています。 やはり「ニヒリズム」や「ルサンチマン」