カテゴリー別アーカイブ: philosophy 哲学

philosophy 哲学 哲学という思考の遊び

思考の罠

思考の罠ということで、思考がすべての展開にブレーキをかけたり、絶え間ない重圧をかけたりしてしまうことや、「考えないほうがうまくいき安らぎに帰する」というようなことについてでも触れていきます。 少しばかり「苦」ばっかり扱ったので今回は明るいテーマです。 なんだかんだで哲学的なテーマは重く感じたりします。その重さは人を幸せにはしてくれないという意味で、哲学は何事にもあまり解決をもたらしてくれないということにもなりますが、あまりに曖昧だと逆に誤魔化されたようで不安感が残ったりします。 まあ思考の罠というタイトルに相応しく

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四苦八苦 あらゆる苦しみ

四苦八苦シリーズが全て完了したので、四苦八苦をまとめておきます。四苦八苦(しくはっく)とは、四苦である「生老病死」に加え、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)といった8つの苦しみを意味しています。 四苦八苦は、もちろん仏教用語であり、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみといった「生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起

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五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)について触れていきます。四苦八苦シリーズ最後の苦しみは、この五蘊盛苦(ごうんじょうく)です。これは、五盛陰苦(ごじょうおんく)、五取蘊苦(ごしゅうんく)と表現されることもあります。五蘊盛苦とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味であり、四苦八苦全ての苦しみはこの五種類の素因への執著から成り立っているということを指します。 五蘊盛苦は、一切行苦の「一切の形成されたものは苦しみである」に最も関連し、おそらく四苦八苦の中で一番馴染みにく

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「求不得苦」求めても得られない苦しみ

「求不得苦」求めても得られない苦しみについて触れていきます。求不得苦(ぐふとっく/ぐふとくく)とは、読んで字の如く求めても得られない苦しみであり、欲が満たされないことに煩い悩むことです。四苦八苦の七番目の苦しみです。 もちろん求めるからこそ時に思い通りにならず、求めるものを得ることができないという苦しみが起こるという感じになりますが、日常の欲だけでなく生理的な欲求というものもあります。そうした体の都合としての生理的欲求への対応も求不得苦といえばそうですが、どちらかというと生苦(生きる苦しみ)の方になると思います。し

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「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみについて触れていきます。愛別離苦(あいべつりく)は、愛するものと別離する苦しみとして、いくら好きで愛し尽くしたとしても、いずれ必ず来る別れからは逃れることができないという苦しみです。 愛する人との死別という形が最もわかりやすいですが、愛別離苦は人との別れだけでなく、人であれ動物であれ生き物との別れというものもありますし、物であれ、環境や情景であれ、好きなもの愛するものと別離することで生じる一切の苦しみを意味します。それは死をもって別れるということも対象となりますし、壊れた、無くな

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「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ

「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみについて触れていきます。怨憎会苦(おんぞうえく)は、四苦八苦のひとつであり、人を含め嫌なもの嫌いなものと会う苦しみです。字面を見ても「怨む、憎む、会う、苦しみ」という感じなのでわかりやすいと思います。「怨み憎むものと会う苦しみ」で怨憎会苦です。 対象が何であれ「好きか/嫌いか」とか「そのどちらでもない」かといった感じの感想を持ってしまいます。いわば判定であり反応です。もちろん、「好きな部分と嫌いな部分がある」とか「好き具合、嫌い具合」というものがあったり、好き要素と嫌い要

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「死苦」死ぬ苦しみ

「死苦」死ぬ苦しみについて触れていきます。四苦八苦の四苦「生老病死」の最後の苦しみである死の苦しみです。死の苦しみについて哲学的に書いていきます。 まず、哲学的に考えると、「生命としての死ぬ苦しみ」、「死の苦しみ」といったものは、矛盾になります。なぜなら死ぬということは生きていないということなので、その経験を経験し得ないからです。「死の淵から生還した」ということはあるかもしれませんが、その場合は「死にかけていたが死んでいない」ということになります。そんな感じなので、死を経験することもなければ、経験することがないゆえ

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「病苦」病の苦しみ

「病苦」病の苦しみについて触れていきます。語るまでもなく病については、ダイレクトに苦しく、痛かったりしんどかったりするので誰しもが実感を持つものだと思います。ただ、「四苦八苦シリーズ」なので触れざるを得ないため、あえて哲学テーマとして、この「病苦」について考えてみましょう。 老苦においても、「病に冒されやすくなる」という側面があります、ただ、老いたから病苦が訪れるわけでも何でもなく、生まれた時から病に冒される可能性は常にあり、それから完全に逃れることはできません。 「完全に逃れること」が不可能という意味で、四苦八苦

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「老苦」老いる苦しみ

老苦(ろうく)、老いる苦しみについて触れていきます。生老病死の生苦の次ということで老苦です。もちろんこれは年老いていくことの苦しみという感じですが、哲学テーマなので高齢者の方が話題にするような「もう自分は若くない」というような点ではなく、もう少し哲学的に考えていきます。 老いる苦しみの中には老化による体の不調というものも含まれているような感じですが、それは病苦の方でまた触れることにして、老いについて触れていくことにします。 生きているということは変化しているということであり、時間すらも「どれくらい変化したか?」とい

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「生苦」生きる苦しみ

生苦(しょうく)という「生きる苦しみ」についてでも触れていきます。四苦八苦のうちの四苦「生老病死」の最初の苦しみがこの生苦です。生苦とは、生きる苦しみのことを意味しますが、基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが「生苦」・「生きる苦しみ」です。 これから「四苦八苦シリーズ」としてあらゆる苦しみについて、四苦八苦の全てに中心にして一度ずつは触れておきつつ、全てが揃ったらまとめようと思います。ということで第一弾は生きる苦しみ「生苦」です。 一切行苦(一切皆苦)の時に少しだけ触れましたが、内容的に少しだっ

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倫理と道徳が陥る罠

倫理と道徳が陥る罠ということで、倫理と道徳について触れていきます。徹底的に書いてもいいのですが、深く触れていったところであまり意味を成さないためふんわり書いていきます。 倫理とは、人が生きる上で、理と関係性の中での基準となる行動基準、いわば秩序としての行為の基準という感じです。単純には「人はどうあるべきか」というようなものということになるでしょう。また、道徳とは、結局ある「道」に関して、つまりある基準の上で「それがよし」とされているような指針という感じで、もう少しふわっとした概念です。倫理と道徳の違いとして、倫理は

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「真理」と「真理とは呼べないもの」

「真理」と「真理とは呼べないもの」について触れていきます。 もちろん「あなた達の言う真理が正しい真理ではなく、私の説が正しい真理だ」というような感じではありません。 真理とは、誰にでも再現可能であり、今すぐに確認できるものであり、誰かの主義や考え方で変更できないようなものです。誰がどう考えたところで揺るぐことのない「理(ことわり)」を意味します。法則というふうに考えても良いでしょう。 真理の定義として、論理的な法則に適合していることや命題が事実と適合していることという感じで考えても良いですが、さらにもう少し突っ込ん

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哲学と未成年の感覚

哲学の領域は、哲学を勉強することで完結するものではありません。柔軟な感覚で自ら紐解き、自ら超える領域であるのが哲学領域です。誰かが考えたことをを理解するということも、自らの検討材料として良いきっかけとなりますが、知り、理解することが哲学ではないのです。 そう考えると、最も重要なのは「未成年の感覚」です。哲学に限らず全ての科学は「何でなんだろう?」と問うこと無しには先に進みません。 ということは、半ば強制的に教え込まれることよりも、「あのとき彼はなぜそんなことを言ったのだろう?」と疑問に思うことの方がよほど科学的な姿

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一切行苦

一切行苦(いっさいぎょうく)、あるいは一切皆苦(いっさいかいく)について哲学的に紐解いていきます。一切行苦も仏教用語にはなり、諸行無常や諸法無我といった単なる理(ことわり)を表しますが、それら2つに比べてやや「どう生きるか」にわかりやすい側面を持ち、生きていく上での認識のあり方をつかみやすい面を持っています。ということで、端的には馴染みやすいという感じです。 諸行無常や諸法無我についても書いたので、一切行苦についても書いておこうかなぁと思ったしだいです。何だかんだで一切行苦という用語もちらほら使っていますが、その要

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諸法無我

諸法無我(しょほうむが)について触れていきます。諸法無我あるいは諸法非我(しょほうひが)は、仏教用語にはなりますが、諸行無常と同じく単なる理(ことわり)を表すにしか過ぎません。 諸法無我についても仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸法無我の正確な説明、解説を示し、辞書的・教科書的に終わるつもりはありません。諸行無常(しょぎょうむじょう)と同様に、諸法無我という理へのラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。 諸法無我は諸行無常と同様に、自分の主義によって変更するこ

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自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

自由意志はあるのか、もしくは自由意志はないのか、そんなことをいつまでも議論している人たちがたくさんいます。 何かと相容れなさそうな哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論にそれほど意味がないことが朧気ながら分かってくるはずです。 どんなことでも、前提が間違っているとその先の論理の展開もおかしな方向に行きます。まあ自由意志についての混乱は、つまるところ無明から起こっているという感じになるでしょう。 これは、何も考えないまま雰囲気で「哲学に意味がない」とか、「自由意志があるのかないのかなどどうで

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緊張と弛緩から観る「今」のあり方

心を語る上でよく緊張と弛緩がテーマとなることがあります。リラックスするための筋弛緩法というものもありますし、笑いの要素の一つとして、桂枝雀氏提唱の緊張の緩和理論というものもあります。 緊張があってそれが弛緩する、つまり緩むということですが、その瞬間に人はリラックスし、人は笑うということになります。 そこでよくよく考えてみたいのが、緩んでいる時は文字通り安穏の状態にあり、イコールで幸せな状態にあるということです。 緊張と弛緩や緊張の緩和理論においては、相対的に緊張と「ゆるみ」が対比された上で語られていますが、「ずっと

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自由意志と洗脳

自由意志と洗脳ついて書いていこうと思います。 自由意志を尊重したいのは山々ですが、まず基本的に自由意志というものはありません。もし、自由意志があるとすれば、それはアイツこと自我の領域を脱しています。 自由意志とは何かを捉えるとすれば、「意志が自由である」ということになりますが、哲学的に見るとそうした意志自体がオリジナルであるのかどうかが疑わしいはずです。 行為を客観的に見た場合、選択肢としての自由はあるように見えますが、意志決定における方向性として「どの選択肢を選ぶか?」というもの、主観的な意志、主観的な選択は本当

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哲学と解釈

哲学することと哲学を学ぶことは大きく異なり、また哲学することと解釈することは大きく異なっています。 ではそれらは何か違うのでしょうか? その根本的な違いは、ある具体性を持ったものの内側を見ようとすることと、具体性を突き抜けて、より抽象化していくことにあります。つまり、具体性を包括しつつより全体的で統合された地点から自己解釈を再構成するということです。 特別企画の曙光(ニーチェ)完了記念ということで、何かニーチェっぽいことでも書いてみようかなぁと思っていましたが、すぐには思い浮かばず、お題を無意識に任せていました。が

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不殺生戒と人を殺してはいけない理由

不殺生戒(アヒンサー)と人を殺してはいけない理由、という感じで、生き物の命について書いていきます。 戒めとしての不殺生戒(ふせっしょうかい)をただの戒めとせず、全ての生き物に対する不殺生について、その本質と不殺生戒の本意について書いていきます。また、不殺生戒と合わせて「人を殺してはいけない理由について」も書きますが、もちろん人だけではなく、全ての生き物に対する殺生を否定することについてが主題となります。 殺生を禁ずる「生き物を殺してはいけない」という戒律、「不殺生戒(アヒンサー)」と呼ばれるものは仏教における「戒め

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「今」に集中することと今をスタートとすること

「今」に集中することと今をスタートとすること、ということで以前にサイト内検索で大人気だった「今  集中」というようなことについて、哲学カテゴリとして少しだけ書いていこうと思います。 「今ここに集中する」みたいな感じで、欧米でも流行っているようですが、あの手のものは所詮と言っては何ですが、「フィットネス代わり」に瞑想を取り入れているという感じで、カルチャースクールのヨガ教室程度のレベルの話に終わっていると思います。 あの手の話における「今。ここに集中する」は、ストレス軽減や集中力アップ、思考の抽象度を上げる、心理的盲

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諸行無常

メインテーマとしながらも、投稿数の少ない哲学テーマですが、あえて「諸行無常」についてでも書いていこうと思います。 諸行無常について、仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸行無常の正確な説明、解説というのを期待されるよりも、この諸行無常(しょぎょうむじょう)というラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。 日本において諸行無常という言葉は、平家物語の冒頭にある「諸行無常の響きあり」という部分のイメージが強すぎて、本来の意味での諸行無常を捉えること無く、印象的に「そうい

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「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している

「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している、なんてな感じで、久しぶりに哲学カテゴリで書いてみます。 なんだか体育会系に多いじゃないですか、こういう「過去は変えられないが、未来は変えられる」というようなことを言いたがる人。 徹底的に哲学的というか論理的に書いてもいいのですが、あんまり難しいのも何なので、少し噛み砕きながら書いていきます。 まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい まず表題に直結したような論理の破綻からいきますね。 まだ来ていない「未来」が確定して

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ニヒリズムと「がっかり」をよく考えよう

ニヒリズムと「がっかり」の先にある境地に行くまでのその手前のお話をしようと思います。 最近しばらくご無沙汰のあとに投稿したのですが、そうするとやっぱり全体的なPVが急上昇するようです。 でも最近の投稿は、どうしても社会に触れた分の社会的な垢の分だけ、社会的なテーマになっています。 それでは常連さんとしては物足りないのではないか、ということで「ニヒリズム」と「がっかり」です。 というよりも、こういったテーマなど久々にどうかなと思ったので、書いてみようと思いました。 何だか最近変な記事と言うか素人が「ニヒリズムについて

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ルサンチマン

ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。 ただしルサンチマンを怨恨や憎悪などの「感情」と解してしまうと誤った方向に行きかねません。「怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ」という辞書的な解釈をすると、単に感情にラベリングをしただけになってしまい

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