「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している

「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻している、なんてな感じで、久しぶりに哲学カテゴリで書いてみます。

なんだか体育会系に多いじゃないですか、こういう「過去は変えられないが、未来は変えられる」というようなことを言いたがる人。

徹底的に哲学的というか論理的に書いてもいいのですが、あんまり難しいのも何なので、少し噛み砕きながら書いていきます。

まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしい

まず表題に直結したような論理の破綻からいきますね。

まだ来ていない「未来」が確定していないのに「変えられる」のはおかしいという論理の破綻はすぐに分かりそうなものですが、いかがでしょう?

「変えられる」ということは、現状「何かの状態で確定している」ということです。

確定しているものを変更する、これが「変える」であり、「変えることが可能である」という場合には、今現在、対象が意識の上ででも確定している必要があります。

たったこれだけの論証ですが、「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻していますね。

未来は、一応今現在意識の上で想像することのできる状態くらいのもので、未来の状態を本当に経験するには、その未来が今にやってくるしかありません。

ということは、その時点で「今現在」ですから、「未来」というものは永遠にありません。

あくまで現時点での意識が未来を想像しているときにだけ、情報として心が受け取っている程度です。

「過去は変えられない」ってもう既に無い「過去」の何?

で、次に「過去は変えられない」という部分ですが、過去自体は既に過ぎ去っているものであり、仮に存在していても不可逆であるはずです。

で、過去というもの自体が確定しているのではなく、過去のデータを今現在どういった風に捉えているのかという解釈を交えた「今現在の認識」しかないはずです。

そこで、「過去は変えられないが、未来は変えられる」なんて言葉を使う人は、過去がタダの情報であることをどう解釈しているのでしょうか。

「過去は変えられない」と言っても、確かに卒業した学校であるとか、戸籍であるとか、両親であるとかそういった客観的なデータは変更できないのかもしれませんが、過去の自分の経験の記憶など、日に日に変化していきます。

すごく辛かったような経験も、その当時、その直後くらいは「辛かった過去」という情報状態ですが、10年位経つとその経験のお陰で現状が楽だというようなことはよくあります。

では、こうした事を考えた場合に過去は変わっていないのでしょうか?

過去は、経験した記憶という情報を現在どう捉えているかくらいのものです。

ということはどんどん変わっていきます。

一度頭の中で過去の認識は確定していますからね。でも既に一度確定したものでありながらも情報なので変化させることも可能であり、また、その後いろいろな解釈の要因となる情報が追加されていくに従い、勝手に変わっていったりします。

過去をベースにして未来を想像し、確定させた上で変更できるという発想

「過去は変えられないが、未来は変えられる」というようなことを言う場合、おそらくですが、過去の経験から未来を予測し想像しているからこそ、「変えられる」といいたがっているのだと思います。

現状から先にあるもの、といっても時間は、自分が未来に進んでいくのではなく、未来が現在に近づいてくるのが当然なのですが、この未来自体は、何も確定していません。

あくまで過去をベースにして、「まあ未来もこんなもんだろう」という予測があり、想像しているからこそ「そんな未来も変えられるよ」と言いたいのではないでしょうか?

ところが、過去の経験が直接未来の出来事の因果関係として成り立つわけではありません。

過去の経験の情報の解釈を現在に持ってきているから未来の出来事の因果の「原因」になってしまうだけです。

しかもこれは、「制限」という属性しか持っていません。

おそらく想像されている「過去」とは、履歴書に書くような項目とか、過去の失敗の経験などでしょうが、そうしたものが直接的に関係しているものでない限り、過去のデータは未来の因果おける「因」にはなりません。

ここで直接的に関係しているものとしての代表例は、「現在50歳だが、小学生になりたい」というようなものです。基本的に50歳という年齢を変更することはできませんし、50歳の人が今の制度上小学生になれるということは規定上不可能です。変えられる可能性として役所にある戸籍の生年月日を書き換えるとか義務教育の対象となっている「小学生」になれるような制度ができたりするかもしれませんが、まあ小学生になどなっても仕方ないようなことなので、特に問題にはならないでしょう。

あと霞が関のお役人のように、「21歳で東大を中退して入省する」というような変なローカルルールがあるところに関しては、相手の都合もあるのでなんとも言えません。

ただ、霞が関のお役人になることが、自分の生き方にとって唯一絶対の幸せの条件であるというようなことはないはずです。

だからそんなことに執着する必要はありません。

未来への制限にしかならない

「過去は変えられないが、未来は変えられる」と思っているということは、過去のデータ、客観的に確定した過去の実績が、今後の全てに影響を及ぼすという「現在の制限」の原因になります。

物事を過去からの延長線上、現在の状態の延長線上で考えるということは、過去を現在に持ってきて、その後を制限するということにしかなりません。

例えば、模試の成績から志望校を限定するということがその代表例です。過去のデータを元に限界を定めてしまうわかりやすい例です。

その過去は本当に「これから」に関係しているのか?

一度くらいは経験があるかもしれませんが、人生が思いがけない形で変わるようなことがあります。

その時、自分が想像しているような過去からの予測による未来予想の範囲外だったりします。

では、「過去は変えられない」と言った場合、仮に変えられないとして、それが何なのでしょうか?

予想外の展開は、過去の因果が関係しているでしょうか?

「知り合いの知り合いから話があって…」というような、人のつながりのような過去の因果はあるかもしれませんが、自分の過去の実績とは全然関係なく、急な展開があったりする場合もあります。

そういう意味で、「自分はこういう風に生きてきたから」というようなことはタダの制限であり、本当は自分がそうした制限さえ持っていなければ、いくらでも楽しい人生が展開していくはずです。

未来は確定しているかもしれないし、確定していないかもしれない

不確定性原理なんてなものもありますが、現象自体も予め物理的な動きの方向性の中での最適化として予定されているとも考えられます。

雲が雨になるその瞬間も偶然ではなく、太陽の位置や気温の変化などの方向性が全て一致した瞬間に雨になり、そのタイミングは関係しているものの状態の中で雨になる前から決定しているといったことも考えられるということです。

今日たまたま100円を拾ったという場合でも、自分がこの国のこの場所に生まれ、こういう性格を持って、この気温の状態では、この時間に起きることが大体決まっていて、こういう行動を起こしといったような感じです。一方で、100円を落とした側も同じように、100円を落としやすい性格であったり、普段は落ちたことに気付くもののそのタイミングで電話がかかってきたり、といったことも、万物のスタートからの最適化によって、決まっているという可能性も、哲学的に考えればゼロではありません。

もしこうしたように、万物の流れや動き、変化が方向性の中で確定しているのであれば「未来」は確定していることになりますが、この場合は、自分がどうこうして確定を変更できるという属性のものではなくなります。

自分が変えたと思っても、そのタイミングで意識が変わり、未来の因果が変更となることが最適化の中で予定されていた、という構造になります。

こう考えると、「未来は変えられる」という事自体が、変えられるのではなく、「現象の中で『今まで想像していたことが変化する』ことが予定通りに進んだ」ということになります。「自分が変えた」のではありません。

こうした感じで考えると、未来は確定しているようにも思えますが、一方で、未来に何が起こるか自体はいま現時点での想像の領域であり不可知な領域です。

しかしながら、現在の状態によってその方向性は変化します。すごく厳密に見ると、その現在の状態自体が予定されているともとれますが、ここではそれをさておいて、今現在の状態が、何かの情報などがきっかけで変化した場合、当然に未来からやってくるものも変化していきます。

例えば、先ほどの模試の例で言えば、模試の点数で志望校を限定することは、制限をするだけなので、もっと高い地点に自分を置いてみるということを本当にした場合、それまであった「限界」や「制限」が無くなるので、本当に未来が変わっていきます。

これは「過去からの因縁を現在に持ってきて未来を制限するということをやめた」という、現在の状態の変化があるからです。因が変化します。

「未来を変えよう」と考えるのは錯覚です。

なぜなら未来は現状の自分の認識できる範囲で確定しておらず、確定していないものは変更できないからです。

このブログの背景色を黒っぽい色からスカイブルーに変えようというのは変更です。

これから先作る新規ブログの背景色はまだ決まっていません。

「何となく白にしようかと思っていた」と言うのは意識の上での暫定的な確定です。しかし現実に作成予定でまだ姿形ができていないブログが白背景になっているわけではありません。

そして「何も決めていなかった」

という場合は、根本的に意識の上ですら確定していない事柄です。

それをどうやって「変える」のでしょうか?

そういうわけで、「過去は変えられないが、未来は変えられる」は根本的に論理が破綻しています。

で、未来からやってくる出来事は、今の状態がどうあるか、今現在どんな制限を保有しているかによって、姿形が変わってきます。

こんな投稿を読んでしまったあなたの未来も、少しは「今まで想像していたもの」から変化してしまうことでしょう。

今まで自分が経験した過去の記憶や、「現状、履歴書にかけるような社会的証明」など度外視しても大丈夫ですよ。

好きなだけ、無限大に幸せになってください。

Category:philosophy 哲学

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