同情と共感

同情と共感についてまとめておきます。同情と共感は似ていますが、己の心にどう影響するかが全く違うので、似て非なるものとしてその違いについても触れていきます。

英語的な話をすると「同情」は「sympathy」であり、「共感」は「empathy」と言う感じになりますが、もちろんそれが心理学者なのか哲学者なのかといったことを筆頭に、その言葉を扱う人達によって若干の定義は違ってくるでしょう。

しかしながら、概ね同情は、相手の感情に同化し一緒に感情を味わうこと、共感は、相手の感情を理解することといった感じです。

同情とは、主に「不幸な状況」にある相手の感情に同化することであり、共感とは、単に相手の状況を理解し感情を理解することという程度のものです。しかしその違いはまだまだ奥深いので、相違点については後述します。

さて、ニーチェの曙光を見直していたら、やはりニーチェという感じで「同情」がつくものが結構ありました。ということでリスト化しておきます。

やはり同情が多く、共感はひとつしかありませんでした。「同情の禁止」というのが大好きなのでまあ仕方のないことでしょう。

ついでなので同情と共感についてもう少し詳しく書いていきます。

同情と共感の決定的な違い

では、まずは似ている概念ながら異なる概念である同情と共感の決定的な違いについて触れていきます。もちろん人によってそれぞれの言葉の解釈や定義付けは違うでしょうが、だいたいの感じで示してみます。

同情と共感は、共に相手の感情を理解するというところくらいまでは同じですが、その次元やベクトルが大きく異なり、行為の動機や奥にあるものがどちらかによって、行為の持つ機能も大きく異なってくると言う感じです。

ではそれぞれについて見ていきましょう。

同情とは何か?

まず同情とは、主に「不幸な状況」にある相手の感情に同化することであり、一緒になって負の感情を味わうということになります。

同情される側にしてみれば、力の不足、不幸な出来事という現状の認定を強化することになり、逆に同情する側としては、相手の感情に同化することで負の感情を味わうことになります。そしてその中で、両者の共同作業として「現状の中で評価できる」ことを探そうとするようなことが行われたりします。現状を認定した上で各要素をそれぞれを評価したり、良かった点を見つけたり解釈変更をしてみたりというような感じです。

例えば、僕の友人で「小学生の時にお父さんが急に高飛びした」と言う人がいます。その友人に対して「かわいそうだなぁ」と思い、「大変だったなぁ。僕なら耐えきれないかもしれない。ひどいやつなだなあ…でもそれは君に与えられた試練だ。乗り越えられる試練しか与えられないのだから、元気出せよ」などと声をかけるのが同情です。

さらに、同情には同情する側による「他人を踏み台にした自尊心の充足」というものが見え隠れします。そのあたりは後述するニーチェが示した「同情の禁止」で詳しく触れることにしてます。

共感とは何か?

一方、共感とは、単に相手の状況を理解し感情を理解することであり、相手の状況、相手の感情を理解しながらもその状況を判断せず評価しないというような感じです。単純に「わかるよー」というだけであり、共感される側としては相手に理解をしてもらえたという感想にとどまり、共感する側としては相手の感情に引きずられることもないので感情的な苦しさはやってきません。

例えば「その理論やものの見方に共感する」という場合、共感した側としては、理論やものの見方、そしてその奥にある感情や意図を理解し、それに同意したということにとどまります。特に感情的に引きずられているわけではありません。

さらに例えるならば、先程の「お父さんが高飛びした友人」に対して「ギャハハハハハ!強烈やなぁ!」と爆笑するのは共感です。僕は常にそれを選択していますし、その話を聞いた時も爆笑しました。

そしてただの共感であるならば、出来事に対する意味付けを劇的に変えることもできるのです。

同情ならば、その状況をその状況として認定した上で、そこから這い上がるということをしなくてはなりませんが、共感によって爆笑した場合は、「これは笑うことなのだ」と言う形で、思い出のあり方が変わります。

同情の禁止

さて、一応ニーチェの曙光の中の「同情」をリスト化することを目的としただけのページですので、ついでに「ニーチェ的な同情」と「同情の禁止」について触れていきます。

まあ有名なアフォリズムは、曙光 185の「乞食」であり、「乞食は禁止すべきである。乞食にやるのは癪にさわるし、やらないのも癪にさわるから」というやつです。

しかしまあまあニーチェ的な同情にまつわる発想を簡単にわかりやすく示すと、「ルサンチマンの否定」と言う感じです。まあ詳しくは「権力への意志」などをご参照いただくことにして、概要だけ書いておきます。

同情の禁止という概念は、弱者が強者に対して嫉妬心を持ちながら、貧困や虐げを肯定し「それこそが神の子の証だ」という発想をすること自体に対する糾弾のようなものになります。

さらに同情の中には、「苦難に同情できる私は素晴らしい」というようなものもあり、同時に「相手よりも私の方が優れている」とか「同情している側の方が力が上だ」ということを感じたいというようなスケベ心があるというようなことを指摘したりしていたようです。相手に対する軽蔑が含まれているという感じです。

「同情してあげることは素晴らしい、聖者たる証だ」と思いつつもそこには相手に対する軽蔑が含まれており、「自分たちよりも下のものを見つけて自尊心を満たす」ということをしているじゃないか、というようなことになります。

そして同情とは、相手の感情に同化するという感じなので、そうした貧困にあること、虐げられていること、そして「我らこそが美徳の象徴である」という解釈変更を肯定し、そこから脱しようとはしないこと、力強いものになろうとするきっかけを奪うことを問題視したと言う感じです。

また、「乞食」でも触れていましたが、同情してしまった場合、自分も気分が暗くなりますし、相手には「憐れみ乞い」という条件パターンを強化してしまうことにもなります。その方法論を肯定してしまうことにもなるのです。

まあ日常でも、同情するということをもって「自分よりも下の人達を見て自分を高めている」というケースもよくあると思います。

また、グチグチと愚痴の言い合いをしている人たちは、それを言い合うことで、その現状を肯定しながらも、誰かから憐れんでもらうことで虚像たる自尊心を高めようとしていたりもします。

「大変ですねぇ。うちも大変で」

「そうでしょう?うちも大変だけど、おたくも大変なのね」

「うちの稼ぎじゃね。あそこの家が羨ましいわ」

「でも、きっと悪い事して儲けてるのよ」

「そうね羨むようなものじゃないわね。心はきれいでありたいものね」

「あんな仕事をしてまで金持ちになりたくないわ」

「でも生活は楽にならないわね。毎日大変よね。誰かに私達の大変さをわかってほしいわ」

「でもいつかは私達の苦労はわかってもらえるわよ。その時までの辛坊よ」

「年金はもらえるのかしら」

「医療費はどうなるのかしら」

「くたばれ!言い訳!僻み!底意にある軽蔑!

大変ならば大変と思わなくていいような状況になるまで、気になることがあるなら気にならないような境地に立てるまで己を高めよ!

同情により心の奥では相手を軽蔑し、それにより己の心を補いながら、強者に対する嫉妬や怨恨を禁欲と清貧によって諦めた者たちよ!

その先にあるものは頽廃である。生を肯定せよ!」

というような感じでしょうか。まあだいたいですが。

共感し大いなる関心を寄せる

さて、次に共感について少し触れておきましょう。

共感を勧める人は結構いますが、有名どころはアドラーやデール・カーネギーあたりでしょうか。「共感し大いなる関心を寄せること」や「共感を得ること」の重要性をよく説いたりしているという感じです。

そういうわけで胡散臭いコンサルなんかが「共感しよう」とか「共感を得よう」というようなことをよく吹聴しています。

ということで、「共感を装う」ということが社会の中に結構蔓延していたりします。

「相手に共感して、相手に共感してもらわなければモノは売れない」

と言う感じで、共感というキーワードを用いてそれを装うことを勧めていたりするので笑ってしまうことがあります。

相手の意志や感情を理解するということや、こちらの意志や感情を理解してもらわないと話は進まないというのは当たり前といえば当たり前ですが、だからいって興味もないのに共感しているフリをするとか、理解していないのに理解したフリをするということは少し違うのではないかと思っています。

まあ感度のいい人にはバレていますから、わざわざ問題にするほどのことではないのかもしれません。

他心通

まあまたいつか書くことにしますが、他心通という人の状態を読み解く能力があります。究極の共感ですので、ついでに少しだけ触れておきます。まあ話半分くらいの感覚でどうぞ。

本来他心通とは、その人の心の状態が読み取れるというような意味ですが、一応いわゆる「人の心を読むことができる」という能力です。LIVE A LIVE近未来編の主人公に憧れていたものの、本当にそんな神通が起こりうるとは思っていませんでした。人によって出る人でない人がいると思いますが、まあ、開眼云々をさておいてもある程度人の心は読むことができるようになると思います。

普通、人の心を読むとなると、動作がどうとか、目線がどうとかそうした「誰にでも分かるような方法」が着目されますが、他心通はそうしたチンケなものではありません。

人だけでなくあらゆる生き物の心を読むことができるようになります。究極の共感です。

といってもオカルトチックに感じると思いますので、からくりを概説しておくと、心はあくまで認識する働きであり、その心の位置のようなものを移動させるだけでいいと言う感じです。移動というのも変ですが、表現するとするならばそんな感じです。ある程度の集中を必要としますが、たったそれだけのことになります。自我によって分離の感覚があるだけで、もともと分離はしていないのですから別に不思議な事でも何でもありません。

そういうわけで、心の状態などすぐにわかるので、すぐに共感はできるのですが、もちろん同情はしません。

共感のすごさ

共感自体はそれだけで一つの安心感をもたらしたりするので、それでいいのですが、それよりも大切なのは共感後の行為のあり方ではないでしょうか。

女性は共感力が高いとよく言われていますが、確かに共感力が凄まじく、そして人によってはその後の行為のあり方に脱帽することがあります。そういうわけで他心通など特に必要がないと思います。

まあ一番わかりやすい例としては、理解者のおばあさんでしょうか。そしてそれ以外にもたくさんの「すごいなぁ」と思うような経験がありました。

動物はエライという境地」で少し触れていましたが、哲学書を筆頭に聖典の類や論理学の本を読み耽って頭がパンクしていた僕に対して、当時の彼女は「一緒に動物園に行こう」と誘い出したりしてくれました。

実際に動物園に行ってから「この人は天才だ」と思いました。

あと聞いた話ですが、精神疾患で会社を退職になったあと、奥さんが「これで念願の家族旅行に行けるね」と言ってくれて気持ちがホッとしたというようなエピソードがあります。

こうした形が理想的な共感のあり方になるでしょう。

そして同情と共感を捉える上で最もその違いを示していると思います。

Category:miscellaneous notes 雑記

「同情と共感」への2件のフィードバック

  1. ぼっすーさん、こんにちは。

    私は一対一で人と話すことが好きです。

    冗談は好きですが、uuuマン!とかそういうことを言うのが好きなので、人に迷惑をかけないよう、基本的には自分の面白いと思うことを言わないようにしています。ただ、頓珍漢な答えは他の人にも面白いと感じてもらえるんじゃないかと思うため、モテとか恋愛系の話になると自分の意見としての頓珍漢アンサーを言っています。恐らく私をキモいと感じる人は多いと思います笑

    すみません、いきなり脱線してしまいました。自分の存在、自分はキモくない、つまらない人間ではないんだということを認めて欲しいという意図があっての自己開示でした。

    一対一の話です。

    好きというよりか、上記のことを面白いと感じているため、消去法的に一対一でしか話せないのかもしれません。考えれば考えるほどわからなくなってきます。

    ただ一対一で話す時、大抵は相手の生きづらさに関することを聞きます。そして私は目が潤んできます。そんな時、相手も潤んでいることが多いです。

    基本男性と話す時なのですが、特に父親と話す時がそうです。

    目が潤んでいる時はもうチラ見くらいしか目を見れません。

    人の目を見ることができない時は大抵、自分の心を読まれたくないという防御反応だと自分の中でわかってきました。

    別にどんな時も凝視するかのように目を見て話したい訳ではないのですが、こうなってしまう理屈というか構造が知りたいです。

    自分の弱さを知られたくないということなのでしょうか。でも私は弱い自分を曝け出すことが多いです。アイツのいう孤独という恐怖心が、自分と同じように生きづらさを感じている”他者”の発見を通して薄らぎ、一時的な安堵をしたからなのでしょうか。

    毎度、読みづらい質問ですみません。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      (少し面白かったですが、語から派生する印象や検索への影響を考え一部イニシャル系の変換をさせていただきました)

      さて、目についてですが、目と目が合うとき、想像以上に無意識の情報伝達が行われています。
      相手の目を見れないというとき、大部分はおっしゃる通りの「自分の心を読まれたくないという防御反応」という感じの作用が働いています。

      それに関連しますが、「相手からの評価」というものだけでなく、相手が鏡となり、自分の意識の奥が相手から反射するかのように自分にも映ってしまう、ということが起こります。
      そうした時、「自分自身を直視したくない」、「実は意識の奥底で気づいていながらも蓋をしている部分を見たくない」というようなことから、相手の目を見れないということが起こることもあります。
      既に誰かに話し、そこまで深刻にはならないと既にわかっているような部分を筆頭に、あくまで自覚している部分を先手を打つように出して、はっきりとは自覚していない深い部分を覆い隠すというようなことが起こっているのかもしれません。

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