僕は、人生で何度変わったのでしょうか?
おそらく数え切れないほど細かな変化があり、幾度となく大きな変化もあったはずです。
よく「他人は変えられないので、自分が変わるしかない」などということが語られます。
そうした言葉で注意したいのが、相手を受け入れるという時に、相手に合わせるということばかりをしてしまうことです。
仮に自分しか変えられないとしても、相手に対するパターンを変える際に、「冷徹で暴力的で残虐な方に変わる」ということはあまり語られたりしません。
もちろん、そうしたことが、全く語られないこともないとは思います。
ただ、「相手が変わらないのであれば、自分が不都合を受け入れるしかない」という視点になりやすいので、アンチテーゼ的に逆の極端も考えておいた方が良いのではないかと思います。
今まで相手からの提案で「やってみよう」と思ったことはありますが、それが行き過ぎて向いていないところまで行ききってしまったことも数多くあります。
単に相手の都合だったり、相手の支配欲だったりで、僕は従属しているつもりもないのですが、相手は僕を「道具のように扱うような勘違い」を始めることもありました。
一種の自己効力感のない人たちが、効力の実感を感じたいがためにそういうことをしてくることがあります。もしくは共感性が全くない人が平気でやってくるか、支配欲でやってくるかというような感じです。
取引というものではないのですが、相手からの要求とこちらからの要求のバランスが崩れている場合、明らかにそれはおかしい状態です。
その明らかにおかしい状態を示した作品に「ゴリオ爺さん」というものがあります。それは文学的には素晴らしいですが、個人的にはゴリオ爺さんを一発殴ってやりたくなる場合があります。
そういう感じで、一発殴る作品が「冷たい熱帯魚」だと思っています。
他人を変えるには
他人は変えられないということが言われます。
しかし、変えることができます。常に変化していますから。
自我自体が「関係性」でできています。
たくさんの対象との関係と重要度のバランスで今、そうした状態であるという感じです。
ある程度固定的に見える部分もあります。
しかしそれは重要度が高く、関係性が強いというだけです。
その固定度合いによって「癖」や「気質」や「人格」などと表現されます。
しかし関係している対象も変化します。
対象の状態が変われば、関係性は変化します。
ただここで考えたいのが、自分の自我が望む通りに変わるかどうかというところは、たいてい難しいということです。
特に現状の自分をほぼ固定化して、その上で、自分の都合の良いように相手が変わるかというと、それは関係性と重要度の面から考えてもさほど希望を持つことはできません。
そこで、「自分しか変えられない」というような概念が出てくるわけです。
しかしながら、たいていは、「諦めろ」「相手を受け入れて」等々しか頭には浮かびません。
そこで推奨したいのが、一種の超人的態度です。
例えば、俗世間的な感じで考えれば、職場でいじめられていた人が、いじめてくる上司なり何なりに金槌を投げたとします。
関係性が変化しないはずはありません。
物理的暴力を出さなくても、何かしらの策略を練ったりして実行すれば変わります。
現状の自分ではありえないというレベルの冷徹さ、暴力性を出すという感じで行くと、相手が変わることがあります。
しかしながら、それは自分の望む通りになるという変化ではなく、去っていくという変化かもしれません。
よく「自分がいなければ相手は成り立たなくなる」と思い込む人がいます。
成り立たなくなれば良いのです。
まあたいていは寄生先を変えて図太く生きていくでしょう。
ポイントは、「成り立たなくて結構」という自分の変化です。
これで「依存関係」に亀裂が入ります。関係性が変化します。
単純なことです。
ヒステリー
ヒステリーとは何なのかと言うと、結局本来は精神が弱い者の支配欲です。
うまくいかないことを、発狂して、誰かに解決させようとすること、という感じです。
解決策を自分でも知っているのに、その解決策を自分で行うことに抵抗があり、できない状態になって、行き詰まりを感じているだけです。
例えとして端的には、金欠になったニートが家族に叫ぶようなものです。働けば解決するのに、「今まで何してたの?」と面接で聞かれるのが怖くてできない、というだけです。
「子どもを留学させてやりたい」と言いつつ、自分では一円も用意しない人のようなものです。そう思うなら自分で資金を用意すればいいのに、ということです。
で、叶わないと絶叫するという感じです。ヒステリーというものはそのようなものです。
元々自尊心が欠落し、身体的不快感も生じていて、何かしらの解決策として何かをやろうとはするのですが、それを実行する方法として金銭が必要なのですが、社会で働くのは怖いので、身内等々にタカるということしかできないものの、それが叶わなかったので叫ぶ、という感じです。
もちろんこれは構造の例で、金銭面だけではない場合も多々あります。
自尊心が欠落していてつまらないが、モテているかのような感じを感じるとそれが埋まると考え、周りにいる後輩の方がモテていたらキレる先輩なども良い例かもしれません。
構造としては簡単です。
社会関係性から考えれば「厚かましい」の一言です。
身の回りで、こうしたヒステリーが起こった時は、「成り立たなくて結構。破綻してください」と冷徹になっておくことです。
ただ、友だちが一時的にこのような状況になってしまうことはあります。しかし、それは一時的なもので、かつてからの関係性において、平常時は大丈夫だということであればそのような冷徹さは必要ないのかもしれません(しかし、本当に友だちなら、当たることもしてこないとは思います)。
自我のバグ
さて、一般論が続きましたが、ちょっと深めに進めていきましょう。
他人との関係性も、自分の世界の中の情報の関係性で生じています。
自分しか変えられないというのは当然と言えば当然です。
しかしここでいう自分とは、自我という狭い枠組みではなく、この世界というか一つの宇宙、つまり自分だけが認識している、自分の世界そのものを指します。
そしてそれを変えるというのは、自我が思う通りに変えるというのではありません。
そしてさらに、それは現状を分析して、変化させていくというものとも少し違います。
他人との関係性は、自分の中の「他人」と、自分の中の「自分としての自我」の関係性です。
少しわかりにくいですが、自分=世界(宇宙でもよいです)の中の、一つの情報状態としての「他人」と、臨場感の高い自分的な意識のある「自我の視点(これも情報状態)」の関係性ということになります。
ここで「相手を優先する」という自我があった場合、自分の世界において、「認識する働きである『心』を中心に持つ自分」を後回しにしているという構造が生まれます。
そして「相手を優先する」の裏には、たくさんの概念があります。
良心、倫理観だったり、生存戦略的なものだったり、様々です。
この概念の集合体は「自我」です。
では少し視点を高めて、この「自我」と「自我が想定している他人」を俯瞰し、構造を把握してみましょう。
といっても、これも自我の内側ですが、関係性の歪み、つまりバグを抽出することができます。
なぜ、「認識する働きである『心』を中心に持つ自分」が後回しなのだろう?
つまり、自分を蔑ろにしている自分(自我)が浮き彫りになってきます。
こうして自我のバグが浮かび上がってきます。
それをデバッグしてみてください。
