父への評価と仕事や資産
よく父との仲や父への評価と仕事運や金運は大きく関わっているというようなことが言われます(なお、お父さんがいない人は、対象は父性の象徴になるというだけです)。 確かに過去を振り返ってみたり、今現在でも周りを見渡すと「不本意なフリーターのような状態や引きこもりニートになっている人(主に男性)」はたいていそのお父さんを嫌っています。 もちろ
弱気と縋り根性の破壊
毎年、年末年始には親友と遊ぶことにしています。彼とは四半世紀という長年の付き合いの中でお互いの「自分では見えない部分」の情報の歪みを矯正し合っています。 今年も例年のごとく彼がやってきて、「自分では見えにくい悪しき情報」の抽出を行ってくれました。 前回の「他人の都合と抵抗」における「他人の空間に引っ張られる」とはつまり一種の「弱気と縋
他人の都合と抵抗
他人の都合というものは厄介なものです。 何が厄介かと言うと、時に「自分を尊重する」というものと「相手を尊重する」というものがぶつかるからです。 抽象化して統合された都合を発見できればいいのですが、相手が狂っていたりすると、相手の都合ばかりが迫ってきたりします。 そうした感じで迫られた時に、「相手の都合や状況も理解できるからなぁ」と思っ
顔の好みを超えた本能レベルでの拒絶
大変失礼なのですが、僕は人生で数回、女の人の顔を見ただけで吐きそうになったことがあり、一度は本当に目の前で吐いてしまったことがあります。 容姿の美醜というより、好みの顔ではないというものが大きく、理性で考えると「個人的感想として、美しいというわけでもないが、その人の顔を好む人もいるだろう」というような感じだったりもします。 本当に「本
新年 2025
あけましておめでとうございます。 2025年になりました。 元日は例年のごとく白味噌の雑煮を食べました。 ちなみにこの白味噌ですが、たいていスーパーでは主に二種類の白味噌が売られています。この時、「四条堀川らへんの白味噌」を選ばないと「スプーン7杯でこの白さ」的な騙しを食らうことになります。 きゅうりの古漬け そういえば年末に正月準備
さよなら2024
2024年が終わります。12月生まれということで41歳になりました。数え年で42歳厄年です。流れ作業についていけるかもしれない、黒夢のファンでございます。 ということで、2024年の思い出についてでも触れていきましょう。 数々の「試練」 今年は数々の試練を与えられるような年になりました。 試練感にはいくつかの「山」があり、それぞれなか
吠えたける悪魔との戦い
今に始まったことではありませんが、なぜか僕には吠えたける悪魔が常に挑んできます。 その吠えたける悪魔との戦いを何十年も繰り返しています。 おそらく元々は、父の中にある「劣等コンプレックス」や「愛着障害や承認欲求」のようなものです。そこに「社会的洗脳」というものが絡み、エネルギーの逃げ道を塞いでいます。 そのイメージが直接間接を問わず僕
「爆笑」の世界を選択するとどうなるか
知識の習得という逃避と内なるものへの実践のスピンオフ的に「爆笑」の世界を選択するとどうなるか、という点について触れていきます。 かなり俗っぽい例となりますが、「爆笑」の世界を選択すると、「ヒゲ、メガネの面白さ」が見えるようになります。ヒゲ、メガネがやってきて爆笑させてくれるという現象が起こります。 個人的な意図はないのですが、先日、家
リソース不足と他責思考
リソース不足と他責思考についてでも触れていこうと思います。 会社経営であれ、育児や介護といったものであれ、何かがうまくいかないと他責思考になる人達がいます。 たいていは「初めの見積もりが甘かっただけ」ということが原因なのですが、他責思考に陥っていては解決してくことはできません。 大切なのは高い視点と意図を持つことです。 「最初の見積も
やたらと物をもらう「受け取り運」のようなもの
前回の予告通り、やたらと物をもらう「受け取り運」のようなものについて触れていきます。 僕の妻は、僕がびっくりするくらい人から物をもらって帰ってきます。主に食料品です。 僕は僕でどちらかというと物ではなくなぜかお金をもらうことがあります。勤め人時代、なぜかお客さんに「お金あげよ」といって相当な数の小銭の入った袋をもらったこともあります。
情報を外に出すことによる調整
情報を外に出すことによる調整ということで、個人的備忘録を書いていこうと思います。雑記らしい雑記です。 少し前に「外に出すことと内に秘めること」で、ブログと対人運の相関について触れていましたが、「その後どうですか?」と思っている人も一人くらいはいるかもしれません。ということで、少しだけ触れていこうと思います。 変化としては抜群の変化とい
絶望の価値
実は絶望には考えられないような価値があります。 どのような価値か? それは世界を捉える歪みを正し、曇を取ることです。 世間的な表現をすれば「自分を取り戻す」ということになります。 絶望というものは、望みを持たないということです。 その時、「自分」を構成する全てとの関係性をひとまず切ることになります。 そして「現実」から離れます。 そし
十二月の憂鬱
毎年十二月になると、月の中ほどまでの間に激しい憂鬱がやってきます。その重圧は、十一月の後半くらいからやってきます。 振り返ってみると、夏の暑さが厳しかった年ほどそうなる傾向にあります。また夏や秋にスケジュールを埋めすぎるとそのようになりがちです。 ここ数年は、毎年のように十二月になると限界に近づきます。 睡眠と栄養の不足、そして「他人
あてにならない専門家たち
ここ数年「あてにならない専門家たち」に出くわす機会が増えました。直接話をしたときにも「頼りないなぁ」と思うことが多く、また多少専門的な本を読んでも「答えになってないじゃないか」というようなものが多く、結局何の頼りにもならないということをよく経験しました。 考えてみるとそうしたことが起こるのは育児や医療、介護の分野でそれまで慣れ親しんで
耐え難きを耐えるわけがない
個人的にですが、基本的に「耐え難きこと」を耐えるわけがありません。そこで自分にとって最も耐え難きこと、怒りが沸点に達するポイントは何なのかという点ですが、それは端的に「頭の悪い人が主導権を握り、決定権を持っていること」です。 世の中では「バカでもいいんだよ」「アホでもええねん」というようなことを言う人がいます。その人に何の権限もなくそ
日々の花束
先日11/22はいい夫婦の日でした。そうした日に、妻に花束の一つでも渡すということはどれくらいの家庭で行われているのかは知りません。 そうした日に限らず「日々の花束」ということで、僕の中ではランダムに花束を渡すということにしています。 属性として妻や母であったとしても、どれだけ年齢を重ねても「女の子」という部分がなくなったわけではあり
介護や育児の道しるべとしてのリテラシー
介護や育児というものは疲弊すると言われています。普通に考えるとその通りです。 しかしながらそうした疲弊をできるだけ低減させるということは可能です。そのためにはリテラシーが必要になります。 疲弊している人としては、「他の家族にやってもらう」という発想をしがちですが、それ以外の方法も実は無数にあったりします。 また、リテラシーが不足してい
外に出すことと内に秘めること
基本的に情報は外に出した方が良いと思っています。それがどのようなことであれ、どんどん外に出していった方がうまくいきます。 良いことでも悪いことでも思っていることはどんどん外に出していった方がうまくいきます。 それは協力者が現れるというような実利的なことだけに留まりません。 一番の利点は意識の向きが良い方向に変化するということです。 外
悪しき伝統や価値観
少し上の世代が持っていた悪しき伝統や価値観についてでも触れていこうと思います。 年齢的に僕は前後世代との狭間にいて、「社会をどう捉えるか?」にあたってちらほら混乱があったような気がします。 そんな中、悪しき伝統や価値観を「僕達世代で断ち切ろう」というようなことをした思い出もたくさんあります。 意味不明な暴力の否定 例えば、ボーイスカウ
「目の前のたったひとりのために」という視点
「目の前のたったひとりのために」という視点さえしっかり持つことができれば、案外様々なことはうまくいきます。 しかしそんなことは何となくわかっているようなことで、使い古されたような印象もあります。ただ、そうした視点を持っているはずなのにうまくいかないということも起こり得ます。 その原因はいくつか考えられますが、ひとつは「目の前のたったひ
人の尊厳と可能性
本投稿で「雑記」400投稿目となりました。ということで、「人の尊厳と可能性」についてより身近に、そしてより深く雑記らしい雑記を書いていこうと思います。 最近「プロ意識が欠如している」というか、「もうちょっとしっかりしろよ」という人によく出くわします。 まあ職業というものをどういうふうに捉えているのかによりますが、たいてい「お金のため」
子供だましへの感想
某マンガ誌においてある特定のマンガに限らず、その雑誌系のアプリ版等の様々なマンガにおいて 「どうやら君は怒らせてはいけない人を怒らせてしまったようだ」 というようなセリフばかりなのは、編集の人がそれを指示しているからなのでしょうか? 子供だまし感はありますが、それはまあ別に構いません。 連載からしばらく経つと、安い性的描写を加えるとい
どうしても取り戻したかった感覚
20代の頃、天川村に行ってから第一の覚醒が起こった時の僕は、その後の人生が全て明るいものになると思っていました。 (その覚醒の詳細は「最初に病が治った思い出の地へ」で触れていました) その調子で行けば、もしかするともっと明るい人生になっていたのではないか、とも思いますが、結局そこから寄り道をしてしまったのはなぜなのか、そして、なぜあの
依頼主側の意図
自分の専門分野だけについて語り、依頼主側の意図を無視するような人によく出くわします。インターネットの普及により情報がパーソナライズされていった結果なのかもしれません。 これは商いに限ったことではありません。いたるところで「話が通じない」ということが起こっています。 専門性に特化していることは良いことのように見えますが、それによって盲点
浦島太郎感からの脱却
ここ数年の僕は、まさに浦島太郎でした。ある程度頭が元に戻ってきた時、社会を見渡すと、「どこだここは?」というような気分になっていました。 コロナ環境やコロナ罹患、そして娘との生活とそれによる睡眠不足、母の脳出血等々、様々な要因によって頭が破壊され、一時的に世界の把握ができなくなりました。一度地に落ちたようなものです。その一部は「感染後
ふと立ち寄る公園
思い出がたくさん詰まった公園というものはいくつかありますが、ふと立ち寄る公園があります。 最近、母が退院したので実家に行く機会が増えたこともあり、実家近くの公園にたまに寄ってしまいます。 昼間や夕方となればいつもは子どもがいたり営業マンがサボっていたりと、誰かがいるのですが、先日、珍しく夕方にも関わらず誰もいないという状況で公園のベン
狂った情報を祓う
多少涼しくなってきてマシになってきている感はありますが、今年は高気圧による暑さが続いたせいか、狂った人をよく見かけます。 また、今年はなぜか身の回りで脳出血を起こす人が続出しています。 すごく細かいところで言えば、やたらと道に飛び出してくる人がいたり、一時停止や左右確認もなしに細い道から自転車が曲がってきたりというようなこともよく起こ
人を動かす
よく「人を動かす」ということについて語られたりします(そういうタイトルの有名な本もありますね)。 ただ、本当は「動かす」というのではありません。普段の日常で考えると一番いいのは「人が勝手に動く」ということのはずです(本来それすら茶番です)。 人を動かすための変なやり方 しかしながら、世間ではどうしても人を動かすということにあたって、変
男と男の一騎打ち
「男と男の一騎打ち」というような機会はさほど多くありませんが、やはり節目節目でそのような感じのことがちらほらありました。 大口の取引や、起業前に職場の上司と話した時等々もありますが、それらはさほど大したことはありません。 人生で一番の「一騎打ち」はやはり、妻のお義父さんに結婚の挨拶をしに行った時です。 ものの数分ですが、妻に対する気合
不安の押し付け合い空間との縁切り
どうも社会において「不安の押し付け合い」をよく見受けます。これは各個人の問題ではなく、一時期の社会状況の変化とその時の情報汚染の影響だと考えています。 端的にはコロナ環境の影響です。その時についた「癖」とその影響による不安が根底にあります。 先に社会状況と情報汚染の影響の例について触れておきます。 体育会系の脳筋感や「脅して人を動かそ