不殺生戒と人を殺してはいけない理由

不殺生戒(アヒンサー)と人を殺してはいけない理由、という感じで、生き物の命について書いていきます。

戒めとしての不殺生戒(ふせっしょうかい)をただの戒めとせず、全ての生き物に対する不殺生について、その本質と不殺生戒の本意について書いていきます。また、不殺生戒と合わせて「人を殺してはいけない理由について」も書きますが、もちろん人だけではなく、全ての生き物に対する殺生を否定することについてが主題となります。

殺生を禁ずる「生き物を殺してはいけない」という戒律、「不殺生戒(アヒンサー)」と呼ばれるものは仏教における「戒め」とされていますが、「定められた戒めであるから守らなければならない」という盲目的な解釈ではなく、あらゆる角度から徹底的に検討してみます。

本ブログ常連さんとしては、僕に限っては、教科書、学術書、聖典等々に「書いてあるから」ということや、口伝的に偉い人が語っていたから、というようなことを理由として納得するようなタイプではないことは、よくよくご存知だと思いますが、一切適当なことは書くつもりはないことを予めお伝えしておきます。

しかしながらもしかすると、言語で伝達するということの限界からすべては伝わらないかもしれません。本来はその人が持っている現時点での状態によって答えは変わるからです。しかし、なるべく可能な限り広範囲で検討していきます(といっても、今の段階で思い浮かぶ範囲です)。

これは先日亡くなった我が息子のうさぎに対するレクイエム的なものです。彼が教えてくれた不殺生と慈悲、そして「人を殺してはいけない理由」について、気が済むまで書いていきます。

おそらく最初の方は、僕という自我によるギリギリの検討、そして後半は智慧によって語ることになるでしょう。そういうわけで、前半は一般的な見解や個人の意見的になりつつ、後半は人によっては理解できない可能性のある「理」として書いていきます。

不殺生戒(アヒンサー)

いままでも何度か不殺生戒(アヒンサー)については書いたことがありますが、これは一応、仏教者が守るべき十戒、五戒のうち、最も重要だとされている戒めであり、「生き物を殺してはならない」というものです。殺生を否定する戒めという感じです。

ただ、「生き物を殺してはならないという仏教上の戒律である」というように、戒律として捉えてしまうと義務教育的に「校則で決まっているから守らなければならない」という盲目的な取り決めのように見えてしまいます。団体が持つ規律の最たる弊害はこうした、自らを拠り所とせずに「決まっているから守るのだ」ということになりがちなところです。

しかしながら一つの提案として、思索のきっかけとして戒めたるものがある事自体に異論はありません。

こうした不殺生戒については、「聖者の人間性」で少し触れていましたが、今回はこの不殺生に関する戒律についてもう少し詳しく考えていきます。

狭義のアヒンサー

狭義のアヒンサーは「ヒンサー=暴力、傷害」を「ア」で否定するという感じで、非暴力、不傷害という意味を持ちます。アヒンサーという言葉は、不殺生と訳されますが、仏教経典にあるような不殺生戒の概念より前にヴェーダ社会の中にもこの非暴力、不傷害として「生き物に暴力を与えてはならない、生き物を傷つけてはならない」というアヒンサーの概念がありました。

ヴェーダの中で哲学的ポジションにあるウパニシャッドに見られることから、ヴェーダの流れを汲むバラモン教(ヒンドゥー教と区別した場合)、ヒンドゥー教、ジャイナ教にもその概念は見られます。

しかしながら、古代インド、バラモン文化の中では祭祀の中で生贄を捧げるという習わしがありました。この生贄という習慣は、祈りのためであるならば、生き物を殺してもよいということです。それすらも否定するのがアヒンサーを不殺生とみる捉え方です。

なお、非暴力・不傷害に関しては、身口意全てにおいて、相手を傷つけることを欲してはいけないという意味を持っています。誰かの体を傷つけることも、罵ることも、怨恨等を筆頭に悪く思うことすら欲してはいけないというものです。物理的に傷をつけないからといって、罵声を浴びせてよいということにはならないという感じです。

狭義のアヒンサーとしては、非暴力、不傷害と捉える場合もありますが、ここでは完全なる「不殺生」として、命あるものを殺めてはならないという不殺生戒として捉えることにします。

生き物の定義

さて、十戒や五戒の中の不殺生戒、つまり「生き物を殺してはいけません」ということが語られていた当時、「植物は生き物ではない」というのが一般的だったようです。また、科学も発達していなかったので微生物の存在は対象になっていなかったというのが本当のところでしょう。

しかし、僕としては植物も生きていて、微生物も生きている、そう考えています。「脳がないから心がない、心がないから命ではない」という風には考えていません。最も厳しく、脳があろうがなかろうが、何かを感じ、環境に合わせて独自の意図した方向性に変化を繰り返す存在を生き物だと考えています。

定義上、「植物は生命ではない」ということを言うのは勝手ですが、少なくとも僕は生命であると思っています。

「可能性があれば生きようとする意志」があるからです。

人だけが偉いという傲り

平等、博愛主義ということで、差別を嫌うキリスト教というイメージがありますが、キリスト教を筆頭としたアブラハム系の宗派(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの宗教及びその派生宗派)にあっては、人だけが神に似せられて造られたということで、人間だけが偉く尊いという観念がどこかにあります。

人間以外の他の生き物は全て「神に似せられ、神の子として存在している人間」のために神が与えたものだ、という解釈が一般的です。

だからこそ、神を信仰しているかという基準を元に、キリスト教を知らない人たちを人間とはみなさず、動物と同様に「神が人間に与えたモノ」として奴隷制度などが始まりました。

人間だけが偉いという前提があり、「人間かどうか?」という基準を「信仰」とし、異邦人を「神への信仰無き、魂の霊性無き存在」としてモノ扱いしました。

これが「宗教団体」としてのキリスト教の歴史です。

「平等」や「博愛」には対象と条件があり、巨大な権力を持つ教会は、様々解釈で差別を作ってきた張本人だと言っても過言ではないでしょう。

ただし、イエスがそうであるとは言っていないことに注意してください。特定の人たちが、社会的な団体として、宗教家として「教会に属す人間」が「いかに神に近いか」ということで人に階層を作り、「人であるかどうか」の解釈基準を作り、差別を作ってきた、という感じです。

しかしながら、アブラハム系の宗教文化のある地域では、基準は人間です。神の下に平等なのは、「神の子」として定義された基準をクリアしている人間だけなのです。

モーセの十戒にある「人を殺してはいけない」という戒め

戒律としての「人を殺してはいけない」という戒めは、モーセの十戒にもあるため、旧約聖書の中にあります(新約聖書を認めていないユダヤ教徒としては、単に「聖書」と表現されます)。だからこそ、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も全て、この戒律(律法と表現したほうがいいでしょう)を持っているはずですが、問題は「人」の定義です。

「人ではない」ということになれば殺してもよい、という解釈ができてしまいます。

そこで、「人であるかどうか」を「信仰の有無」で決めることになりました。そうなればやりたい放題です。

だからすぐに戦争が起きるのです。

そして「人を殺す」ということに関して、「汝、人を殺すことなかれ」とモーセの十戒で禁じられているにも関わらず、「キル(kill)とマーダー(murder)は違う」という自分勝手なウルトラC解釈を行ってきました。

現代でも聖書の文言の正当性には疑いをかけないものの、その文言の解釈において、そうした自己都合の解釈を繰り返しています。

自らを拠り所とせず、本質を捉えようとせず、戒律を義務的に守らせようとすると、こうした戒めはただの制限のようになり、それを解釈で躱すために頭は都合よくフル回転します。

仏教上の不殺生戒

しかしながら、仏教上の不殺生戒は、「人を殺してはいけない」ではなく、「生き物を殺してはいけない」というものです。

そうなると、人の定義の解釈変更による戒律破りはできません。

しかしこれら戒律は、破ったから社会的に罰せられるというような性質のものではありません。

「生き物を殺してはならない。

この場所にいる限りそれを戒めとするよ。なんでだと思う?

でも、不殺生なんて無理よね?

でも、ここでは戒めとさせてもらう。なんでだと思う?」

というところから始まっています。

当時は植物は生命ではないという事になっていましたが、虫を殺すのもダメでした。それが毒虫であっても、害虫であってもです。一応「動く物」という意味での広義の動物が対象となっていたという感じです。

動物はもちろん、鳥も虫も魚もダメです。

一応それらを生命として、生き物を殺してはいけないということになっていました。

しかしながら、植物も命があるはずです。動きもせず、思考もせず、という感じですが、生きています。目に見えないものであっても生きています。

クリスチャン等々、アブラハム系の宗教では、対象が人でしたが、仏教集団の解釈では広義の動物という感じです。

しかしこれでは、アブラハム系の宗教が、聖典と宗教的指導者を元にした宗教にとらわれ、「人とは何か?」という前提で考えているように、仏教教団においても、経典や口伝、指導者の解釈を元にして制限がかかったまま無理に言語的解釈をしてしまっています。

特に日本に入ってきた北伝仏教は、口語表現が主であるパーリ語経典から文語表現のサンスクリット語に変換され、そして漢文を経由し入ってきました。さらに経由途中に道教や「体育会系の教祖、ミスター脳筋の『孔子』が説いた儒教」の影響を受けて、そうした道教や儒教のフレームから仏教が解釈され、日本に輸入されてきました。

そしてその当時の日本人は土着信仰・民間信仰や古神道などのフレームから解釈したはずです。中国を経由し、儒教・道教化され文語表現で意味が限定された経典をさらに当時の日本人が持つフレームから解釈を繰り広げていったの言うのが本当のところでしょう。そうなると特に日本では、もう原型をとどめていないという可能性が十分に考えられます。

しかし問題はそんなところにあるのではありません。「経典に書いてあるから正しい」とすること自体が誤りなのです。

何も考えずに「書いてあることを字義的に厳密に守ること」に盲目的になっていること自体が問題なのです。

なお仏教上の五戒は、不殺生戒(ふせっしょうかい)の他、不偸盗戒(ふちゅうとうかい=盗んじゃダメですよ)、不邪婬戒(ふじゃいんかい=不道徳な性的行動はダメですよ)、不妄語戒(ふもうごかい=嘘はダメですよ)、不飲酒戒(ふおんじゅかい=お酒を飲んじゃダメですよ)であり、十戒はそれに加えて5つの戒律が加わります(が宗派によって見解が異なりますので列挙はやめておきます)。

不殺生戒においても文語表現による言語の縛りで、メタファーを感じるということが削ぎ落とされているというフシがあります。

「書いてあるから。聞いたから」

ということではなく、自ら感じ、考えなくてはなりません。

「他を拠り所とし、それが制限になること」を戒めたシッダルタの思惑とは異なったものになっています。

そういうわけでこれは仏教的矛盾になる一方、「シッダルタが自らを拠り所とせよ」と言ったから、そうしなくてはならないというわけではありません。

何事も、哲学的、形而上学的分野においては、「聖典とされるもの」が正しいのか、正しくないのか、それが本物か偽物か、ということは、議論の対象になりえないはずです。

それらをきっかけとし、自らの足で歩む他ありません。

そういうわけで、まずは命を奪うことが罪である、ということや戒律を破ることは罪である、というような善悪の基準を無くして考えていきましょう。

善悪の基準と罪の概念を外す

まず最初に、「なぜ、人をいじめてはいけないのか」でもお伝えしているように、絶対的な善悪というものは存在しません。一般的に道徳や倫理として語られているそれらは、何かの基準の下の相対的尺度だからです。

唯物論的に客観的な世界が前提となり、社会が前提となり功利主義的に解釈されていたり、宗教や主義などを前提とした判断基準を元に、善悪の定義と現象の判断がなされているにすぎないため、そこに普遍的で絶対的な唯一の基準というものは存在しません。

社会を中心とした主義や宗教的なものを前提として善悪の定義をする代表例は、例えば、「人を殺してはいけない理由」として、「法律で決まっているから」とか、先の例で言えば、「モーセの十戒に人を殺してはいけないという戒めがあるから」とか「仏教的に不殺生戒があるから」というようなものです。

それらが根拠となり、善悪基準で悪となり、罪となりうるには、その前提となる、「法律」や「旧約聖書」、「経典」などをその人が認めているかどうか、というものが関わってきます。

そうなると、それらの基準、前提となっている法律や聖典の正当性が問題となります。何を根拠としてそれらに正当性を与えているのか、その部分は「多数決」や「信仰的なもの」であり、「絶対的に揺るぎない理」というものではありません。

古代ギリシャの哲学者などなど、様々な人が善悪の基準、最高善とは何か、ということをあれこれ考えましたが、どれも可能性でしかありませんでした。

全知全能なら罪を犯さなくて良いように作れ

宗教的戒律、律法というものを見渡した時に、「人を殺すことなかれ」という風に、「これは罪である」ということが決まっているようですが、次のようなことを考えたことがある人はいないでしょうか?

「神が全知全能なら罪を犯さなくて良いように作れ」

という感じです。

なぜわざわざ遠回りなことをして、人を試すようなことをするのでしょうか?

本当に全知全能なら、もうやることはないはずです。

その上で、なぜ不完全なものを作って試しているのでしょうか?

で、全てがわかっているのなら、その先にある結果もわかっているはずです。

ということはただの遊びなのでしょうか?

「全知」なら実験のようなことをしなくても良いはずです。

「全能」ならわざわざそんな遠回りなことをしなくても、完全な物を作ればいいはずです。

そういうわけで、何がしたいのかわかりません。

なお、神が人格神であり完全であるというのは、論理上矛盾します。なぜなら、何かの行動を起こしたり言葉を発した時点で「完全」が崩れるからです。人格を持った時点で完全ではなくなってしまいます。

ひとまず「罪」と定められていることを、「定められているから」とせず、「人を殺すことは罪である」ということを筆頭に、罪という概念を当然のこととせず考えていきましょう。

カントの定言命法

さて、現代の法体系の元となるような考えを唱えた人の一人にイマヌエル・カントという人物がいます。

そして、彼の有名な著書である「実践理性批判」の中にある定言命法といういわば無条件の義務的な命題があります

「君の意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」

というようなものですが、「AになりたければBをせよ」という条件付きの義務である仮言命法と対比して、無条件の義務としての命題を作り上げたという感じになりますが、いわば、これを捉える場合、「普遍的立法の原理」というところで、「社会の構成員のすべてがそれをやったら社会は成り立たない」というようなことを「やめなされ」という感じで考えてみればわかりやすいかもしれません。

人類が絶滅するからという理由は通用しない

「人を殺してはいけない理由」として「人類が絶滅するから」という理由付けは、概ねこのカントの定言命法的という事になりましょう。

しかしながら、これは客観的な世界をメインとした社会的な基準であり、絶対的な基準にはなりません。

なぜなら、目的が「人類の繁栄」になっているからです。

「人を殺してはいけない理由」として考えた時に、目的が人類全体の利益的なものになり、人類で構成された社会的基準としてしか機能しないという欠陥があります。

誰か一人に

「人類全体のことなんて知らねーよ」

と言われればそれまでです。

だから、人で構成された社会における善悪の基準として、「人を殺してはいけない理由」を考えた場合には使えますが、個人をもって考えれば通用しないのです。

この世界を認識するのは個人でしかありません。個人という表現をしていますが、根本的に個人という言葉自体が社会との比較の中でのラベリングであり、この世界を認識しているのは個人というよりも「私」つまり「あなた」しかいません。

そういうわけで、社会の中での法律作りには使えますが、「人類が絶滅するから」というものが絶対的な基準として機能するわけではありません。

人を殺す、つまり殺人が罪であるということを社会が法律として定めるのは、目的が「人類の繁栄」という個人を飛び越えた抽象概念基準になっているからです。

しかしながら、一応各人を包括し抽象化したような概念である「人類」のためということになっていますが、「全生命体」ということにはなっていません。

なぜ「人類」に限定しているのでしょうか?

不殺生戒をとらえる上で、ここでも非常にキリスト教的な発想が出てきました。ルター派の影響を受けたカント発端ですから仕方ありません(まあそれはさておきましょう)。

そういうわけで、いわば、この「人を殺してはいけない理由」としての「人類が絶滅するから」というものは、為政者が法律を決めるときの基準くらいにしか使えません。

社会の構成員同士の「取り決め」として人間社会的な「ルール」としての基準であり、社会基準としての「人を殺してはいけない理由」にしかなりえないのです。

それを破ることを罪とし、社会の安全、人類の繁栄としての目的を達成するための抑止力として取り決めることはできても、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」ということには答えていません。

戒律の弊害と不完全性

仏教上の不殺生戒や律法における人を殺すことへの戒めなど、戒律による解釈には思考上の弊害があります。それは単純に次のような思考をしてしまうことです。

三段論法的に演繹で論駁したり、定義の不明瞭さを根拠に論理を覆してしまうと言った感じです。

不殺生戒によって生き物を殺してはならないとされている

  • ⇒私は仏教徒ではない。よって守る必要はない。
  • ⇒経典の正当性はどこにあるのか?
  • ⇒生き物の定義とは何か?

モーセの十戒に「汝、人を殺すことなかれ」という律法がある

  • ⇒私は、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒でもない。よって守る必要はない。
  • ⇒旧約聖書・新約聖書の正当性はどこにあるのか?
  • ⇒人の定義とは何か?

これら不殺生戒やモーセの十戒は、聖典上に書かれただけのものであり、これらを根拠にする時、その聖典の正当性を「信仰」のようなもので支えるという構造になっており、そうした信仰的な支えがないと成り立たないのです。

ということで、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」ということには答えていません。

なぜ、人を殺してはいけないのか?

問題は、絶対的な理由です。「なぜ、人を殺してはいけないのか?」ということに関する絶対的で明確な理由です。

そこで、絶対的な理由はあるのかというところですが、絶対的な理由はありません。それを求めても、どこにも答えはありません。

人を殺してはいけない理由として、「かわいそうだから」という情緒的なもの、「本能に組み込まれているから」という、論理を無視した逃げ、「自分も殺されるリスクがあるから」という闘争社会的な理由、たくさんの回答があります。

しかしそれらは絶対的な答えになっているでしょうか?

人を殺してはいけない理由として、先ほどの社会的な基準としての法律を根拠とした「決まっているから」というもの、「捕まって法で裁かれるから」といようなものも、社会的な善悪基準による仮言命法的になっています。

「法律で決まっており、犯罪者として逮捕され、刑務所に入りたくなければやるな」

というものですからね。

それは、人を殺してはいけない理由になっていません。理由としての回答になっていそうですが、絶対的な理由ではなく、ルールを前提とした理由だからです。

社会の中で他人を説得するときの材料として、万人による闘争状態における社会契約説的な理由としての機能しかありません。

個人の権利(という表現は変ですが)として考えた場合、個人の自由を最大限に検討した場合は、人を殺してはいけない理由というものはありません。

人を殺す事自体も行動としての可能性的には可能ですし、その他の人間で構成された社会が抑止力や制止力をもって止めているという構造になっています。

それが悪いことで罪であると決まっているということはありませんし、人を殺すことが悪であり罪であるということは、人が取り決めの中で決めたことです。

だから「人を殺してはいけない」というその命題自体が揺るぎない「理」というわけではなく、何かの制限を設け、それを支える根拠と根拠の正当性をもって他人が他人を縛るくらいの構造にしかなっていないのです。

逆に人を殺していい理由

では逆に人を殺していい理由は何でしょうか?

その場合は、自分が殺されないため、身体的打撃を受けないためというような正当防衛的なものから、「自分の不快な感情をなくすため」というようなある種感情的な苦しみからの脱却という理由があります。

これについては、「なぜ、人をいじめてはいけないのか」で近いようなことについて触れていましたね。

では、人を殺していい理由として、「人を殺してはいけない理由としての『本能に組み込まれているから』というもの」をピックアップして裏返してみましょう。

現代ではほとんど満たされてきていますが、古くは日本でも飢餓が問題となっていました。今の環境で余裕があるからこそ、何かを殺さずにいれるだけかもしれません。環境が変われば、そうした「本能に組み込まれているから」という思考が、本能による空腹の衝動に勝てるのかはわかりません。

さて、絶対的な善悪の基準がなく、善悪の基準がないゆえに罪という概念もないという事なれば、人を殺す事自体にも善悪はありません。宗教的、社会的な基準と照らし合わせれば、それが絶対性を持たなくても善悪というものの尺度が出来上がり、罪という概念を作り出すこともできます。

しかし、そうした善悪の基準は人が宗教や主義を持って思考上で作り出すものです。全くの自由をベースとして考えれば、人を殺すという行為自体を制限する普遍的な理はありません。

「一切呼吸しなくても生きていける」という思考を持って、それが現実になることはありません。

また、「私は水を飲まない主義だから、水を飲まなくても生きていける。私が生きるのに水分はいらない」と決めたところで、点滴などもせず本当に水分摂取をしなければ、ある程度の期間を経過したあと死んでしまいます。

だから、個人の思考上の主義や考え方を問わず、必ずそうなってしまうことだけが「理」です。

よく宗教的に形而上学的な事柄に対して「真理」という言葉を使う人がいますが、真理があるとすれば、それは自我目線で思考して決めようが決めまいが、採用しようがしまいが変わることのない「理」、「法則」です。

そうした理をベースとして考えると、人間の行動として「人を殺してはいけない理由」はありませんし、個人の自由を考えるなら、可能性を考えるなら、人を殺してもよい理由はあります。

これを前提として、後ほど不殺生戒と人を殺してはいけない理由について再考します。

普遍的な理としては「人を殺してはいけない理由」はありません。一方で、人を殺しても良い理由があり、人を殺すことができる可能性があるからこそ「戒め」として語られ続けてきたはずです。

そして不殺生戒に至っては、人間に限定せず、他の生命体を殺すことすら戒めています。その本意については後ほど書いていきますが、その前に思考する動物としての人間を脇において対象を自然界の方に向けてみましょう。

自然界における「命を奪う」という行為

不殺生、不殺生戒が語られる上で、よく食事の面についての議論になりますが、自然界においては、他の生命の「命を奪う」という行為は当たり前に行われています。

肉食や雑食であれば、「動いている物」としての広義の動物を食べていますし、草食でも植物を食べています。

大半の動物は、生命を介したものしかエネルギー源にすることができません。

それが他の動物であれ、植物であれ、生命活動を行っていたものを食べるほか、生きようがないのです。

しかしながら、何も殺さないがために何も食べないということになれば、自分の命を殺すことになります。だから八方塞がりです。

仮にそれに気づき、それからは何も食べなくても、生きている間免疫機能が細菌などと戦い、細菌などを殺しています。目に見えない生き物は殺しているのです。

植物は光合成、一部の虫は、蜜を吸ってそれをエネルギー源に変えたりしています。全ての生き物が、それと同じように生きられれば、誰も他の生き物を殺さずに済むのですが、例えばライオンに生まれてしまえば、もう他の動物を食べるしかありません。

そうなると、生まれてきた事自体が罪になってしまいます。

そして、それが罪だというのなら、そもそも生まれなければ良いはずです。

動物の中にはカニバリズム・種内捕食という行動を起こす種もいますし、ライオンなどはオス同士の闘争に勝つと、負けたオスの子孫を根絶やしにするという本能を持っています。

種の異なる動物における本能ゆえの行動ですが、それを罪とする事はできるでしょうか?

本心と言えば本心ですが、自由意志でやっているわけではありません。

植物にしても、全く何も殺していないということはありません。食虫植物はわかりやすいですが、それ以外の植物においても腐らないために細菌と戦う物質を出していたり、一部の植物は、虫に食べられそうになった時に、天敵を呼び寄せる香りを放ったりしています(モクレンなどがその代表例です)。

そうなると、すべての生命体が消滅する以外に、他の生命体を殺すことを防ぐことはできません。そして、自らの命を殺すという選択肢を避けるなら、全ての生き物が、今の世代で生殖行動などを諦め、この世代で終わりにする以外にないのです。

自然界においては、他の生き物の命を奪うという行為が自然に行われています。しかしそこに善悪を持ってきて、その行為を罪と思うものはおそらくいません。

ただ本能に組み込まれた通りに可能性があれば生き続けようとし、なるべく種を残そうとしているというだけです。

そして、それ以上のことは一切していません。

恨みもせず、無駄な殺生もしない

植物に限ってみてみても、仮に生命の保存や種の繁栄を効率よく行おうとするのならば、食べられないための工夫をするはずです。一部の植物は、それを「毒性」によって実現しています。

しかし大半の植物は、あえて毒性を作らず体の構造をシンプルにすることで効率的にということなのか、そうした方法を採ってはいません。

また、もし羊たちがライオンに恨みをもって、全頭が本気を出せば撲殺(?)することも可能なはずです。数頭は犠牲になるかもしれませんが、体当たりや頭突き、足踏みで天敵を滅ぼすことも可能なはずです。

羊や山羊や馬などが「草食連合」として肉食に立ち向かう、ということも可能なはずですが、そうした様子はどうやらありません。

動物同士の争いの際は、逃げるか戦うか、というところですが(謝るとか説得するとかはないという感じです)、概ねまずは逃げを選択するはずです。

そしてどうしようもないときだけ戦う、そうしたシンプルな思考を持っています。

「殺されることを避ける」ということはしますが、仮に家族を殺されても相手を恨んで敵討ちに行こうなんてなことはしません。片足をもがれたからといって恨みを晴らそうなんてなことをしないのです。

また、動物で言えば、殺す側のライオンに限っても、無駄な殺戮は一切せず、お腹が空いたときにしか狩りをしません。人間で言う食事は数日に一度です。そして、なるべく無駄にエネルギーを消費しないようにと、たいてい寝ています。

ライオンはオス同士の闘争で負けたオスの子孫を根絶やしにするという本能を持っていますが、負けたオスとの間にできた子供を殺されたメスは、子供を殺されてすぐに発情します。子を殺されたことでオスを恨むということをしない本能を持っています。

殺し殺されることに罪の意識はなく、一応殺されることには抗いますが、その結果を元に相手を恨むこともないのです。そして無駄な考えは一切なく、無駄な感情も一切なく、無駄な行動は一切せず、ただ自然に「生きている」というだけだったりします。

ライオンとしては、百獣の王ということなっていますが(実際にはおそらく虎のほうが強いという意見はさておきましょう)、「自分の髪型が変だと笑われた」ということで憤慨し、相手を殺しに行ったりはしません。

獲物を狙うライバルとして「豹」がいたとして、「自分たちの獲物が減るのも嫌だから、まずは豹を全滅させよう」とも思わないはずです。

しかしながら、最強のライオンは天敵がいないため、ライオンばかりが増えてしまう、ということを避けるためなのか、オス同士で戦い、負けたオスの子孫は殺され、という形で数が調整されているというフシがあります。傍から見ると不可解ですが、そうした本能の方向性に忠実であり、本能的な行動を起因として誰かが恨み、誰かは恨まれということは特に起こっていないように見えます。

生きるために他の生命体の命を奪うという行動に善悪を検討せず、また命を奪われることについては抗いつつも、自分が殺されても、家族が殺されても、それを恨むことはしないということ、そして、今現在生きるために本当に必要なこと以外、無駄な殺生は一切しない、というのが自然なようです。

そこで人間を振り返ってみましょう。

感情のために必要外のことをする人間

動物たちを畜生と呼んだりして、人間よりも劣る存在として捉えている人たちはたくさんいます。

人間のように知能が発達していないからこそ劣っていると思っていますが、その知能が不自然な思考を作り、意味のない感情を感じ、苦しんでいます。

他の生命の命を奪うことで獲得した大量の食料を無駄に廃棄し、その一方で痩せればモテる、ムキムキになればモテる、運動すれば健康になるということで、無駄なエネルギー消費をしています。

その知能は知性的でしょうか?

合理性を考えれば、無駄なことをしないということが最も合理的であるはずです。

行動としての合理性を考えれば、無駄なエネルギーを使わず、エネルギーの消費は最小限に留めるべきですし、感情としての合理性を考えれば、わざわざそうした知能を限界まで高めないと無駄な感情からは解き放たれないという無駄があります。

何が優れ何が劣り、何が善で何が悪かということや、本題である人を殺してはいけない理由、生き物を殺してはいけない理由をわざわざ論理の限界まで考えないと自分を説得することも誰かを説得することもできず、理由がわからないゆえに煩悶することになるのです。

自然界においては、無駄な殺生は一切行われていません。意図を持って殺生が行われる時、それは空腹くらいしか無いのです。

一方人間においては、感情を高めるため、自尊心を回復させるため、暇をつぶすため、といった自らが動物に対して誇る「知能」や「思考」ゆえの無駄な行動を起こしています。

動物や植物が人間より劣るというより、自然界の知性をベースとして考えれば、気が狂っているのは人間の方です。

命が平等だという時、おそらく世間のそれには「人間」だけの限定がなされているはずです。いいところ、人間が可愛がっているペットくらいまでの範囲です。

自分たちの感情をベースとして歪んだ思考をした結果、自然界の中で誰よりも非合理的な生き方を選んでいます。

全ての生き物は死にたくないと思っている

全ての生き物は死にたくないと思っています。それは思考上で決まるものではなく本能レベルの方向性です。

でないと、今すでに息すらしていないはずです。ところが人間に至っては自殺する人もいます。

ある種本能に打ち勝っているとも言えますが、むしろ思考ゆえの無駄な感情に苛まれた結果であると考えることもできます。

生きる意味を考え、楽しみを追求し、誰かが決めた基準によって優劣を定め、その基準により絶望し、また、生存本能が衝動を与えながら、恐怖心を感じ、歪んだ思考をした結果、恐怖発端の不快な感情に苛まれ、そこからの脱却を意図するのでしょう。

その上で歪んだ思考は、我が親や我が子、配偶者や友人などには死んで欲しくないと思い、一方で、自分とは関係のなさそうな動物や植物はいくらでも死んでかまわないと思っています。

しかし、自分は死にたくないという意図や我が子には死んでほしくないという気持ちは全ての生きものが持っています。

それが蚊であっても、毒虫であっても、父や母がいて、愛を与えられ育てられ、今現在も生きているのです。それと人間の差はありません。

場合によって、我が子に愛を注がないというのも人間だけです。また我が子に執着し、歪んだ愛を送るのも人間だけです。動植物は未来の死について思考せず、ただ「今」を生きています。

生きるということに無駄な思考し、何もないときにでも死を恐れ、慈悲の心を持たない生命体は人間くらいしかいません。

全ての生き物は他の生き物がただそこにいるだけであり、この本能に組み込まれた生命活動に必要なこと以外、無駄な行動もせず無駄な感情も持たず、相手を恨むことも蔑視することもせず、我が子には出来る限りの慈悲を持っているはずです。

人間だけが優れ、人間だけが尊く、他の生き物より優れていると思う限り、彼らからは何一つ学ぶことはできません。

全ての生き物は死にたくないと思っている、ということをもって不殺生戒や人を殺してはいけない理由の根拠とはしません。

なぜなら、「みんなそう思っているのだからやめましょう」というのは、不殺生戒を支えるものとして、はっきりした理屈にならないからです。

それでは以上で一般論はこれくらいにして、智慧により語ることとしましょう。

因縁生起

まずいきなりですが、因縁生起というところからいきましょう。

哲学テーマにふさわしく、因縁生起から、不殺生戒と「あなた」が人を殺してはいけない理由について書いていきます。「聖典に書いてある」とか「倫理学として考えた場合はこうだ」とか「そんなことは決まっている」とか、「法律で決まっている」というような宗教や倫理や道徳といったテーマではないところに注意してください。

本気で書く分、分かる人にしか分からないかもしれません。しかし感情に訴えかけたり、誤魔化したり、嘘をつく気はありません。

因縁生起とは、物事全ては原因と条件たる縁で今現在に現象が生じているというものです。

と言うより、客観世界があろうがなかろうが、「今この状態の自分」自体が因と縁で起こっており、心はその状態を認識しているにしか過ぎません。

全てには原因があり、条件があった場合にそれが生じます。そしてその最先端は「今」です。そして今認識していること以外に「現象」は無いのです。

そして、今現在の苦しみにも原因があり、原因が無くなれば結果である現象、つまり苦しみが無くなります。

なお、毎度毎度言っていますが、原因とはそれが無くなった時に結果も消える対象です。

「誰かに殴られて痛い」という場合は、その皮膚からの信号が原因です。殴った誰かが原因ではありません。その人に殴られたことの発端やプロセスが原因ではありません。

なぜなら、その殴った誰かが今消えても、その「殴られた痛み」は消えないからです。

そして諸行無常ゆえに、それは変化していきます(これについては「諸行無常」をご参照ください)。

常に状態が変化していくゆえに今は変化します。

しかしながらそんな時間の解釈も、今の変化を捉えるからこそ起こります。時間が「存在」しているから、というわけではないのです。

そして、そんな今の現象の状態は、五感と意識によって形成されています。そして意識は記憶によって構築されています。

意識には現在焦点を当てている意識と、それ以外の焦点が当たっていない意識があります。心理学的な無意識の定義は学者によって様々ですが、ひとまず、ここではその意識の中で焦点が当たっていない部分を無意識と呼ぶことにしましょう。

仮観と空観

仮観と空観という概念があります。これを用いて、無意識からのアプローチとしての不殺生戒からみる認識と「あなた」が人を殺してはいけない理由について書いていきます。

まず、仮観ですが、世の中で一般的に考えられている唯物論的で客観的な世界を世界だと思う認識の仕方です。

個人を社会の中の一員として考え、神が作ったとでも言わんばかりの客観的な世界が「存在している」という認識です。

しかしながら、哲学的に観ると、自分が認識したものだけが世界であり、自分が認識し得ないものは、それがあろうがなかろうが、自分の世界とは関係がありません。

だからこそ、この世界は自分のものであり、他人は自分が作り出した虚像であるという認識、これが空観です。この目で見て、指で触れて、そこに「ある」と思うからこそあるように感じるのだ、という感じです。主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従う、というカントのコペルニクス的転回に近いような感じです(少し違いますけどね)。

空観についてもう少し厳密に言うと、「自分が作り出す」というよりも、自分だと思っている自分すら外界の情報が組み合わさった今の瞬間の情報状態にしかすぎません。外界という表現も変ですが、この体も得てきた知識も自分がゼロから生み出したものではないですからね。ということで、この場で今成り立っている状態くらいのものです。そしてそれは、この心が状態を受け取っているということ、そう感じているということくらいしかありません。

そしてこの心の認識は、客観的な証明、論理的な証明を必要としません。なぜなら、いま感じていること自体は、感じているのですから(それが外界に実在しているということではないですよ)。

だからこそ、他人を殺そうが、自分の見る世界が変化するだけ、それが視界から消えれば、何もなかった事と同じことになります。今という瞬間しか無いのだから、人を殺したという事実も次の瞬間にはありません。

しかしながらその主観世界で、行動を選択をしているのは誰でしょうか?その空観の中では、何でもやりたい放題ですが、その行動の裏にある衝動や思考は、一体何なのでしょうか?

「今」に集中することと今をスタートとすることなどなどで、幾度となく触れていますが、そうした自分、「我」は本能的なものは両親から、思考パターンなどは外界からの情報で構成されていて、自分のオリジナルはありません。

ということは、「我」というものも、因縁生起における今現在の状態であり、それは私でありながら私ではなく、ある種自分の意志とは無関係に演算を繰り返していると考えることができます。

そしてこの「心」はそうした、外界を発端として起こった現象の結果を受け取っているだけ、つまりストーリーを見ているだけだということになります。

そしてそうしたストーリーは、今現在の状態としての「記憶」を含めた意識の状態に委ねられています。そしてその状態は、今現在焦点を当てている意識の対象だけでなく、今現在意識を当てている対象以外にも、今現在意識の裏に膨大なデータとして存在している無意識が大きく因果の因になりえます。

不殺生戒からみる認識

不殺生戒を倫理的、道徳的に観るのではなく、社会性を排除してあくまで自己中心的に考えた場合、なぜ人を殺すこと、生き物を殺すことが自分にとって良くないか、というところを考える以外に他ありません。

他人への道徳的命令ではありません。他人との関係性の中で考えるのではなく、不殺生戒をもって、因縁生起をもってなぜ戒めたるのかを考えるほうが賢明です。

結局どうあがいても、客観的な社会の実在を証明することはできませんが、今のこの時点でこの心が何かを受け取っているということは揺るぎない事実であり、証明の必要がありません。

視覚障害がなければ、今目を開ければ何かは見えるはずです。目を閉じても瞼の裏が見えているはずです。聴覚障害がなければ何かは聞こえているはずです。

「何かが見えている」ということや「何かが聞こえている」ということは証明が必要ありません。それが実際に目で見たものでなくても、「見えているように感じている」のであれば、その「感じている」ということ自体は客観的証明が不要であるはずです。

ということで、その客観的証明が不要である絶対的な領域に着目して、不殺生戒の本意を捉えていきましょう。

さて、生きることを目的とした場合、生命を介したものしか生命を存続させるエネルギー源とすることはできません。フルーツや牛乳という手もありますが、「不殺生戒を守るため」という方法論を検討するのではなく、不殺生戒の本意を考えてみましょう。

空観の中では、どのような行動を取ろうとも、それは幻の虚像であり、何をしても「自分だけの世界」であるゆえ、何も問題にはなりません。

しかしながら因縁生起という理から考えた場合、現在の状態が次の状態の因となります。

その現在の状態とは、この意識が焦点を当てている対象だけではなく、無意識に広がった全ての情報が因となります。

そして、その無意識に保持した意図が現象の因となるゆえ、無意識を含めた状態がどのような状態であるかが、「この私」のストーリーの展開を決め、この心が受け取るものを決めていきます。

そうした中、「自分だけの世界」であるのに、自分の心の安穏に条件があることこそが、苦しみの認識の原因となるのです。

「あなた」が人を殺してはいけない理由

人間の社会の中で「人を殺してはいけない理由」を考えた場合は、前提が仮観になっており、客観世界を前提として人を説得するためのルールを思考上で無理やり作り上げることしかできません。

しかしながら、この目を閉じれば、目の前にモニタがあろうがなかろうが、実際にあるのか無いのかはわからなくなるように、この五感とこの意識が直接捉えるもの以外は、意識によって生み出された妄想にしか過ぎないのです。

目に見えていても、目に見えているというだけのこと、そこに実在しているのかはわかりません。手で触れても触覚の信号であるだけです。実在の証明にはなりません。

ただ、何かは感じています。在るのか無いのかは、どちらでもよく、この心は対象を捉えている、ただそれだけです。

全てこの心が今現在どうあるか、たったそれだけなのです。

そして、その中で「自分が幸せだと感じる」ための「条件」は少なければ少ない程よいはずです。

俗っぽい例えになりますが、「あなたが好きだ」というシンプルな言葉か「あなたは大手商社に勤めているから好きだ」と言われるか、どちらが嬉しいでしょうか?

無条件の愛か条件付きの愛か、無条件の慈悲か条件付きの優しさか、無条件の安穏か条件付きの穏やかさか、無条件の幸せか状況によって揺れ動く幸せか、ということを考えてみましょう。

少なくとも「あなた」が人を殺してはいけない理由は、「人を殺すこと」が幸せの条件となっていることは、幸せとは逆行しているということになります。

「人を殺さないと落ち着かない」という意識的な衝動こそが苦しみであり、それを行動として起こさなければ、自分の心は落ち着かないという条件状態こそが、あなたを苦しめる、ということです。

そして無意識にそうした観念を保持している限り、あなたには永久に安穏はありません。条件が多ければ多いほど煩悶の可能性が高まるからです。

一切の条件がなくなる時、無条件の愛の状態、無条件の慈悲の状態、無条件の安穏の状態になります。

それが因縁生起における因となり、この心が受け取るものが安穏で満たされることになります。

感情を根拠として生き物を殺すことを安穏の条件とするな

自らの不快な感情の解消を根拠に、他の生き物を殺すことを条件とすること、それがこの心が受け取る今を煩悩たるものにしていきます。

だから、人を殺すことを含め、他の生き物を殺すことを善悪基準として悪いことであるとすることや、罪であるとすることなどは、この認識の中ではどうでも良いことなのです。

ただ、「幸せになりたくないものはいない」というように、どのような存在であっても、幸せを感じていたいはずです。

自分が幸せでいるため、苦しみから脱却するのであれば、自然界の他の生き物がそうしているように、「我の感情」のための無駄な衝動、無駄な行動はとらないことです。純粋な生命維持レベルを超えたような無駄な思考を根拠に不快感や快楽の解決策として、他の生き物を殺すことを条件とすることは遠回りです。

以前、狩猟免許の案内の件でお伝えしましたが、老後の楽しみである家庭菜園が収穫の頃に鹿や猪に食べられてがっかりする人達がいるので、狩猟免許を取得して殺しましょう、という内容のことが書いてありました。

それでは、家庭菜園をして鹿や猪を恨む人たちは次のようなプラカードをぶら下げて過ごすと良いでしょう。

「私たちは、老後となり、やることがなく、暇で苦しく、暇をつぶすために家庭菜園をすることにした。

その『暇の苦しみ』を解消するために行った行動を邪魔する生き物を『他人に殺させること』が私たちの幸せの条件です」と。

感情のために他の生き物を苦しめ殺そうとする、その衝動の源流を辿り、思考を追い、その錯覚から脱してみましょう。

なぜ「自分しかいない世界」でそのストーリーを選択しようとしているのか、生存本能が持つ恐怖心が知能を介して形を変え、衝動を送ってきているのかを観察しましょう。

関連思考から脱却する

「人を殺してはいけない」「生き物を殺してはいけない」ということを戒めとして、「守るべきこと」として考えると、「殺そうとしている人を何とかしよう」ということを考え始めます。

そこで極論的には「凶悪殺人犯になりそうな人を予め殺してあげよう」というような思想が生まれてくるのです。

しかしながら、ライオンに「食べるのをやめろ」というのは筋違いです。ライオンがいるから、馬が殺される、だからライオンを全滅させよう、というのは歪んだ関連思考です。馬がいるから草が殺される、だから馬を殺そう、というのも歪んでいます。

人対人なら、言語等々を介して説得することもできるかもしれませんが、動物に対して同じようなことを思うのはナンセンスです。

人を説得してもいいですが、その結果には執着しないことです。まして、功利主義的にたくさんの人を殺そうとしている人を殺すというのも変な話で矛盾もいいところです。

この心が受け取る現象は、自分だけのもの、だから他人のことなどどうでもいいのです。

ただこの心を安穏に導くこと

ただこの心を安穏に導くこと、それだけで十分です。

たくさんの人を救っているからそちらの方を評価しようとか、たくさんの人に支持されているから正しそうだとか、そういった基準は社会的であり、空観に出てきたような理の中では、関係がありません。

しかしながら、観念論的な空観の認識自体が理としては正しくても、それがそのまま答えというわけでなく、その中でこの心はどうあれば良いのかということを見切っていく必要があります。

この世界は自分だけの世界であり、何でもありだと言っても、お金持ちになるために銀行強盗をする必要はありません。まして強盗殺人をしてお金を手に入れるというようなことをしなくても良いですし、お金を介して幸せになろうとしなくても良いのです。というわけで、そのようなバイオレンス的なものを選択する必要はないのです。

何かを達成しなければ、この心は落ち着かない、という条件付けこそが煩悩であり、諸行無常たる理の中の因縁生起による「一過性の現象たる今」において、「我」の存在を不変のものとし、我と他者の存在を実在とし、あれとこれとを分け隔て、優劣を判断し、外界との分離故に恐怖心に苛まれ、「我」を守るためと闘争心に駆り立てられる状態は、まさに煩いでしかありません。

慈悲の状態こそが、「他の生き物を殺してでも手に入れたかった」境地

今認識している中の一部である自我が考えた都合、「我の感情のためとあらば、他の生き物を苦しめ、殺す」というものがいかに幸せとは逆行するかがわかるはずです。

感情を理由として、人を殺そう、他の生き物を殺そう、というときには、そうした行動を起こすことで、「自分が幸せなる」と思っているはずです。

それが快楽か怒りや恐怖の解消かはわかりませんが、少なくとも、その行動を取ったほうが自分の幸せとしてはプラスになるという思考上の結果があるはずです。

しかしながら、本質的にはそれと逆行します。その条件を満たさないと幸せにはなれないという条件付けが行われているからです。殺生をもって欲を満たす、殺生をもって怒りを解消する、といったものが、幸福を感じることに対して条件化されている感じです。

「他の生き物を苦しめ、殺さないと自分は幸せになれない」という条件がついてしまっています。その条件化は、幸せとは反対の方向に心を導きます。

全てがこの自我たる自分と同じように、因縁によって今ある現象としてこの心に入ってきたものです。そこには差はありません。自分と他者との区別など必要が無いのです。

そうであるのならば、「自分は幸せありたい」と思うのと同じように、この心にあるもの全ての幸せを願い、苦しみがあるならばそれが無くなるようにという状態を保ちましょう。

その慈悲の状態こそが、「他の生き物を殺してでも手に入れたかった」境地です。

言語として表現できるのはこれくらいでしょう。

あとは自らを拠り所とし、体感でそれを感じてください。


趣味や職業と生き物の命と不殺生

Category:philosophy 哲学

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ