「基本的にそのままでいい、絶対的にそのままでいい」という矛盾を含むタイトルになりましたが、「あなたはそのままでいい」というようなものについて、よく語られていることを大幅に超えるような感じで書いていこうと思います。
「そのままでいい」という抽象表現の方が良いというのはわかりますが、その多義性によって変な解釈をする人たちが、変な解釈を発信しているようなことも多いと思いますので、ある程度多角的に触れていこうと思います。
あえて乱文的に進めますが、混乱させる意図はありません。
「そのままでいい」の対象
まず、「そのままでいい」の対象は一体何なのでしょうか?
それが行動なのか、癖なのか、人格等々なのか…
最初に潰しておきますが、諸行無常と諸法無我により、「固定的自分」と、現象の「『我』のノータッチ」により、「私」はすぐに却下されます。
そのままでいいといっても、そのままではよくないと思っているからこその「行動」が起こったりもしています。
「このままではいけない」という精神の動きがあります。
思考の上では、そのままでいいということは、変化しようとする意志を肯定するのか、そうした変化自体が不要ということで行動を否定するものなのか等々、論理的な混乱が起こります。
かといって雰囲気だけで
「あなたはそのままでいいんですよ」
と言われても、
「それはあなたが私の人生にとって無責任だから言えることであって、このまま行くと悲惨な未来が待っているだろうから、このままではいけないんだ!」
と言いたくなります。
しかし僕は、あえて「あなたはそのままでいい」と断言しておきます。
ただ、一般的に言われる淡い感じではないので、もっと深く進めていきます。
基本的にそのままでいい
まず、基本的にそのままでいいという感じで仮止めをしましょう。
何かの意味があって、今の人格や環境、行動が起こっているので、「今の私」の反応形態は一応そのまま、私自身を守るものとして機能しています。
すぐさま行動や考え方を変えようとする必要はありません。
しかしながら、それが固定的なものなのだというところにはストップを掛けたいところです。
根本には生存の恐怖があります。裏を返せば安心を欲しています。
そして安心を欲する気持ちが派生し、承認や自己効力感の獲得などに向けられます。
胸騒ぎを止めるために、遊ぼうとしたり、お金を稼いだりしようとします。
パーティばかりして「私は充実している」という人がいます。
裏側には確実に
友達がいなくなったら…
参加できないような貧困状態に陥ったら…
ということが確実に含まれます。
事業家で人から意見もたくさん求められ、資産もあり…という人であっても、「意見が通らない」等々で何かに怒っているようでは
「承認」を欲しています。
承認されていないという格好になっても
相手は馬鹿だ、ひがんでいるだけだと「思考」でかわしているだけで、
「その精神が『承認』を安穏の条件にしている」という構造は変わりません。
しかしそれはそれで一旦そのままでかまいません。
いやいや、じゃあそのままではいけないんじゃないか。
となりそうなものですが、その承認を欲したりしている精神のあり方自体を許容することと、そういう部分を受け入れずに、「私は正しいのだ」と居直るのでは状況が異なります。
では私は正しいのだと居直るのもそのままでよいのか、ということになりますが、これも居直るのを許容しているのと、居直ることを居直るのとでは異なってきます。
さあ、こうなると無限に居直りの居直りの居直り…ということになっていきます。
これが、僕が「基本的に」と表現した所以です。
「あなたはそのままでいい」に但し書きかのように「基本的に」とかいた理由です。
「多少不快だが気にならない」という境地
世の中の教育の癖として「鍛える」という発想があります。
そういうわけで
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
というのを見聞きすると、火の前で耐える訓練をしようとしてしまいます。
しかし火は涼しくありません。
涼しいわけがありません。
一方で、「火を涼しいと思えなければ、心頭を滅却できていない」という理屈がやってきます。
しかし、これはそういうわけではありません。
火が近くにあれば、一瞬熱いなと思って、避ければそれでよし、その行動を起こした自分を判断する必要はないということになります。
火を涼しいと思えずに、心頭を滅却できずに、火を熱いと感じて避けた自分をただ許容するというだけです。
それを「修行が足りない」と脳筋のように、火の近くで熱さに慣れることを意図してはいけません。
確かに飲食店などで働くと、火の熱さに慣れていくことはありますが、慣れなければならないというわけではありません。
火があってもそれに負けず…というのはジャンプ的ファンタジーの中だけで十分です。
と、やや脱線しましたが、「多少不快だが気にならない」というところが正解です。
不快と言ってもそれは身体的反応です。
重要なのは「気にならない」の方です。
これは一切についての無感情を意味するものではありません。
緊張しても、緊張している自分を気にしない、
怒っても怒っている自分を受け入れるということです。
「また怒ってしまった」と自責に向かうのはいただけません。
この現象に対して怒りという反応を起こす関数がある、ということを観察して、その感情を受け入れるということです。
絶対的にそのままでいい
では、本題の「絶対的にそのままでいい」というところに移ります。
「そのままでいい」ということが思えないからこそ、「このままではいけないなぁ」と思ったり、「直したいなぁ」と思うような考え方をし、「これはどうなんだろう?」と自分でも思う行動を起こしているという感じになります。
なぜ無理をして人に合わせた言動をするのでしょうか?
自分をそのまま受け入れていないからです。
「そのまま」というのは、堕落した自分、スケベな自分というのも受け入れるということです。
堕落的に怠惰な自分も、疲れや「それ意味ありますか?」という感想から起こる自然な反応です。
スケベな自分も、オスとして、メスとして当然です。
楽をして稼ぎたいというのも当然です。
しかし一方で、きちんとこなせる自分を誇りたいというのもあります。
スケベ面だけでなく、尊重と愛に溢れたところを大切にしたいという面もあります。
簡単に解決できないこと、労力のかかることをこなして、その分だけ相手に貢献できたと思いたい部分もあります。
一方だけを肯定して一方を否定すると、必ず歪みが生じます。
そういうわけで、ポジティブ思考一択は微妙にいただけません。
「嫌なやつを嫌なやつと思ってはいけない」という脅迫になりかねないからです。
「あなたはそのままではよくない」ということを要請されつつ、自分でも現状は何となく嫌だと思いつつ、解決策が見えないので、「闘争」や「逃避」をしてしまうというのが問題の基本構造です。
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すべての反応の関数は自分以外の情報で形成されています。
そして当の「反応」も外の世界への反応です。
しかし、何かしらの悪者探しをする必要はありません。
嫌なことやネガティブ感情が起こったら
嫌なことやネガティブ感情が起こったら、「意識の向き」が、そちらに向いているという感じになります。
現象の解釈をする思考、反応としての感情、そして現象ですらその向きに応じているだけです。
ここで、普通は「現象が再度起こらないように」と思考で対処します。
もちろん、そうした思考を行うというプロセス自体が、ひとつの物語として機能しているという場合もあります。
しかしながら、ここで重要なのは、「今、そういう意識の向きなのだということを確認」して、意識の向きを変えるシグナルとしてのみ捉えるということです。
これは考え方を変える、解釈を変えるということではありません。
単に、意識の向き、焦点を当てているもの、当て方が、そういう空間に向いているというだけです。
そして嫌なら他の方向に向き直すというだけです。
義務感や罪悪感という反応で、またそちらに向いてしまいそうになりますが、その義務感や罪悪感というものを感じるということ自体が、嫌な感情を呼び起こし、嫌な現象を体験する向きを向いているということを知らせているというふうに捉えてみてください。
まっすぐ向いていたのが、右を見るくらいの感覚で、意識の向きを変えてください。
向きを変えるということに「難しい」という属性を与えずに、「どうすれば?」という自我の思考を弾き、単に向きたい方向に向いてください。
生きているということは「現在」の連続であるため、この「理」は常に働いています。
「何かを見ないために、覆い隠すかのように無理に解決を試みたこと」は、また同じようなことが起こることがあります。
それは、根本論理で言うと、解決していないのではなく、そうした「向き」を維持しているだけです。
ある意味で、解決していないから、向きを維持しているという風に解釈することもできますが、解決などしなくても、常にそれ以外の方向に意識が向いていれば、解決しなくても解決しているのと同じになるという感じです。
ただ、それだけなので、思考も感情も解決する必要はありません。
そういう意味で、あなたはそのままでいいという感じになります。
