幸福論が語られる時、気が落ち着いているのならば文学的幸福にも目が行くものの、たいてい世間的には楽しみや興奮、もしくは快楽的なものの方ばかりが着目されます。
確かに昔、「生命維持だけをして、ずっと何かしらの快感的刺激を与え続けるだけでよいのではないか?」と考えたこともあります。しかしながら、どうもそれは幸福とは異なるような、そんな気がしていました。
やはり興奮や快感というものは、それが度を過ぎると、逆にリミッターがかかるようで、それ以上の刺激がないと楽しめなくなったり、そうした刺激がないと憂鬱になってしまうという構造を持っています。
薬物やギャンブル中毒はその良い例です。
脚光を浴びて興奮していた人が、世間から見向きもされなくなると薬物に走るというのもこの構造です。
端的には「ドーパミン」系の方向性であり、その方向だけに向かうことは幸福とは少しズレてしまうということを仄かに示しています。
そしてその方向が正しいと考え、刺激ばかり追い求めると、小さな文学的幸福を見逃してしまうようになるのではないかと思ったりしています。
と、前置きが長くなりましたが、これは直接的なテーマを意図的にぼかすための、不器用さだと思っていただければと思います。
本題は、妻への愛です。
うちの家には、短めのカーネーションのドライフラワーが壁に飾ってあります。
これはもはや風景になっていますが、先日のゴールデンウィークに、「あなたは何が楽しくて生きているのか?」と同級生女子に言われたので、
「そのカーネーションがそこにあることを稀に喜びとして感じること」
などと、少しキザなことを言ってみたりした、というより自然とそんな言葉が出てきたことに起因します。
このカーネーションは、母の日に送ったものというわけではなく、娘が幼稚園に通い出した頃に、少しの手紙を添えて妻に渡したものです。時期的にカーネーションが出回っている時期だったので、カーネーションを贈ることにしました。
身を粉にして育児に専念していた妻への感謝を込めて。
睡眠不足で少し顔が腫れて、鼻なんかは少し肥大していた妻へ。
そんな中、深夜まで寝ない娘がようやく寝た後に、離乳食や幼児食を仕込んでいた彼女へ。
その姿は誰よりも素敵で美しいと感じさせてくれたことへ。
そして、そんな思いが少しは彼女に届いたということに。
そうしたことが象徴としてそこにあることに、美しさと喜びがある、と個人的には思っています。
その喜びには長い文脈が必要です。もちろん金銭で買えるものではありません。
興奮や快楽は買えるかもしれません。
しかしこの手の幸福は、それとはまた次元が異なります。
もちろんこの文脈はまだ続いています。
ある時は、そのカーネーションがコントラストとして、苦悩に映るときもあるでしょう。「だからこそ悲しい」、「だからこそ苦しい」、「だからこそ虚しい」というようなものも起こり得ます。
逆に、その苦悩が、また次の美しさをもたらすかもしれません。
その長い長い物語、日常という、何の変哲もない物語の中には、少なくとも愛と幸福が積み上がっています。
少なくとも僕の中では、普段意識しないところで、積み上がっているのだと思います。
