自我の範疇とそれを包括した世界

自我に物事を生起する力はありません。

どのように考えていても、どのように感じていても、本来関係はありません。

「苦(ドゥッカ)は自我の思考がもたらした錯覚である」という構造を踏まえると、イエス・キリストや親鸞などが言いたいこともわかります。他力本願のようなものの働きが見えてきます。

つまり自我に振り回されようが、自我は現象そのものを変えることはできない、ということで、自我の範疇を超えた領域に丸投げする、それを象徴化したのがキリスト方式、親鸞方式です。

「ああ、神の思し召しのままに」

「凡夫にできることはありません。阿弥陀如来さんよろしく」

ただ、ここで自我が復活するとややこしくなります。

概念化して他のことと紐づけて思考上で納得しようとします。

こうなると自我の範疇にまた戻ることになります。

なので、話を展開しすぎてはいけないのですが、なぜ展開したり組織化しないほうがいいのかということを納得したがります。

こてんぱんにやっつければ、納得させることはできます。

しかし、それはとても遠回りです。

単純にイエス・キリストが正しい、親鸞が正しいとかそういうことではありません。それらの空間が持つ正しさにはある構造が潜んでいる、というだけです。なので、お金を出したり、群れたり、研究したりする必要はありません。

「丸投げして、緊張を解く」

それだけです。

「丸投げして緊張を解いて、現象が好転した結果として継続して緊張を解きたい」

というのではうまくいきません。

そして

「丸投げして、緊張を解く」

という構造であるのならば、どこに、何に、誰に、というところは本来関係ないのですが、何かの概念がないとやりにくい、ということから、問題が難しくなると、概念化した神々のような存在が想起されてくるわけですが、構造としては

「ベテラン上司に任せる」

というような感覚です。

「子どもが親に任せる(親がしっかりしていないのであてにならない、というような議論はここではやめておきましょう)」

というようなものです。

なのでイエス・キリストは「天にいる父よ」というような言い方をするわけです。

自我の役割

自我がないわけではありません。

「固定的な自我というものがないので特定することができない」というだけでそうした機能はあります。

「暑かったら汗をかく」というようなものと同じただの機能であり、それ以上でもそれ以下でもありません。

暑かったら汗をかくという機能に皮膚表面の温度を下げる能力は多少ありますが、太陽の光を調整する機能はありません。

暑いから不快だ、避けよ、という感覚と

こいつは何だか嫌だ、避けよ、という感情は

同じような機能です。

暑さに対して、涼しい場所に移動するが如く、嫌な人からは逃げよう、というようなシグナルを送っているに過ぎません。

そういう意味で、シグナルを目安にしていきましょう。

今考えていることが不快ならば、その方向を向くことが間違いだということです。

これは意見が間違っているというわけではないかもしれません。ある話題に対して自分の意見を反芻すること、その話題に目を向けること自体が「向きが違うよ」というシグナルを生む、というだけです。

なので敵視する必要はありません。

不安にさせるものはすべて嘘

本来、今の連続です。

何かしら不安にさせるような情報があったとしても、それは嘘です。

科学的に、解釈可能性的にそれはありえるということであっても、嘘です。

今、リアルタイムで苦痛が生じることはあります。

それならば苦痛を取り除くことが最優先であり、それ以上に大切なことはありません。

しかしながら、たいていそうした苦痛は歪んだ思考からくる緊張により生じています。

「歪んだ思考」というのは、それは一つの解釈として正しくても、何かしら不安を呼び起こすような情報です。

むしろ情報自体は無属性ですが、その不安を呼び起こす思考の解釈パターンが「嘘」ということです。

極端に言うと、たとえば自称スピリチュアリストが、明日、世界が滅びるということを言うとします。

僕は何とも思いません。

嘘ですから。

もちろん可能性としてはゼロではありません。

そして、その「『明日』になるまでわからない」という構造は、永久に続きますし、そうならば言いたい放題です。

Category:philosophy 哲学

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