不可解な出来事

そもそも出来事というものは不可解なものです。

あからさまに不思議な出来事というものでなくても、一切の現象が思考上で何とか辻褄があっている程度であり、思考で捉えられるようなほど理屈がはっきりしているものではありません。

現象の生起について実際どうなっているのか、ということを知れば「生存本能」と「思考」は落ち着きます。なので、知りたくて仕方がありませんが、知る必要はありません。

「知らなければならない」という緊張の方がダメですから。

ある現象の構成要素となっているものが、知らぬ間に思考上で条件になり、それが執著になります。

ただ、これは頭で考えた上でのこと。

つまり執著も、執著による苦しみも、頭の中で起こっていることです。

その場の最適

本来「幸せ」や「安穏」がデフォルトなのですが、これに条件、執著の視点が生まれると幸せが曇ります。

常に思考を介さず(使ってもいいですが)「一番最適であると感じること」を選択し続けていれば、このデフォルト感が掴めてくるのではないかと思います。

これは特に大したことではありません。

「電気代という思考領域のことを考えずにエアコンをつける」というような程度のことです。

「いや、電気代というものが嵩むと数日後の私が困る」というのは思考です。今の話ではないですから。

その思考上の理屈はわかりますが、極端に言うとそれは、今の体感よりも電気の方が大切かのような言い草です。

もっと突き詰めると、自分よりも電気のほうが大切、お金のほうが大切と言っているのと同じです。

そういう自分を蔑ろにすること、自分の体感、フィーリングを最優先にしないことが、現象を歪ませるとしたらどうでしょうか?

仮に現実的視点に立ったとしても、「快適さが10%向上することで生産性や発想力が上がり、結果的に電気代以上の収益が上がる」というようなことも考えられます。

RAS(網様体賦活系)って本当?

「赤い車に意識を向けるとそれまで見えていなかった赤い車が目に入るようになる」

つまり意識を向けたら重要度が上がって、それが目に入るようになる、こういうのをRAS(Reticular Activating System)と呼んだりします。

最近この概念を用いる人が増えてきたような気もします(なのでたまに触れることはあります)。

で、このRASについて、「それまでたくさん赤い車は街を走っていたのだが、重要度が低かったたため、意識に上っていなかったのだ」というような「合理的説明」をする人がいます。おそらくRASという概念を使う人のほぼ全員でしょう。

しかし、本当でしょうか?

実験においては、ある写真の中で、「赤い部分を見つけて」と言ったら、想像以上に赤の部分が多いことに気づいた、というように、その環境でそういうふうな結論になると思います。

確かにそれはそれで、RASという機能の説明になるでしょう。

しかし、「赤い車に意識を向けるとそれまで見えていなかった赤い車が目に入るようになる」という事の説明として、このRAS、重要度だけなのでしょうか?

本当にそれまでと同じような台数の赤い車が今走っているのかどうかはわかりません。

本当に現実側の確率、つまり赤い車が走っている台数は固定で、それを拾う意識だけの問題なのでしょうか?

本当に?

「意識を向けたら、赤い車がたくさん走っている世界に移動した」

というだけかもしれません。

「そうである」という確実な証拠を出すこともできませんが、

「そうではない」という確実な証拠を出すこともできません。

ニュートン力学くらいの視点で考えると、そうした物理は固定とはいいませんが固定的です。しかし、そもそも空間は、全可能性を含んでいます。

思考や認知という部分に切り取って、無理矢理解釈しようとすると、重要度に応じてそうした物がよく目につくようになる、というような説明になると思います。

それはそれでひとつの抽象度の説明として良いでしょう。

しかし、「以上、これが現実です」とするのは、ちょっと違うと思います。

確率について

「その方が確率が高い」というような論調は至るところで見受けられます。

この確率というものは、単にその確率というものを、「確率の範囲で受け入れることができる」という程度です。

そして、その確率の範囲を超えることもよく起こります。

確率というものは、確かにその通りになるというのかもしれませんし、確率という概念空間を前提とした世界にいるからこそ、その確率の内側にいることになるのかもしれません。

どの時点からでも安穏にシフトすることはできる

とりあえずアイツこと自我を逆撫でするようなことをどんどん書き進めていこうと思います。

「どの時点からでも安穏にシフトすることはできる」

そう言うと、「あの出来事が解消され、その結果安らぎが得られると考えているのに、それが解決していない今、幸せになれるわけはないだろう」という自我の反論が来ます。

しかし、どの時点でも安穏にシフトすることはできます。

「現象を識知して、結果、安らぐ」ということを当然としていますが、本来は逆方向です。

安穏に戻り、それで終わりです。

現象や環境は変わるかもしれませんが、変わらなくても気になりません。

「変わらなければ困る」というのは思考です。

むしろ、安らぎの感覚を掴めるのであれば、絶望し、諦める方が理に適っています。

振り返ってみるとよくわからない因果関係

因果関係というのはよくわからないものです。

振り返ってみて、整合性が取れているように感じることもありますが、それとは大きく飛躍した不可解な出来事というものも実はたくさんあるはずです。

「この方法で手に入れなければならない」、「こうした方が確率が上がるだろう」というような予測をしていたところとは全く異なる方向から物事がやってきたりする、ということはよくあります。

「それでは汎用性、再現性がないからダメだ」

と自我は叫びますが、本来、現象などそういう構造になっています。

「なぜか?」ということは、特に考えなくても知らなくても問題はありません。

むしろ「知らなければ、次が怖い」という思考の方が問題です。

「Aという現象や状況を望むがために、Bという行動を取っている」

それに苦しさがあるのなら、その苦しさは誤りです。

Aという現象を抽象化した幸福なり安穏なり、楽になること、それが本来の「望み」であり、それは何かを経由しなくても今すぐにそれになることができます。

なのでBという行動は不要です。

不要ですが「しないこと」が条件であるというわけではありません。してもかまいません。

Category:philosophy 哲学

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