ニヒリズムと「がっかり」をよく考えよう

ニヒリズムと「がっかり」の先にある境地に行くまでのその手前のお話をしようと思います。

最近しばらくご無沙汰のあとに投稿したのですが、そうするとやっぱり全体的なPVが急上昇するようです。

でも最近の投稿は、どうしても社会に触れた分の社会的な垢の分だけ、社会的なテーマになっています。

それでは常連さんとしては物足りないのではないか、ということで「ニヒリズム」と「がっかり」です。

というよりも、こういったテーマなど久々にどうかなと思ったので、書いてみようと思いました。

何だか最近変な記事と言うか素人が「ニヒリズムについて調べただけ」のページが増えてきていますね。

この流れも、いままではアフィリエイターくらいしかそういうことをしなかったのですが、大企業とかが広告収入のためにそういうことをやりだしてきていることに原因があります。

「医療情報サイトなのに『不倫・略奪愛?』」みたいなことが問題になっています。

まあそういう寒いサイトは放っておいていいのですが、やっぱり本ブログの常連さんには、ある程度きちんと伝えておこうかなぁと思います。

といっても、常連さんならばそんな記事に惑わされることもないでしょう。

というか、ニーチェとかニヒリズムに関しては、せめて永井均さんなんかがしっかり書いてくれればいいのですが。

ニヒリズムはただの主義

大前提として、ニヒリズムは「ただの主義」だということをもう一度思い出してください。

確定的なものは、主義の範疇ではありません。

男尊女卑は主義ですが、生物学的な男女という分類自体は主義ではありません。

そして、主義は、論証も反証もできます。でもその証明は必ずどちらか一方しかありえないという確実性、絶対性は持ちえません。

それを持ち得るものは、もちろん主義ではなく、理です。

命題が確実に「真」となるときはトートロジーとして無意味になります。

「僕は僕です」みたいな感じですね(あくまで論理式として。文学的な要素は考えないでください)。

それで、ニヒリズムもただの主義なのです。「虚無主義」として捉えられるときはね。

社会的な捉え方をしてはいけない

あえて「社会的」と言いましたが、ニヒリズムが語られる時、かなり前に書いた「ニヒリズム」でも少し触れていますが、「それを生きていく上で何か役立てよう」みたいな方向で考えてはいけません。

まあ次の部分です。

「ニヒリズム」

こういうことを雑誌のライターが読んで記事を書くと「だからこそ自分で価値を見出し、強く生きていく必要があります」などと言います。

そういうことではありません。

「虚無、だからこそ」「無価値、だからこそ」

そのあとに体育会系のようなことを言ってはいけません。

自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度

というのは体育会系が最後に都合よく言うようなセリフです。

せめて哲学の領域で

単純なことなのですが、こういうことは、「社会の中で生きていく上でプラスになる」とかそういうことではありません。

あまり哲学に詳しくない人、というわけではなく、「哲学的な考え方」ができない人たちは、常に文章の締めくくりで、「だからこそこうする」とかそういうことを言いたがります。

それって何だか、道徳の授業のあとの先生の苦し紛れの結論みたいじゃないですか。

ニーチェの名前を出したりとか、ニヒリズムという専門用語を出したりするなら、せめて哲学的な領域で考えなければならないと思います。

「その先に何があるか?」

というのはいいですが、たいていは「社会の中でどうプラスになるか?」くらいしか考えていないでしょう。

さて問題です。

どうしてそんなことになるのでしょうか?

なんで「ニヒリズム」をそういうふうに捉えようとするのだろう?

ニヒリズムって、端的に言えば「がっかり」です。

「ああそうか、あれもこれも別に『価値』はないんだ。価値があると思って色々頑張ってみたけど、結局そんなものはないんだ」

というような感覚でしょうか。頽廃主義に陥ったり、逆にアナーキズムに走ったりしてしまいそうです。

それって、期待していた分とのギャップの分だけ、感情としてはマイナス要素になりそうです。

でも、そこで開き直って、「だからこそ懸命に生きるんだ!」というのは少しどころか、かなり違います。

もうそろそろ常連さんならば、なんとなく察しがつくかと思いますが、「だからこそ懸命に生きるんだ!」と言っているのは誰でしょうか?

アイツですね。自我であり、生存本能であり、生存本能から来る恐怖心です。

なぜ、ニヒリズムの構造を知った上で、「だからこそ懸命に生きるんだ!」と結論づけたがるのか、それは、「アイツの意見」だからです。

自分の生存、もっと言えば、いかに快楽を得、いかに苦しみを取り除くか、に関連していないと都合が悪いといった感じです。

でも、哲学って本来はそういうものではありません。

というか、科学はたいていそういう要素がないはずです。

「がっかり」は反応

そこでですが、ギャップの分だけ「がっかりした」というのは、感情ですね。

感情は、反応です。

まあ内にある経験が、その瞬間では、揺るぎない真実であることは確かですが、それを根拠に理を捻じ曲げてはいけません。

それで、「価値自体が無い」ということに気づいた時、感情が揺れ動いたところで、「生きていく上でどう活かすか」とか、「じゃあもう死にたいよ」とかいったことを「考える」というのはなぜでしょうか?

「一度生存本能の都合を考えずに感じてみましょう」

というのはいかがでしょうか?

「ニヒリズム、だから、○○」

ということをせずに、世の中の全てに「価値」がないことを悟ったあと、それをスーッと感じてみましょう。

まあアイツは反発してきます。

でも考えてみると、「生きていく上でどう活かすか」というのも、もちろん生存本能としての衝動ですが、「じゃあもう死にたいよ。苦しいだけじゃないか」というのも、歪んだ「思考」です。

そういったことを踏まえて、次に動物や植物を見てみましょう。

といっても、人間の意識が「感染していない」対象を選んでください。

彼らからすれば、1億円の絵画に価値があるとか無いとかは考えていないはずです。

「この絵に価値が無いのか…」と嘆くこともないでしょう。

まあ動物なら爪とぎくらいには使うかもしれませんが、「ただそこにあるもの」くらいの対象です。

植物の場合は、そもそも目がないので、認識すらしないでしょう。

するとすれば、絵があることによって、少し変わる風の流れくらいです。

そこに価値があるからどうとか、価値が無いからどうとか、そういったことは植物には無関係です。

「無関係」です。

全ての価値自体が無意味だということになれば、「意識の上」では無関係になります(物理的には関係してるけどね)。

「対象そのもの」以上の関係性がなくなります。

この時点で「事実を事実以上に観る」という、錯覚が解けます。

ニヒリズムを知った時

これが、「ニヒリズム」で触れた、「一瞬一瞬をただありのままに生きる」ということです。

積極的ニヒリズムだ、消極的ニヒリズムだ、といったような「ポジティブ」でもなく「ネガティブ」でもなく、一瞬一瞬をただ、ありのままに生きること、ということを別の側面から書いてみました。

ニヒリズムを知った時、「全てに価値がないなら、じゃあもう死にたいよ。苦しいだけじゃないか」

なんてことになるのは、対象との関係性を「事実以上」にしているからです。そして手前には、もともと期待があったはずです。

苦しんだ分だけ、カルマが消えて、死後はもっといい世界に行ける、なんてことも、錯覚です。

その場の出来事、現象はその場限り。因果を感じることができずに「頭で考える」とそんなことになります。

あのね、時間は過去から未来に進むんじゃなくて、構造としては未来からこっちに流れてくるはずでしょ?過去は過ぎ去ったことじゃない?もう二度と起こらないよね?

で、起こるかもしれない、という想像は「現時点での思考」よね?その思考から来る感情の反応が「現在」起こっているよね?

ニヒリズムの行き着く先の答え

で、「一瞬一瞬を懸命に生きる」ということは、「懸命に生きなければならない」というアイツの脅迫を含んでいます。

「一瞬一瞬を懸命に生きてもいいし、懸命に生きなくてもいい」

という感じで捉えてください。

そして、ニヒリズムを知ったり、「がっかり」を感じたときは、チャンスです。

「価値がある、だからこそ!」となっていた生きる意志が突然、「あれ、価値なんて無いぞ」となったときのパニックは、「アイツベースの思考の産物」です。

「今着ているこの服がもたらす『機能』はなんだろう?体温の維持と…」みたいな感じで一度考えてみても面白いかもしれません。

「『この服着てたらモテるかな』は余分だった」

「『この服着てたらモテるかな』で、無駄なお金も使った。外に出る時、この服でないと落ち着かないという焦燥もこれが原因だった」

「でも、既に持ってるんだから、捨てることもないよな。これからも着よう」

ニヒリズムの行き着く先の答えは案外そんなところに落ちています。

ニヒリズム


がっかりの究極「最大のがっかり」といえば、一切行苦を体感で理解した瞬間です。「人生、思い通りにはいかない」を通り越して「何だったんだ?」の極地になりますが、その先には究極の安穏があります。悲観としてのペシミズムや無理にペシミズムに意味を与えようとする積極的ニヒリズムすら不要の究極の「やすらぎ」です。

Category:philosophy 哲学

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