矛盾とパラドクス

矛盾とパラドクス(パラドックス)について書いていきましょう。

今回は、中学生のグレる要因である大人の矛盾について語るわけではありません。

少し学術的で、哲学的な感じです。

矛盾とパラドクスは、論理に関する重要な概念であり、それが人の話を聞くときであれ、一人で行う思考実験であれ一応押さえておくべき概念です。できれば二律背反(アンチノミー)やナンセンスについても考えていきたいところですが、今回は矛盾とパラドクスを中心に考えていきましょう。

矛盾とは

矛盾とはなんですか。

矛盾とは、情報が多過ぎることみたいですね。

一つしか当てはまらない項目に二つ入っているような状態です。

ある論理の上では1つの事柄しか当てはまらないはずなのに、そこに2つの事柄が入っている状態という感じです。

最もわかりやすいパターンは、「男性であり女性である」と言ったパターンでしょうか。簡単なことですが「男性的であり、女性である」というのは、別に競合しません。

だいたい、変なこだわりを持っている人は、こういう点が変な帰結になっていたりします。「男性的であり、女性である」という構図を矛盾かのように感じて一方を遮断してしまうのでしょう。それがMacユーザーしか認めないというようなデザイン系の人だと思います。

矛盾というのは基本的に不快なものです。頭がパニックになってしまうのでしょう。

さて、少し蛇足的になりましたが、矛盾について進めていきましょう。

矛盾の最たるものの例

ここで、矛盾の最たるものはどのようなものかを考えてみましょう。

例えば、いわゆる生まれ変わりである「輪廻転生」を説いておきながら、「先祖の供養が必要です」とか「お盆には先祖の霊が帰ってきます」というようなことなどいかがでしょうか?

小学生でもこの矛盾に気づきそうなものですが、生まれ変わっているのならば霊などいないはずです。どういう理屈で語っているのでしょうか?

もし、輪廻転生しながらも、霊魂だけは「お盆に帰る」ということであれば「この私」もお盆に前世(?)のどこかに行かねばなりません。

しかしわが事で振り返ってみてもそのような経験をしたことはありません。

また、日常の矛盾としては、「利他的な自己犠牲の精神は素晴らしい」と説いているブラック企業の経営者は、自らは「利他的な自己犠牲」などしていないということです。

「みんなで使う教室なんだからみんなで掃除しよう」と言っておきながら、当のその先生は掃除に参加しないというような事柄です。

よく読んで見れば分かること

ここで逆に矛盾しているようでそうでもないというニュアンスについて考えてみましょう。

聖人君子という言葉があります。特に宗教上の偉い人は誰にでも優しくて、全ての人を愛し、嫌いな人などいない、という一般的な認識があると思います。

確かに優しいと思います。全ての人を愛しています。でも、イエスはパリサイ人をボコボコに論破して、字面を追えば罵声を浴びせています。

しかし、戦争を起こしたりはしていません。殴りもしませんでした。これが聖人君子のあるべき姿ではないでしょうか。嫌いな人を徹底的に嫌うこと自体は悪いことではない、という例だと思います。

で、パリサイ人に罵声を浴びせようが、それは「すべての人を愛している」ということと矛盾にはなりません。言葉では反論しましたが、傷つける意図を持ったり、実際に傷つけたり殺したりはしていないという点に着目してみましょう。

抽象と具体

で、次に抽象と具体なのですが、情報量を削って、より高いレベルの点に押し上げるのが抽象と言われます。具体的な事象や概念を統合してそれらを包括した概念を捉えることを抽象化などと言ったりします。弁証法のテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼのような感じです。矛盾などについてのコーナーですが、一応ついでに触れておきます。

たとえですが、「人間」より抽象度の高いものは「動物」です。
「人間」より具体的なのは、「日本人」です。で、最も抽象度の高いところが「空」などと呼ばれています。これは有と無の抽象概念です。

ただ、物理空間では把握や観測ができないと思います。こんなものは体感でしかないので、わかったようでわからないものですが、「わかる」という表現自体が少しナンセンスのような気もします。

ただ、個人の体験としては十分に把握できると思います。空を分かっている/分かっていない、悟った/悟らないの議論は、間違っているというかナンセンス(論理的に「無意味」という感じ)だと思います。

人に証明することはできない上に、人に認めてもらう必要もないのですから。

点や直線は書けもしないし、物理空間での存在は本来的に不可能ですが、数学という情報空間の中では存在します。でも、あろうがなかろうがそんなことはどうでもいいのです。

それは客観世界だけの話ではなく、自分も含めて考えねばなりません。ともすれば、自分と自分の外側を分けて考えてしまいますが、そんな「空」は自分が観察する外側だけの話ではなく、この「自己」も対象となるはずです。除外されるはずがありません。

このへんについては「諸法無我」をご参照ください。

そんなことすら「どうでもいい」と本当は思っていますが、僕は違和感を大切にしています。怒り、苛立ちすらも楽しんでしまえばいいのではないでしょうか。楽しむと言うよりも、それすら会ってないようなものなのだから気にしたり執着するには足りないという感じで行きましょう。

パラドクス

さて、脱線寸前のここで、面白いかもしれないパラドクスをおひとつ。

パラドクスとは、こっちだと思っていたらあらあらあら、あっちでした、というパターンです。逆説という形で説明されたりもします。

パラドクス(パラドックス)の簡単な定義は次のようなものです。

パラドクス(Paradox)とは、「正しそうに見える前提と妥当に見える推論」から、逆説として「受け入れがたく思っても見ないような結論」が得られること、という感じです。

こうしたパラドクスのわかりやすい例として、実生活的な「飲食店でありがちなパラドクス」について考えてみましょう。

例えば店の大きさはある程度大きいほうがたくさんのお客さんを捌けるということで合理的かのように見えます。

もちろんお店の大きさに関して、大きい分だけ賃料がかかるといった面もあり、またバンドワゴン効果のように行列があったほうが流行っている感が出せるという面ももちろんあります。が、ここではそうしたことではなくて「動物的な楽さ」を基準としての合理性について前提を置きます。

人間の動物的な楽さで考えれば、お客にはなるべく早く店内に入ってもらって、空調の行き届いた空間で座ってもらってリラックスしてもらう方が良いでしょう。

わざわざ外で並んでもらったり、窮屈な待合スペースで待機してもらうよりもその方が身体的なダメージも少ないですし、リラックス度は高いはずです。

しかし、一方で皮肉なことに「注文してからの料理の提供時間」に対する自尊心的な心理があります。

待機スペースで20分待って、席についてから注文し、10分で提供された場合と、席についてから注文し、30分後に料理が出てきた場合では、前者のほうが心理的なストレスが少ないというような感じです。

「注文したのになかなか出てこない」

ということについて、

「自分はこの店に蔑ろにされているのではないか?」

ということを思ってしまうという感じです。

実際は両者とも店についてから30分後に食事にありつけたということになりますが、印象が異なってしまうという感じになります。ということで、店のサイズを大きくしてお客に座ってもらった方がサービスとしては良いはずなのですが、逆にお客に悪印象を与えるきっかけになってしまうということになります。

店のサイズが大きいということは不動産賃料や光熱費を含めて、お金もかけているはずなのに、逆に悪印象を与えてしまうという感じになります。これが日常レベルで考えた場合のわかりやすいパラドクスです。

ここでさらにパラドクスの例を示してみましょう。これは官僚さんや会社の偉い人が陥りやすいパターンです。

官僚さんは自分たちが作れる省令や通達によって、国民、企業等をコントロールできる、と思っています。そしてそのコントロールできる権限に酔いしれています。

また、企業の偉いさんは、自分の持つ人事権などで従業員をコントロールできます。自分の嫌いな人を左遷することによって、自分の力に酔いしれています。

これは自分には力があり、自分の気分で周りをコントロールできる、ということに酔っていることになりますが、よく考えてください。

自分の気分を他人に依存しています。

たとえば、自分の嫌いな部下が言うことを聞かない、とします。
じゃあ気分が悪くなりますよね。いつまでも気分が悪いですよね。

左遷か減給にでもしてやろうかと思うと思います。実際、せめて怒鳴らないと気が収まらない、というパターンでしょう。

でも、それは自分の力に酔っているからです。

自分より下だと思っている人の状況によって、自分の気分がコントロールされている状態です。自分がコントロールしていると思っている人に、自分の気分の舵取りをさせているのです。

別に叱ることもクビにすることもいいことだと思いますが、今一度、実は自分の方がコントロールされていないかの確認が必要でしょう。

外部の現象を条件にすればするほど、苦しくなってくるのが人間のメカニズムです。

常に「どっちでもいい」くらいの感覚で生きれば苦しさなどありません。

そんなことを2500年くらい前、元放蕩王子のセンチメンタルな青年は思ったわけです。世間ではブッダなどと呼ばれている、なかなかしぶいセイントお兄さんです。

「何かをコントロールしなければならない」という思いの根底に恐怖心があります。そして、それはある事柄を「心の安穏」の条件とするある状態への執著といった感じで表れるのです。

結局「権力が絶対的に良いものなのか?」ということを考えた時、社会的に考えれば「それは都合がいいに決まっているだろう」ということになりますが、この心のことにしてみれば、それは一種の条件付ということになり、「思ったとおりにならない」という苦しみを生み出すタネになります。

他人をコントロールできるということだったはずが、他人の状態に心の状態を依存しているというパラドクスが成り立つという感じです。

どっちでもいい

「どっちでもいい」という視点だけになると、「強いて言うならバニラが食いたいが、チョコでもいい、なんなら別にいらない」という状態になります。

何かを選ぶ意志だけはあります。でもそこに執着はありません。

だから人に与えたりもできます。

執着がないから苦しさもない。

でも好きなものははっきりとしてきます。

でも、なくてもいいのです。

快楽も権力もそれらは社会的には絶対に良いものとされていますが、それは本当なのでしょうか?

他人との関係性の中での属性という形ではなく、この心にとってそれがどう作用するかを捉えなければ本質を掴むことができません。この続きは「一切の形成されたものは苦しみである」という「一切行苦(一切皆苦)」をご参照ください。

Category:philosophy 哲学

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ