偏見を解く過程としての混乱

「混乱」というと「なるべく避けたいもの」として取り扱われますが、見方によっては偏見を解くための過程としてのプロセスであるという場合もあります。

何かに抵抗する時、そこに執著があります。手放したくない思い、考え方、自己都合等々が含まれています。それはそれで一つの側面として、ひとつの選択の可能性としてそのままでも良いのですが、「絶対視するほどのものかどうか?」というところについては怪しくなってきます。

そこに気づいた時、混乱が起こります。その混乱は、保持していた考え、理解が、より一段階高いレベルになろうとしている時でもあります。

今まで保持していた考えが、偏りという意味での一種の偏見であり、相反する考えを一応「理解」してみたり、それらとの共通項を見つけ出して再考すべきものである、と気づく瞬間です。

ということで、哲学的思索のような感じにもなりますが、こうした混乱による再構築は、哲学領域に留まらず全ての考えに通じ、全ての知がより高みに向かうためのプロセスという感じになります。

観念や概念のぐらつきから混乱が起こる

混乱が起こる時、それは保持している観念や理解している概念がぐらついた時です。

ではどうしてぐらつくのかということになりますが、だいたい「その他の可能性もある程度の正しさを帯びている」と認識したときです。

もちろん、雰囲気だけで喋る人に代表される「言語の操作が変な人の独自ルール文法」による読解不可能性による混乱というものもあります。しかしながら、論理一貫性がある内容のものに触れて混乱が生じる時は、いわゆる「一理ある」というような感じで、保有している固定観念がぐらつきます。

この混乱は、より高い理解をもたらすものとなりうるため、歓迎すべきものとなっています。

不快感から混乱を避けようとする意識

そのような感じで本来、この手の混乱は歓迎すべきものであるはずなのですが、混乱は一種の不快感が生じます。ということで、不快感を避けるためにと拒絶してしまったり、断絶してしまったりすることがあります。

汎用性のある方程式によって「考えたり、考えを改めたり」といったことをしなくても今までやってこれたのだから、変える必要はないという手抜きが前提にあり、新たに組み直すという場合には混乱による不快感と新方程式の構築に関するエネルギー消費が必要になるため、これを避けようとします。

混乱したり自分で考えたりすることに不快感を感じるからこそ、脳筋たちは、いわゆる目上に対して「ハイ!」とだけ言っていれば良いということになっているという感じです。

しかしながら、それは洗脳された人と同じです。

不可知領域や二律背反するような命題に対する一解釈としての偏見

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造」等々で触れていますが、普遍的な「理」と解釈可能性のある「信仰」や「主義」というものは、異なったものであり、絶対性を持たない考えや主義等々は、不可知領域や二律背反するような命題に対する一解釈にしかすぎず、書き換えが可能という感じになっています。

つまり、たいていの見解は偏見であり、どこかしらに偏りがあり、同レベルの偏見へとシフトすることもあり得るという感じです。

ただ、主観領域と社会での決定のような一種の客観領域では、取り扱いが異なります。社会的領域においては、直接間接の利害があるため、お互いに偏見で議論するようなことになります。

というような感じになっていても、決定に関しては揉め事が起こったとしても、それそのものの理屈としては、たいてい答えが決まっています。それは示し得ないとか、選択・決定が可能な答えとしては複数存在するといったようなことが「答え」だったりします。

という中、偏見というものは、そうした複数の解釈可能性のあるような領域のことを、部分的に断定して取り扱ってしまうというようなことになります。

他の見解を理解した上で特定の観念を保持しているか、それとも議題にすら挙げずに固執しているかでは構造が異なります。

そしてこの偏見としての観念は、同レベルの観念を理解した時にぐらつき、混乱というプロセスを経て、より高みに向かっていきます。

個人経験的な成功法則や都合による固執

複数の解釈が可能なことについて、何かしら偏った見解に固執するという場合、どこかしらに個人経験的な成功法則や都合が含まれています。

「そうなると立場上都合が悪いなぁ」というものから「自分の正当性を証明しなければ、現在過去未来の自分が否定されてしまう」というものまで、たくさんの都合が含まれているというような感じです。

他人との交渉においてはそんな感じで偏見を採用したままの方が良い場合も多々あります。結局選んで責任を取るのは自分ですから致し方ありませんし、高い社会性を利用というか悪用するような形で、自分の主張を通そうとする交渉相手もいるので油断することはできません。

ただ、そうした場合でもより抽象度の高いところから全体構造を見ておくと自他ともの論理の穴が見抜けますし、交渉においても楽になります。なので、自分の内側としてはなるべく偏見のみを保持したままよりも様々な見方ができるに越したことはありません。

偏りがあることの理解や執著に気づく

さて、同レベル以上の見解を理解することができると、保持している観念や概念に偏りがあることを理解することができますし、その奥にある自己都合による執著についても気づくことができます。

それは、交渉で有利になるとか不利になるといった他者との関係性の中でどうのこうのという領域ではなく、個人の内側の意識の領域において重要です。

自然界の生き物のように無駄な思考をしないで済むのであればそれに越したことはありませんが、ある程度言語的思考ができてしまい、何かしらの偏った見解を保持してしまうことが必然となっている「人」であるのならば、そうした領域の限界まで到達してしまうくらいしかありません。それは「執著が自然に消えて苦が消滅する」という面では楽な道となります。

これはコップの中に半分水があると、コップの「揺れ」によって中の水が揺れるものの、中身が空なら揺れようがなく、また、蓋をされ、中の全てが水で満たされていても特に揺れることがないというようなイメージです。

そうした高みにたどり着くためのプロセスの一つが「混乱」です。避けられがちですが、歓迎すべきものである「再構築」のプロセスです。

「クレタ人はみな嘘つきだ」的混乱

「そのクレタ人はどのクレタ人か」によって様々な解釈も可能な「『クレタ人はみな嘘つきだ』とクレタ人が言った」というようなものがありますが、論理的な言葉遊びによって、混乱を生じさせるというものも結構面白いものです。

混乱の果てにある答えは、言語化してもいいですが直感的に理解した方が良いようなものもたくさんあります。

ここでひとつ、ちょっとした混乱実験をしましょう。最終的にどういうふうに考えるべきなのかというところは特に示さずに置いておきます。

ある心理効果があります。

さんざん権威性を用いて「正しい」ということを示してきましたが、後年この効果を示す実験自体が嘘だったと発表されました。

しかし、「元々嘘だった」ということが嘘かもしれないという可能性もあります。

「本当のことであるが、効果が強すぎるため一般人に多用されては困る、自分たちだけが独占したほうがいい」と思った権威たちが、「あれは嘘だった」と広めることで一般の応用を抑制している、と解釈することもできます。

一旦、嘘をついたものが、再度「あれは嘘でした」と言ってきた場合、さて何をどのように解釈すればいいのでしょうか?

Category:philosophy 哲学

「偏見を解く過程としての混乱」への2件のフィードバック

  1. 「偏見を解く過程としての混乱」には特に哲学分野で長らく苦しめられてきました。

    僕の自我はわからないモヤモヤとしたものがあると気になってしょうがなくなり、基本的には先に進めなくなる傾向があります。
    それを拒絶、断絶し「ハイ!」という感じで気にせず、やり過ごすことができるのは、一種の才能としてそれはそれで幸せ(?)なのかもしれない、羨ましいと思ったことさえあります。

    もやもやについてわかるまで考えられれば良いですが、現実には社会的責任のようなことだったりとか、考えること以外の欲求もあるので、解決して次に進まなければいけないという焦燥感が起こります。
    特に述べられているような偏見などがあると解決まで時間を要することがあるので、考えること自体のエネルギー消費も相まって大ダメージを負うことが多くありました。
    そういうダメージを何度も負った時には、考えることに対して不快感を通り越して僕の場合はよくパニックになりました。そこで逃げ場があれば良いのですが、疑問があると考えざるを得ない自我の関数があるので、パニックを感じるものに飛び込まざるを得ない状況が生まれます。これが非常に苦しく、何度もこの罠にハマってきました。
    さらにパニック状態で思考がまとまらないため、結果的に問題は解決できず、ただ苦しんで時間を浪費してしまったという自責の念で二重の苦しみが起こったりもしました。

    現在は無駄な偏見がだいぶ少なくなり事実をある程度そのまま受け取れるようになってきたので、違うなあと思ったら即訂正という感じであまり混乱は起こりませんが、それでもたまに混乱と若干の不安みたいなのが起こることはあります。
    その際もブログでも度々述べられている無条件の安らぎの領域っぽいところに先に入ってしまうというやり方でパニックになることはほとんどない状態になりました。
    アファメーションやヴィパッサナーでしつこく対応するとか、散歩に行く、湯船に浸かるなどしてとりあえず意識を落ち着かせ、その上で確かなこと、確からしいことを事実のまま見るという意識で問題点を分析をすることで、あっさりモヤモヤが解決していきます。
    力技でパニックの中で出口を見つける方法より苦しみが圧倒的に少なく、効率的です。
    それを繰り返していくうちにモヤモヤが起こってもどうせ解決するだろうという余裕が出てきてどんどん良いループに入ってきました。混乱を歓迎し、楽しむ余裕が出てきたような気がします。

    パニックになっていると偏見を偏見として冷静にみることができなくなり、日常生活レベルで考える必要がないようなことまで考える必要があると錯覚してしまうことがあります。例えば「わかる」ということについて、実際は「わかる」とは内言語やイメージと共に起こることもあれば、感覚として突然起こり、その後言語などでまとめられるなどいろいろな現れ方がありますが、その本質を探ろうとしたり、ある「わかる」の形に執着してしまうと混乱してしまったりします。それも自我の恐怖心から過剰に「わかる」に対する裏付けを求めた結果ですし、まずは落ち着くことで日常生活程度を送る上で必要な程度の納得は得られると思います。その上でもっと知りたいと思えば余裕のあるときに考えたりして楽しんでいけば良いのだと思います。

    大げさな言い方になってしまいますが、事実として現在楽な状態になれたのはbossuさん、そしてこのブログのおかげだと思っています。
    自分の疑問に対して現実に的確に答えてくれる人は普段会う人の中にはいませんでしたし、哲学書に答えを求めようにも前提の前提部分をわかりやすく書いたような本はほとんどなく、逆に混乱してパニックになってしまう場合が多かったです。

    もし哲学的迷宮に入り込んでしまった同じような人たちがいれば、(現実世界では滅多に遭遇しませんが)このブログを見て1人でも多く解放されればなあと思います。

  2. コメントどうもありがとうございます。

    日常の何気ない物事でも、突き詰めて考えていけば論理構造が曖昧で、なぜ成り立つのかがよくわからないもので溢れています。
    例えば社会的なものであれば、「蓋然性とあいまいさ」で触れていた「『証拠』が証拠たること」などがそれに当たりますし、哲学分野で言えば「時間とは何なのか?」がはっきりわかったものではない中の「約束の時間」が成り立つのはなぜなのか、というようなものですね。

    そこに疑問を持って物事を逐次的に考えると行き詰まります。
    逆に、それを曖昧に許容した場合、「他人に曖昧さを出されると自分は困ってしまう」というような都合の悪さもあります。
    なので、確定させた上で、スッキリしたいという意図を持つのは自然といえば自然ですが、元が曖昧なので、それもうまくいきません。

    ということで、本質的に大切な点は「スッキリしたい、スッキリしていたい」という点に絞られます。
    哲学分野、社会的分野問わず、ある偏見を「確定的」にして日常の逐次的思考、選択、決定を楽に取り扱い、「スッキリしたい」というのが本音で求めているようなところです。なので、宗教空間、思想空間に没頭している人たちは、確定的に扱っていることを反証されるとムキになって怒ります。
    何も考えずに「ハイ!」と言っている人たちも、結局そうした脳筋空間を否定されると怒り出しますからね。

    でもそうした「確定させ得ないものを、思想により擬似的に確定させてスッキリする」という思考の制御に関するルート自体が誤りです。部分的に有効そうに働くことはありますが、根本解決には至りません。
    また、やはり逐次的思考による意志決定のために、確定させ得ないものを確定させようとするという場合も迷宮を彷徨うことになります。
    一つのテーマだけでも、歴代の哲学者たちが一生をかけてもたどり着けなかったようなものばかりですから。

    もちろんそうした哲学テーマは遊びとして取り扱う分には楽しいものとなっています。
    ただ、本質的には認識する働きとしての「この心」にとっての「スッキリ」がもっとも重要な点となります。
    ということで、考えるとしてもそうした点で考えれば、思考対象の取捨選択も楽になっていくと思います。
    思考対象、意志決定ともに、心身が「楽」、「楽しい」、「クリア」な感じを大切にしてください。

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