自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

自由意志はあるのか、もしくは自由意志はないのか、そんなことをいつまでも議論している人たちがたくさんいます。

何かと相容れなさそうな哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論にそれほど意味がないことが朧気ながら分かってくるはずです。

どんなことでも、前提が間違っているとその先の論理の展開もおかしな方向に行きます。まあ自由意志についての混乱は、つまるところ無明から起こっているという感じになるでしょう。

これは、何も考えないまま雰囲気で「哲学に意味がない」とか、「自由意志があるのかないのかなどどうでも良い」というわけではありません。

智慧により紐解けば自由意志自体が大した議論にはならない、そんな感じです。

一応「自由意志と洗脳」の続編的な感じになりますが、少し違った角度から「自由意志」について見ていきましょう。

決定論と純粋理性批判

おっといきなり難しそうな用語が出てきましたね。このセクションだけですのでご安心ください。

まずは、ニュートンの決定論的な世界観とカントの純粋理性批判から見ていきましょう。

決定論とは、簡単に言うと「あらゆる全ての出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している」というような感じです。

因果律的であり、今起こっている現象は、それ以前に起こった出来事によってのみ決定しているという感じです。ある一つの時点での物体の位置と運動を計測できれば、それが1秒後であろうと1億年後であろうとすべて予測できるというものです。今の現象も次の出来事の原因となるというような感じで、決まっていますよというような感じです。

この決定論の極地として、数学者ラプラスは「もし宇宙の全ての原子の運動と位置がわかるならばその知性は未来を完全に予測できる」と示し、ビックバンが起こったと仮定すれば、そのビッグバンの瞬間にその先のすべての未来における原子や電子の運動を知ることができるという考え(ラプラスの悪魔・ラプラスの霊)を示しました。

カントは純粋理性批判という本の中で、この決定論を支持しました。その上で続編である実践理性批判という本で、人間や社会においては非決定論であるというようなことを主張しました。

いきなり変な感じですが、純粋理性批判で自然界における決定論を支持しながら、その後実践理性批判で「社会においては非決定論です」というような主張をしたわけです。

その後、アルトゥール・ショーペンハウアーがその著書「意志と表象としての世界」の中で「人間の力ではどうしようもない、意のままにならぬ世界の本体」としての「意志」と、その現れとしての「表象」なんてな具合で分類し、決定論的なことを主張したりという流れもありました(余談ですがショーペンハウアーの考えでは、それゆえ世界への諦め・諦念へと繋がり、ペシミズム・悲観主義へとつながっていきます。そしてニーチェは最初これらを支持しながら、最後にはその帰結である「ペシミズム」を批判しました)。

またさらに後、自由意志を紐解く自然科学的なアプローチとして、決定論は古典力学的だということで現代の量子論から決定論を再考する人たちも出てきましたが(ニュートンは古典力学であり、その後の相対性理論や量子論の登場によってかなり古臭いものとして扱われているため)、量子論のランダム性は意志によって方向付けられるものではないため、結局ランダム的要素はあったとしてもそれすら自然の因果律的であるという領域から脱することはできません。

ただ、カントの純粋理性批判においては、「哲学的な自由意志」よりも人間社会の中での「行為」についての自由意志が対象となり「非決定論」が展開されているという感じです。

そういうわけで、ここから一応哲学的な自由意志と社会学的な自由意志という分類ができます。それについては後述します。

意志と条件と自由

さて、物事が起こる場合には必ず原因があります。もっと詳しく言うと原因と「原因から結果になるための条件」が揃う必要があります。

人間の行為においてそれを考えてみると、原因にあたるものは「意志」ですね。まあ「動機」という感じで考えても良いでしょう。そして、それによって実際に結果が生じるためには、体を使ったり、どこかの場所にいたり、何かを持っていたりということが必要になります。それが「原因から結果になるための条件」です。

因縁で言うところの「因」と「縁」です。本来の因縁についてはもう少し詳しく説明する必要がありますが、だいたいそんな感じだと思っておいてください。

で、次に自由ですが、何をもって自由とするのか、ということが問題になります。

何度か触れてはいますが、意志・動機は知らぬ間にやってくるはずです。「動機の段階から自由に選んだのか?」と問われれば、「何となくそう思った」とかそうした印象しか答えられないはずです。

「お腹が空いた。ラーメンを食べたいと思った。そして味噌ラーメンを食べた」

という場合を考えてみましょう。

食べるものを自由に選べる中でラーメンを選び、どの種類のラーメンを食べるかという選択も自由に与えられ、その中で好きなものを選んだ、という感じになるので一応どこかしら自由はありそうですが、空腹そのものに限っては、「空腹になりたい」と思ってなったわけではありません。

そしてさらによくよく観察してみると「ラーメンを食べたい」と思うこと、そして味噌ラーメンを選択することも、一応自由ではありましたが、本当に自由意志なのでしょうか?

過去の経験や目の前の条件や環境(匂いにつられてというものや胃腸の調子、昨夜の食事メニューなど)によって、方向付けられたりはしていないでしょうか?

そんな感じで考えると「自由意志」というものの「自由」が怪しくなってきます。「自由にやっているようで、方向付けられてやらされているだけ」という感じに見えます。

自由と選択

ただ、「自由」と「自由ではない」というコントラストをヒントとして考え見ると、強制されたり、選択肢が制限されているわけではないので、ある程度の自由はあります。

「選択肢が存在していて、その選択に制約がない状態」は一応自由といえば自由です。そしてさらに言うと、そうした具体的な選択の手前で、何を対象とするのかすら選択し、そこに選択肢があり選択に制約がない、というレベルの自由もあります。

前者は学校の選択科目を自由に選択する場合、そして後者は、根本的に学校に行くのかどうかというような選択という感じになります。

しかしこうした中で、ある程度自由は演出されていますが、社会的な同調圧力があったり、流行りのドラマがあって急に関心が向いたりという感じで、選択肢は自由にあっても、その選択の決定自体は予め方向付けられている場合があります。

アイツこと自我の目線で考えたとき、どうしても「自由意志はあって欲しい」と思ってしまいますが、そうしたものは「自由を感じていたい」「自由であって欲しい」という願いの感情のようなものです。

しかし意志に関する理屈をシンプルに考えると、理としては「選択肢の制限のような他からの制限」というものに関しては「自由」っぽい感じになるかもしれないものの、「動機の元」まで深く掘り下げると、「自由な意志で動機が発生しているのか?」というところに疑いをかけざるを得なくなります。

社会的な関係性の中で、選択に自由があるというものと、この意識の中に発生する「意志」自体を混同してしまうと、本質が見えてきません。

哲学的な自由意志と社会学的な自由意志

そのような感じで、決定論的ではありますが、哲学的な自由意志と社会学的な自由意志という考え方の違いから、自由意志をどう捉えるべきかについて考えていきます。

では、まず哲学的な自由意志の方から見ていきましょう。

哲学的に考えた場合は、「自由意志と洗脳」や幾多の過去記事である程度触れているように、「自分の意志」は自分以外の情報の塊を発端とする自然発生的な意志にしかすぎません。

自由意志に関係するものとして、些か科学的な実験を行い、コンマ秒単位の時間で自由意志はあるとか、もしくは、意識が意志を確認する前に筋肉に電気信号が走ったとかそういうことを自由意志と結びつけようとしている人もいるようですが、大前提として「自由意志」とはそういうことではありません。

ある意志に対して「意志として否定をすることができる」とか、「指を動かそうと思った」という意識と筋肉の信号との時間差とかそういうことではなくて、そうした「否定」しようとする意志(それが実験内容なのであれば「実験に沿うようにしようとする意志」)や、実験として「指を動かす」という行為の意志そのもの自体に「動機」があるはずです。

「そうした動機自体が自由な意志なのか?」ということです。

問題は脳と意識と意志の時間的関係ではなくて、何かの「意志」そのものが何によって形成されているのか、というところです。

生理的機能や社会的な関係性を含めた「環境」も、様々な理から導き出される「合理性」も、様々な媒体を通じて伝えられた「誰かの意志」も何も関係なく、一切の影響を受けずに「意志」が生まれるのか、という感じです。

先の「些か科学的なやり方」はそうした哲学的なアプローチではなく、観測可能な領域から何かしらをつかもうとしているだけで、大前提としての「自由意志」の定義が曖昧なのです。

それが意識的であれ、無意識的であれ関係なく、いわば「何からも一切の影響を受けずに意志が生まれるのか?」ということです。

そうした科学者は、思考上だけでもいいので前提として最低でも「縁起」を理解しておきましょう。

毎度毎度言っていますが、哲学的に見ると、本能的な衝動・動機は両親から発生したこの体からのものであり、考え方についても自分の周りの人や教育やメディアなど、自分以外のところからやってきた情報が自分の中で塊になっているにすぎないため、決定論的になります。

「情報の組み合わせ」というものはオリジナルかもしれませんが、その根本情報については自分以外のところからやってきているからです。自分がゼロから何かを生み出したわけではなく、外からやってきた情報が自分の中で組み合わさっているにしかすぎません。

その組み合わせのパターンが「他の人とは違う」という意味ではオリジナルかもしれませんが、ゼロから何かを生み出したわけではありません。

生理的な反応はもちろんですし、「何かをしよう」と思う意志が生まれるのも、そうした意志に沿って対象の選択を行うときにも決断するときにも、その奥にあるアルゴリズムのようなものは自分がゼロから作り出したわけでも何でもなく、自分以外のところから得た情報が組み合わさってできているはずです。

そう考えると、決定論的な「あらゆる全ての出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している」という感じがそのまま当てはまります。

「原因があって結果が生じ、その結果はまた次の原因になる」

という感じです。

「意志としての動機はどこから来るのか?」

それを考えたとき、まず本能的な欲求からか、もしくは頭で考えたことが体に影響を与えるということから始まるのではないでしょうか?

まず何かの原因に影響され、そこから生理的な衝動、つまり本能的な欲求による衝動が起こり、その衝動への対応が本能の領域とは別の領域で現れたりしているという感じになります。

頭で考えたことが体に影響を与え、体の反応に沿って衝動が起こり、それを解決するためにまた頭を使う、そのようなプロセスを感じることはないでしょうか?

ある人を見て、その人の声を聞き、その声の言語情報を頭で考えて怒りが生じた。つまり、その人を頭で嫌いだと考えた、そして怒りの感情が起こった。

怒りの感情が起こった際に体は不快を感じた。

体の不快を解決したいという衝動が起こった。

その衝動を解消したいがために、嫌いな人を傷つければよいのではないかと考えた。

考えに沿って行動を起こした。

その結果が、相手に怒りを与えた。

相手はその怒りに沿って、また上記と同じプロセスをたどった。

もちろん本当はもっと細かなプロセスがありますがここではひとまず置いておきましょう。

感情は結果であり原因にもなります。それが良いものであっても失う怖さや再び手に入れられなかった場合の悔しさなどを呼び起こす原因になります。良くない感情であれば説明すること無く、良くない感情です。ただの苦しみです。

良いものですら次の苦しみの種になるということで、あらゆることは苦しみであるという前提に立ち、苦しみにも原因があり、原因が無くなると結果も消えるという感じで捉えると、決定論的な「あらゆる全ての出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している」を突破する智慧が生じるはずですが、それは他の記事を参照いただくことにして、ここでは割愛しておきます。

次に社会学的な自由意志の捉え方について考えてみましょう。

例えば、犯罪については、その犯人に対して刑罰や損害賠償などの責任が科されたりします。

しかし、哲学的な自由意志の捉え方をした場合は、その犯人の意志は、本人の自由意志ではなく、本人の人格や動機を形成した「他人からの情報」が本当の原因になります。

日本の刑法で考えた場合でも、「過失」でも罰するという規定のあるものを除いて、原則的に動機がないと犯罪にはなりません。

原則的に犯罪を犯す意思がない場合は罪とはしないという感じになっています(法律用語を使ったほうが良いと思うのでここでは「意思」と表現しましょう)。

逆に言えば、動機があった場合は、罪となるという感じになっています(構成要件や違法、有責という部分はここでは触れません)。

しかし、哲学的に見ると、そんな「動機」は元々本人の自由な意志ではありません。その人の意志を作るきっかけとなった無数の情報が原因であり、その人にそのような意志を与える要因となった全ての人に責任がある、という感じになります。

しかし、その「意志を与える要因となった全ての人」にも、その人達に影響を与えた人がいます。そうなると、根本原因を探そうと思えば無限に遡って無数の対象を相手にすることになってしまいます。

そういうわけで、「社会においては非決定論です」というような発想が出てきたわけです。

社会において自由意志を捉える時には、「『選択肢が存在していて、その選択に制約がない状態』で選ぶこと自体が自由意志だということにしましょう」ということです。

そして、それを前提とした上で、自由意志で選択したことに対しては、本人に責任が及びますよ、というような感じになっています。

「社会学的自由意志で選択したことに対しては、社会的に本人に責任が及びますよ」ということです。

なぜなら目的や見方が他人との関係性、つまり社会からの方向だからです。

あくまで客観的な世界があって、その中の一構成員である個々人がその関わりの中でどう過ごしていくべきか、というところからの見方です。それは一神教にありがちな創造主と創造物といった世界観を前提としています。

社会においての取り扱い方、ルールの作り方、秩序を保つための帰属と帰責といった考えから自由意志を定義しているというような感じです。

目的は社会的秩序や功利といった感じで「人類の安全と発展」という感じになっています。だからこそ人と人との関係性を領域とする「社会」においての取り決めごとでは「自由意志」の定義をそのようにしているという感じです。

哲学的な自由意志の方で考えてしまうと、「自由意志はないのだからどうしようもない」ということになりますし、誰かに殴られたとしても「本人が自由意志でしたことではないのだから責任はない」という事になってしまいます。

また、哲学的に見ると何かをされたとしても、それは一瞬で過去になるので、既に現象は起こっていないことになり、何を対象とするのかが宙ぶらりんになります。

しかしそれでは人と人との関係性の中で秩序は保たれません。

ということで、「たくさんの選択肢があって、何も制約されないまま選んだのなら本人の自由意志ということにしましょう」ということで「誰がやったのか?選択したのか?」という行為の帰属と「誰に責任があるのか?」という帰責について自由意志として扱うことにしているという感じです。

といっても、世の中には「任意という名の強制」という構造を使う人達がいます。一応選択肢はある程度用意されているものの、たくさんの制約や圧力があり「結局選択肢は一つしかない」という状態を作り出しておいて「自由意志で選んだんでしょう?」というようなことを言う人達です。

「任意参加の会議」と言われても、出世を含めた評価に関わってきますし、どこかしら強制の匂いがします。特にマイホームを購入したり子供が生まれたりすると、それが人質のような形になり「そうそうのことで音を上げて辞めたりはしないだろう」という感じで無理な仕事を押し付けたり転勤させたりする風習があったりもします。

そうしたこともありますから、自由意志という言葉はかなり悪用されていると思っておきましょう。

哲学と社会学を統合して帰責を考える

ただ、社会学的な自由意志の捉え方は、社会のルール作りにはよくよく使えそうな考え方になりますが落とし穴があります。

それは、「何にしてもやった本人だけが悪い」という考えに陥ってしまうことです。

哲学的に自由意志を紐解いてみると、その人の行為の手前にある動機は、「その人以外」から形成されているはずです。

あくまでその人に情報が集まっただけで、その人のその人格、考え方、直近に起こった動機のタネはその人がゼロから作り出したものではなく、様々な現象から情報が集まり塊を成しただけだったりします。

社会的な帰責について自由意志を捉える時には、もちろん本人の責任ということになるでしょうが、「原因」を考える上では、本人以外の所に原因があるのです。

そう考えると、社会の構成員全てに責任があります。社会的に見ると責任はないように見えますが、原因ベースで考えると少なからず責任はあるはずです。

それが何気ないことであっても、誰かに何かの影響を与えています。直接の一次的な影響でなくとも、「誰かの影響を受けた誰かの影響」と言った感じで二次的、三次的で間接的な形で影響を与えているはずです。

そう考えると、死刑に関する議論の上で「犯罪を犯した人の世話を税金で賄うのはおかしいから死刑に賛成である」という考えは、「自分には一切責任がない」と居直っているように見えます。

しかしそれは本当でしょうか?

今まで生きてきて、どこかで誰かを少しも悲しませたり、怒らせたり、傷つけてはいないと胸を張って言えるでしょうか?

もちろんそんな自分の行為・行動の動機自体も自分がゼロから生み出したものではありません。

ということで、そうした見方から自分の責任を全て無しとするのならば、犯罪者に関しても同じことが言えてしまうため、矛盾となります。

結局実社会的な感覚で考えた場合、

「原因ベースで見ると多少の責任はあるのだから、その分だけ税金を負担しておこう」

という見方もあるという感じになります。実際の税金の使われ方などはまた別の問題になると思いますが、少なくとも自分に一切の責任はない、という見方は論理に矛盾が生じてしまうという感じになります。

さらに哲学的に考え我が事を振り返る

しかしながら、常連さんであれば既にお気づきのように、自由意志に関して今まで触れてきた内容はまだまだ浅いところになります。

哲学的な発想を持ったとしても、前提が社会的であり仮観の領域で思考しているに過ぎないからです。

さらに哲学的に考えた場合は、この心はこの心が受け取れる対象しか受け取っていません。

つまり、この目で見てこの耳で聞いている事以外は、言わば単なる意識が作り出した「意識の世界」でしかなく、それが本当に起こっているのかどうかはわかりませんし、起こっていたとしてもこの心が直接それを受け取らなければ、あってもなくても同じです。

そして、この心は今現在を受け取るに留まります。諸行無常ゆえにそうした現象すら瞬時に変化し、すぐに過去となり、現象としては存在すらしなくなり、記憶という「意識の世界の産物」にしかなりません。

もちろん今起こったことが次に起こる現象、次に心が受け取る現象の原因となります。そうした意味で因果は続いていますが、過去のものは全てただの記憶の中の情報でしか無くなっていきます。

因果の流れを考えれば、自由意志があるのかないのかという議論について、原因がなければ結果は生じず結果がなければ次の原因も生じないということになりますので、基本的に自由意志はありません。

自由意志は原因から生じた結果が次の原因とならない領域に飛び込むしか可能性としてはありませんが、そうした領域に飛び込むことすら意志が必要になるので、それすらも自由意志ではないと考えることができます。

で、自由意志がないのならばどうすれば良いのか?

それは非常に簡単です。

自分以外からやってくる情報によって人格が形成されてしまうのであれば、その情報を選択すれば良いのです。

という情報を今既にあなたは仕入れてしまいました。

こうした情報を見つけてしまったことすら、決定論的であり予定説的でもあるかもしれません。

しかしひとまず、何かの情報が自分を作ったのだということが分かれば、今後はそれを選んでいけばよいのです。

一種の社会学的な「自由意志」で、見るもの触れるものを流れに任せずに、自ら意図して決定していくという感じです。

ということすら、何かの流れによって発見してしまいました。

そのような感じで自由意志は無いかもしれませんが、ひとまずこうしたことを知る前と知った後では、その人の人格、考え方が少しばかりは変化するはずです。

そして、自分も少なからず誰かに影響を与えているのであれば、その影響をより良いものにすればよいのです。

「社会学的な自由意志に沿って考えれば、犯罪者その人だけに責任があるかもしれないが、哲学的な自由意志に沿って考えれば自分にも少なからず原因がある。自分に『責任』は無いかもしれないが、次に起こるかもしれない悪しき現象の『原因』とはなるまい!」

そういうふうに考えていくと、

「ここで相手の怒りに反応することは『悪』に加担することになる」

という風にも思えてくるはずです。

「間接的に影響を与えてしまうのであれば、安全な社会、犯罪の動機を作らない社会をイメージして、なるべくたくさんの人の苦しみが無くなるように行動を選んでいこう」と言った感じで、我が事を振り返る事ができるようになるはずです。

しかしながら、そうした仮観的なアプローチをしなくても、この心は自分が触れられる範囲しか触れられず、この世界には自分しかいないという空観的な捉え方をしてみれば、この心が捉えるものが良いものであればそれでいいはずです。

そうなると、常に自分を含めた全ての生き物に対する慈悲の状態を保つことが理想的です。すると「何が正しいか?」をいちいち哲学的、社会学的に考えなくても、正しい行動を取れるようになるはずです。

結果的に「実践理性批判」に出てくる定言命法「君の意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」とあまり変わりないような感じになってしまいます(不殺生戒と人を殺してはいけない理由で少し触れていましたね)。

ただ、そうした思いを人間社会だけでなく、全ての生き物に向けていくと、この心が受け取るものが煌めくもので埋め尽くされるようになるでしょう。

「怒りをぶつけられたから、その分を誰かにぶつけてやった」といったように、起こった感情を誰かに押し付けていけば、その感情エネルギーはどんどん広がり、集まりやすい所に蓄積し、いずれ塊となりそれを誰かが受け止めることになります。そしてその人はまるで贖いをするかのように悲しい結末をたどることになります。

心を今に集中し、起こった感情を時空の彼方に消し去ってやりましょう。

本当の自由意志はそこからはじまります。

Category:philosophy 哲学

「自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く」への4件のフィードバック

  1. 自由意志はないという考えを進めると、自分、つまり行為者はいないということになるかと思いますが、それについては、どう思われますでしょうか。ラメッシ・バルセカール(RAMESH S. BALSEKAR)という人が仏陀の言葉として引用しています。

    1. 言語で表現すると「自分、つまり行為者はいない」ということになりますが、「いない」を有無の二元論で考えると矛盾のように見えますので、有無を統合した空であり刹那瞬で変化する「状態」と捉えておくと良いかもしれません。

      経典の言葉を引用すると、まさに諸法無我になります。
      「『一切の事物は我ならざるものである』(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るとき」の「一切の事物」に我も含まれているという部分、そして「我は無い」というより「我ならざるもの」「我に非ず」といったニュアンスの方が適しているという部分がヒントになると思います。

  2. 他も読みましたが、ホンマ色々考えさせられると言うか、寧ろ思ってた事が整理される感じが凄いです
    楽しく読ませていただきました

    1. コメントどうもありがとうございます。
      それは良かったです。
      引き続きご愛読くださいませ。

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