ゴミは砕かれた人間の伝説なのかもしれない

笑う月によると、「ゴミ捨て場から聞こえてくる悲鳴」は、咀嚼されはじめた有用性の叫びであり、「まだ自分がゴミそのものではないという自覚、もしくは幻想」が、かろうじて日常を支えてくれているシャボン玉の皮なのだ、というような感じで描かれていたりします。

咀嚼されはじめた有用性の叫び

「自分はまだ有用性を失ったゴミそのものではない」という叫びは、至るところで見受けられたりします。自尊心の補償というものの一種ではありますが、「まだまだいけるぞ」というような、「老いへの抗い」のような感のほうが強く印象付きます。

老苦の範疇に入りますが、こうしたものは記憶への執著から来ているので、自爆行為といえば自爆行為です。

若さそのものがそれほど何かの付加価値を作っているわけではない

年齢が若いということは、まだ気力・体力的なエネルギーとか潜在可能性として「期待がある」という意味でチャンスが与えられやすいという感じが本質であり、若さそのものがそれほど何かの付加価値を作っているわけではありません。

しかしながら、若さというものだけを武器にしていた人たちにとっては、それそのものに価値があるということを年齢を重ねてからも思っていたりします。

若いという事自体に何か価値があるかのような考えを保持していて、それを失うことに抗うという構造になっています。

期待として与えられていたチャンス

そんな期待として与えられていたチャンスも「いずれ立派になってくれ」というようなものであり、潜在可能性への期待から、大目に見られていたというだけであって、ある程度の年齢になると「見た目なり精神年齢なり何なりが若い」というのは、ただ幼稚というだけにしか見られないというのがその実際です。

というようなことを中学生くらいの時から思っていました。

その裏には次のような構造があるからです。

いずれ自分が優遇されない側になるという現実

若さと美しさを根拠に何か優遇されたとすれば、必ずその先には自分が優遇されない側になるという現実が待っています。

現時点では若さにより軍配が上がっていたとしても、必ずその先にはその逆が起こるということになるというのは単純な思考でも知ることができます。

そしてそうした構造があるということは、「必ず優遇されない側になる」ということが恐怖の対象になるということです。

経済社会の中でも同様に優遇されない側になる

これは経済社会の中でも同じです。若いということを理由にチャンスを与えられるということはありがたいですが、そうしてやってくるチャンスはいずれやってこなくなります。新規店舗ならばチャンスを与えられますが、何年かすればそんなチャンスはさらに新しい店舗の方にしかやってきません。

最初に潜在可能性を期待してもらって、チャンスを貰った時点で、それを掴んで成長しないと、「そのうち同種のチャンスはなくなっていく」という事実の前で恐怖心が生まれてしまいます。

「チャンスが与えられた時」の構造にしか着目していないという近視眼的な怠慢があると、いずれ訪れる現実に右往左往することになり、若さへの執著が生まれてしまい、さらに苦しみを得てしまうことになります。

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