いくつになっても夢中になることができれば青春のような感覚になる、というのはいいのですが、たいてい「おじさん」というものは、その大半の人々においては夢中になれるものがないんです。
「それっぽい楽しみ」のようなことには手を出しますが、本気で楽しんでいるかというと、本当には楽しんでいません。
おそらくそうした時に「手を出すこと」はどこかしらモテや健康等々を意識したものが多いのではないでしょうか。
それでは夢中になるはずがありません。
そんなことを先日、たまたまもらった「有効期限が近い回数券」で行った温泉で、浴場は胸板強調系の若者だらけの中、「サウ活」などというものに手を出しているおじさんを見て思ったりしました。
おじさんがサウナに入っているだけですから。
そして、サウナから出てくるサウ活中のおじさんは、水風呂の水を浴びる時に周りを気にしないので、飛び散って冷たいんです。
ちなみに僕はサウナはさほど好きではないので元々入りませんが、そんなサウ活おじさんに囲まれるのも何なので、さらにサウナに入る動機が無くなっています。
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と、脱線気味でしたが、「ほどよいゲーム的青春」というものは、何もゲームを意味するものではなく、「ゲームをしている時は他人のことなど気にしておらず、ただ楽しみながらゲームに没頭している」という意味での「ゲーム的」という感じです。
これは、バックグラウンドに流れるとすれば「Lose yourself」であり、空気感で言えば「まんが道」という感じになります。有名人で言えば本田宗一郎氏のような感じです。
「女の子に夢中」とかそういうものではない、ということですね。
ひとりでコツコツと黙々とやってしまうタイプのやつです。
別に独りでないといけない、というわけではありませんが、基本スタイルは「一人」になります。
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この「ほどよいゲーム的青春」にデメリットがあるとすれば、日常的に気絶寸前で過ごすことになる、という点です。
「頭が働きっぱなしになる」ということで、睡眠もおかしくなります。
自分では大丈夫なつもりでも、ふとしたときに、「ふっ」と倒れそうになる状態が多くなります。
こういう時は作業もしているのですが、合間合間にアイデアが降りてきます。
そこで最近の環境の面白いところは、そのアイデアの詳細をすぐにAIで確認できるところです。
分野によっては「関数で示す」ということをしてくれるので、「まどろっこしさがない」というところがいいですね。
仮説の検証という面で、既に結果が出ているものもあります。
そこからさらにまだ仮説すら出ていないところを探っていくというのが面白いですね。
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ただ、データの分野に対してズレたことをしても仕方がないように、データの外側にある分野をデータでなんとかしようとするというのもズレています。
本来はもっともっとシンプルなのですが、普遍性と再現性を考えて完璧にしようとすると難しくなってしまう、というのが常です。
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青春感覚を取り戻そうと、昔夢中になっていたことを再度やってみたりもしますが、さほどその当時ほど夢中にはなれません。
これは、ひとつの老苦のようなものでしょう。
仮に、おじさんが、「君が好きだ」的な歌を歌ったとして、「本当に?」というような事実確認が行われた時、十代の時のような気持ちのレベルで好きなのかどうか、というところには自信を持てないのではないでしょうか。
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とにもかくにも楽しいということは良いことです。
ただ、楽しいということを外に求めると、不足感に意識が向きがちになります。
