向きと手綱

今回は「これ以上無理だろう」というレベルでシンプルに書いていこうと思います。

現象や体験は、意識の向きで決まります。

因果と言えば因果ですが、過去に思ったことが今起こるということではありません。今の向きが今の現象を生起しています。

ただ、その「今の向き」に対してつじつまを合わせる時に記憶を持ち出します。

それで「記憶の方をなんとかすれば、体験もなんとかなるのではないか?」と考えますが、それはうまくいくときといかない時があります。

脳は臓器であり、思考は道具です。ただし暴れ馬のようなものです。

感情は、「その方向を向くとこんな感じです」という指針でしかありません。

とりわけわかりやすいのは、思考による感情です。

「そういう思考」、「その対象に意識を向けること」、「その視点で物事を見ること」は、「そういう向きでありロクでもないですよ」というシグナルです。

それらの思考も、たいてい理屈としては正しいんです。

ただ、それはある空間、ある前提の上では正しいと言うだけで、別の「同レベルの正しい理屈」もあったりします。

そちらの方に意識を向けると、反応としての感情も変わります。

「その感情が楽なのであれば、そちらの向きを選択する」という感じで選ぶこともできます。

これが向きを変えるということです。

で、思考という暴れ馬は、放っておくと暴走し、時に事故を起こします。

基本的に、思考というものは不足や不安の方に意識を向け、対策しようとします。

安全ならば考えなくてもよいですから。

普段、部屋の中にいて、「この空気は大丈夫だろうか?息を吸っても大丈夫だろうか?」ということは、よほど「変なにおいがする」というようなシーンでない限りありません。

一応ほぼ安全だと思っているからです。

そういう前提なので、考えません。

しかし厳密に言うと、細菌やウイルス、ハウスダストの類、それらが出す毒素、いろいろなものが混じっています。

なので、考えて嫌がろうと思えば、嫌がることもできますし、それを裏付ける理屈としては、正しさを帯びる領域でもあります。

こういうのは「反応が出るか出ないかの閾値の問題」なのですが、こだわろうと思えばどこまでもこだわることができて、嫌がろうと思えばどこまでも嫌がることができて、「気にして考えよう」と思えばどこまでも気にして考えることもできる話です。

それで思考というものは、敵や味方という二元論で考えるものではなく、「そういう性質を持ったものなのだ」という捉え方をすると生きることが楽になります。

「放っておくと、不足や不安に意識を向け、時に暴れ出す」という性質があるのですが、これとどう向き合うかにはいくつかの方向性があります。

「思考が起こっても無効化」で向きに影響を与えないというのがヴィパッサナーです。

そして、「手綱を握って向きを変える」というのが、言葉や動作を利用したいろいろな方法論です。

何かを唱えれば、何かの祈りを捧げれば、というようなものから、十字架を握るというようなものもあります。

つまり、そうするとそちらに意識の向きが向くわけです。

ただ、そんなまどろっこしいことをする必要はありませんし、「なぜなのか?」を裏付ける概念の構築が必要になったり、それが「思考の暴走時」に悪影響を与えることもあります。

手綱を握って向きを変えるといっても、理屈としては大したことはありません。

ただ、大したことはないのですが、それを忘れていると、暴れ馬は暴走して事故を起こすこともありますし、そこまでいかなくても心を振り回してしまうことがあります。

理屈としては単純に

例えば、寝る前に「今日はいい日だったなぁ」と言うと、

「今日の思い出の中から『良い日だった』と思える出来事の記憶を優先して想起する」

ということです。

そう思っていなくても、そう言って口に出したりしていると、そうなります。

「たったそれだけか」と思うかもしれませんが、野放しにしていると、生命のリスク回避を中心に重要だったと考えられるものばかりが重要度に応じて順に想起されます。

そうなると、「すれ違いざまのアイツの目は怪しかった」「あの店員の態度は、私をナメていた」とかそういうことが順に出てきます。

ここで大切なのが、「正しい」という尺度ではなく、

「現象や体験は、意識の向きで決まる」

という点です。

よく言霊云々ということを言う人がいますが、それは印象を概念・思考がこじつけたらそうなるということです。

言葉自体に力はありません。

思考にもイメージにも現象を生起する力はありません。

「あの政治家が云々」といいながら、その実、単に自分に可処分所得が少なく遊べないとか、金がなくかっこつけられないからモテないんだ、人に奢るカネがないから自分は大切にされないんだとか、そういう不快感を持っている人がいたとして、その人の向きは、「不足」「欠乏感」などに向いています。

でもその人が、思考が根負けするほど、「ありがとう」とつぶやき続けたとします。

すると、ある時、「実はあれは、ありがたいことであり、自分は最低限程度かもしれないが、人に大切にされていたのではないか?」というようなことを思い出したりします。

解釈が変わって見えるということかもしれませんし、忘れていたことを思い出した、ということかもしれません。

解釈変更や思い出すことが「必要」というわけではありません。

しかしながら、その瞬間に向きが変化します。

その人の日常において、一応毎秒毎秒細かな変化はあるものの、概ね「不足」にしか向いていなかった意識が変化します。

思っていなくても口に出していると、そのような「意識の向きの変化」が起こります。

それは、意識の向きではありますが、思考の向きではありません。むしろ体感の方が近い感じです。

しかしながら世の中には「ありがとう」を連呼していると良い、とだけ考えている人がいます。

しかしその場合は、「ありがとうを連呼していると良いことが起こるかもしれない」という意識の向きが連続するだけで、現象もその向きに応じたものが連続するだけです。

説教臭く「反省しろ」と言いたいわけではありません。

考え方を変えなければならない、特に「ねばならない」という条件が必須というわけではないのですが、こうした事例、構造の場合は

「考え方を変えないと変わらない」

と、はっきり言っておいた方が良いのではないかと思います。

「必須条件ではない」というところと矛盾が生じやすいので、こうしたことは話としては避けたいところですが、時と場合によってははっきりと言っておいたほうが良いのかもしれません。

「数百字でシンプルに」と思いましたが結局ある程度の長さになってしまいました。

再度単純に示していきましょう。

現象や体験は、意識の向きで決まります。

過去のカルマというものも「空」です。無いといってもよいのですが、あったところで、今の向きが今の現象を生起しているので、今、影響がなければ、無いのと同じです。

思考も感情も言葉も現象の生起に直接は関与していません。

思考はツールで、思考からくる感情は向きの属性を示す指針です。

思考は、言語や動作によって方向を変えることができます。

言葉を使うと、その言葉に沿った想起が始まりやすくなります。

そのため、「ありがとう」という言葉を、思っていなくても口に出すと、ありがとうという言葉に沿った想起が起こりやすく、その想起から、「その属性」を掴むことができる瞬間がくることがあります。

その属性が向きです。これは体感が近いですが、イコールではありません。

こうした構造があるため、言葉自体に力があると考える人もいます。

本当は言葉自体に力はありません。

なので、ありがとうを連呼してもうまくいかない人がいます。

思考が現実を作るということ言う人がいます。

しかし、思考が現実を作っているわけではありません。

感情が現実を作ると考える人もいます。

しかし感情も現実を作っていません。向きを知らせているだけです。

過去のカルマというものは、野放しにしていると不安や不足に焦点を当てて時に暴走する思考とそれに引きずられる「向き」の癖のようなものです。

野放しにしているとあるように振る舞うので、あるという解釈もできますが、あったところで無いのと同じにできるということで「空」であるという表現をしておきます。

Category:miscellaneous notes 雑記

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