確率に潜む日和見

個人レベルの意識であれ、その集合である社会の流れであれ、決定論的な理も働く中、その実、確率による因果が働いています。

以前にも少し触れましたが、大腸菌のバランスのように善玉菌と悪玉菌と日和見菌かのごとく、ある流れとそれを否定する流れが常に争いの状態となっており、7割程度は中性で、残りの3割の枠を善と悪のような両極端が争いを起こしているという感じになっています。

残りの3割の枠に対して2対1になるのか、1対2になるのか、はたまた均衡状態にあるのかによって因果の確率の中で、決定としての現象が異なってくるというような感じになっています。

記憶の中の大半は中性

個人レベルで考えると、記憶の中の大半の物事は中性であり、占有面積としてはそれほど大したことがない「中性ではない善悪の意識のバランス」がどうあるかによって、その中性の記憶がどう活かされるかが変わってきます。

例えば、包丁を使うという動作ができるかどうかという部分の記憶は中性です。まあ包丁を操作する能力といったところでしょう。そして、その包丁は、自分や人のためにも使うことができますし、自分や人を傷つけるために使うこともできます。

そのような感じで、能力を含めた大半の記憶は、どっちにでも活用できる記憶になりますが、ちょっとしたことで「そうだあの人を喜ばせよう」と思ったり、逆に「あの人を傷つけてやろう」ということになったりするわけです。

ほとんどは、中性的で、単なる経験の記憶、単なる能力だったりするのですが、3割枠がどうあるかによって、結果的に起こる現象は真逆になったりもするという感じになります。

日和見は優勢側に加勢

善が2で悪が1なら、優勢な善に残りの7割が加勢するので、9対1になりますし、その逆もまた然りです。もし、善悪がちょうど同レベルであれば「葛藤」や混乱がやってくるという感じになるでしょう。

そういうわけなので、「悪人を改心させなければならない」と思う時、9割も手掛ける必要があるのか、と思ってしまいますが、実際は1割位を善寄りにするだけで、あとは日和見がなびくため、それほど難しく捉えなくても良いという感じになります。

ただ、可能性的には、大腸菌のごとく仮に「善玉菌がゼロで悪玉菌しかいない」という場合であれば、洗脳レベルで善を上書きするしかないという場合もあるでしょう。つまり、悪玉菌を殲滅させた上で、善玉菌を送り込むくらいのことが必要になるという感じです。

そのような感じで、個人レベルでも善悪というコントラストのごとく「ある流れ」と「否定側の流れ」が3割枠で常に揺れ動いていて、その場その場の状態によって現実の現象が展開していっています。

社会における流れも日和見

こうした7割の日和見と3割の対立主張による決定は、社会の流れ、雰囲気においても同様の構造になっています。

個人の中で、言語的思考レベルにまで「表層上の意識に浮かぶか」ということが言動の決定に関わってくるように、社会においては日和見枠への情報の到達や接触頻度というものが、優勢・劣勢を決定づけたりもします。

例えば、社会において何某かの肯定派であるA派とその否定派であるB派がいたとしましょう。

そこで日和見が大半である中、揺れ動く確率の中で全体の流れを決定づけるものは、A派、B派の実際の数や力というよりも、どちらの主張が日和見に対して「到達し、接触の頻度が高いか」ということが焦点となるという感じになっています。

到達させる力や接触の頻度を増やす力として、A派、B派の実際の数や力が関係してくるという感じになりますが、「主張が正しいから」と言うわけではないという感じになっています。

日和見に対する情報の接触頻度による影響が感じられるのが、LGBT云々の主張です。

かつては、「気持ち悪い」というのが主流であり、「ホモのマネ」がメディアで笑いのネタにされていました。

しかしながら、そうした団体の主張が活発になると、日和見側の意識としてはその実際が単なる性欲であることを捉えぬまま「多様性を認めていこう」というような感じで流されていきます。

それまでの間も、「何があっても嫌だ」という人は数%くらいだったというのがおそらくその実際であり、数%の人の考えの方が主流で、あとの人たちは基本的に「別になんでもいい」という感じだったのでしょう。

その後、人々の興味関心の矛先が、マスメディア一極集中から多少分散する形になり、発信も容易になりました。

今までコソコソ生きていた人たちが「声を大にしていいんだ!」ということを思い始め、今まで抑圧され鬱屈した精神を世に開放しだしました。

一気に勢いづいたので、情報を含め「何があっても嫌だ」という派の人の数や力を一気に追い抜くことになりました。

そうすると日和見はそちらに加勢します。

ということで、日和見がなびき、社会の構成員の大半が「今の時代は」的に「認めていこう」みたいな流れのように見えますが、その実際の構造は、端的には「数%が、数%を押しのけた」という程度で、社会構成員の総意でも何でも無いという感じになっています。

ということは逆に否定側が声を大にして主張していけばひっくり返るということです。まあそこまで主張をするほどの実害もあまりなければ、主張への熱意も生まれないので、どうなるのかはわかりませんが、「今の時代はそれが主流」などという流れに惑わされない方が賢明です。

そして、それくらいのレベルの話であれば、否定側が本腰を入れれば社会はひっくり返ることがあるということになります。資本や権限が関係しないような領域であればなおさらです。なので、日和見が加勢しているからと言って、折れる必要はないですし、どんどん否定的意見を出すということに意義もあるということになります。

変化する怪物と四半世紀の混乱

しかし基本は、我が心のこととして、外界の状態に依存しないことが大切です。相手が個人であれ、社会であれ、相手の状態によって心が苦しみを受け取るのは本末転倒です。なので、精神を静め、ただ「ある情報の入力に対して、ある情報を出力する」という程度にしておくのが理想的です。

悪玉が猛威を奮った時に起こる抵抗

個人レベルの意識にしろ、社会の流れにしろ、基本的には、善玉菌、悪玉菌、日和見菌のような構造になっていますが、「悪玉菌が優勢すぎ」ということで、緊急事態が起こった時は体が急に活動を始めるという場合があります。体温を上げ抵抗力を高め、より大きな存在が善玉菌に加勢するという感じです。

それは、通常考えうる形で起こる場合もありますし、思いがけない形で起こることもあります。

例えば、インバウンド云々で京都では、「儲けたい観光業や不動産運用をしようとしている人」と、「マナーの悪い外国人に被害を与えられている市民」の間で悶着が絶えませんでした。

そんな中、京都市が条例を定め、違法民泊の取り締まりをはじめました。それにより数の調整は入りましたが、それでもなお観光公害は絶えませんでした。

と、そこまでは普通ですが、その後、新型肺炎によって、一気に数が激減しました。

これで潰れる業者あるとすれば、今まで存在していたほうがおかしかったということになるので、経済的損失は、単なる損失ではなく、免疫機能による調整に近いようなものがあります。

かつてからあるような業者にしても、中国人に媚を売り、国内観光者を蔑ろした末路ということになるので、頭を冷やす良い機会になるでしょう。

揺れる確率の中での決定

確率というものは結構シビアであり、理解不能な感じでその通りになっていったりします。

ある企業の離職率や、学校の退学率なども、「ある年はゼロで翌年は多い」という感じになってもいいのに、だいたい毎年のように同じような数字で推移していたりします。

もちろん毎年のように環境要因が変化していくので微差があったりもしますし、「インターネットの登場」などなど、著しく環境を変化させるものが現れる前と後では数値が変化したりもします。

長年同じような構造が続いていて、特に環境要因に変化が激しくないようなところは、善玉菌・悪玉菌・日和見菌のバランスも安定しているという感じになっているのでしょう。その状態が確率を決定しているという感じになっています。

個人レベルでも同じで、ある程度年齢を重ねていくと、異なる刺激を受けても考え方が変化することもなく、という感じになっています。ちょっとした善玉菌が入ってきても、悪玉菌が入ってきても、それほど変化はないという感じです。

そしてある程度固定化された確率の中で、因果が起こるという感じになっています。

善悪が比較的均衡状態にある時は、少しの刺激で一気にどちらかが優勢になることもあります。均衡状態により葛藤が続き、内臓に疲れがある中で悪玉菌を放り込まれた場合は暴走してしまうという感じでしょうか。

「冷たい対応」と「腹の冷え」がまた少し似通っているのが面白いところです。

抵抗力を高めて抑制する

で、悪玉菌優勢で日和見菌もなびいている時に、善玉菌に期待だけしても難しいものがあります。

が、悪玉菌がいるのは仕方がないにしても抵抗力を高めて抑制することはできます。

善玉菌を投入するということもひとつですが、温泉や白湯で腹を温めたり、腹回りのコリをほぐすというのも効きます。

それと同じように、日常の現象がロクでも無いという場合、確率の変動と、揺れる確率の中での決定を安らかなものにするために、真面目で善寄り精神のみによる抑制だけではなく、身体側からアプローチするのも有効的です。

腹が弱ると弱気になったり、手や腕や首が凝り固まるとキレやすくなったりします。

善玉菌を助けるべく体の基礎的な免疫力を高め、悪玉菌に対抗するのと同じように、よほど悪玉優勢のときは、精神のみで操作せずに身体側でサポートをする必要があります。

現象は揺れる確率の中で状態に応じて決定するということなのであれば、確率の中で何が決定するかはわからないにしても、確率が変わればすぐに目の前の現象も変化していきます。

精神状態も目の前の現象も、「大掛かりなことではなく、たった1割を動かす程度のことなのだ」ということを明らかに観て、悪玉側を抑制してみると、「いいことは10回に1回しか起こらない」から「10回に9回も起こる」に変わります。

まあ端的には、9割位不運が続いているような感じでも、本当は、ほぼ全部がダメというわけではなく、7割はすぐになびいて加勢するというだけなので、「いい方」を1割から2割に変更するだけで9割が幸運になるということになります。


確固とした意志を持つことがなく、その時の状況に合わせて多数の勝ち馬に同調するという日和見層がだいたい7割といったところになります。それは腸内細菌の世界ですら起こっていることなので、変わることのない自然のバランスなのかもしれません。ただ一つずつの細菌自体は一応独立した存在でもあります。社会の構造がどうあれ結局は自分個人がどうあるかというところだけが問題となります。

日和見な昼行灯

Category:miscellaneous notes 雑記

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