「操作できる」という実感

リアリティを高める重要な要素としての「操作性」や「操作できるという実感」、そして「自分の意志で情報が変化する」という点や反応がない場合に起こる憤りなどについて触れていきましょう。

映画やドラマ等々を長時間視聴することは難しいものの、ゲームなら半日でもやり続けることができる理由はどこにあるのかということをふと考えました。

昨年から観続けているXファイルですが、全話で200以上あるのでまだまだ終わりません。DVD一本で4話入っており、1話が45分弱なので、DVD一本で3時間位の時間になります。しかし連続して観ようと思っても体力が続かないので、一日でDVD1本を全て観たことはありません。なお、頭に血が上ってしまうのか、食後のXファイル鑑賞は、胃腸に悪いということで時間を空けてから観たりしています。

一方、年始から幻想水滸伝2をやってみたりしていますが、結構長時間プレイしても平気だったりします。中学生の時は、休日に12時間以上やり込むということもザラにあったので、この差は何なのかということが少し気になった、という感じです。

以前、「世界を動かしている」という実感で自分が操作できるという感覚欲しさに権力を欲するという旨について触れましたが、考えてみればこうした「操作性」や「操作できるという実感」が、リアリティを高める重要な要素なのだということを思い出したりしました。

リアリティを高める重要な要素

この心が今何を捉えているかということを考えてみた場合、映画を観ても映画の中の展開に感情が動いたりするように、意識の中で捉えたものが現実かのように働くことがあります。

といっても、大体は色眼鏡で世界を観ているので、現実すらも100%の純度で観ているわけではないというのが本当のところですが、映画館での鑑賞を代表として、より高い臨場感で映画を観て、普段使っている感覚以上に意識が没入すると、仮想空間の中の情報で心が埋め尽くされるという感じになります。

で、そんな臨場感ですが、それを高める要素として重要なものの一つが操作できること、情報の状態の変化に介入できることです。

ゲームもドラマ鑑賞も、基本的には画面を見て、スピーカーから流れる音を聞くという視覚と聴覚だけの仮想空間ですが、ゲームの場合は、その対象を自分が操作できるという要素がプラスされています。

もちろんゲーム内に組み込まれた範囲のみになりますが、少なくとも一方的に垂れ流される情報を受け取るのみならず、能動的に操作することができるという要素があります。

だからただの鑑賞よりもその世界に没入しやすく、その世界へのリアリティが高まるのだなぁということを幻想水滸伝2をプレイしながら思いました。

自分の意志で情報が変化する

「なぜあれほどゲームに没頭するのかわからない」

こうしたことは、ゲームに夢中になったことのない人たちからよく言われることですが、次のように考えてみてはいかがでしょうか?

ゲームはしたことがないものの、スポーツ観戦くらいはしたことがあるという人であれば、スポーツ観戦の合間、画面に向かって

「頑張れよ!」

と声を出したら、画面の選手が笑顔で会釈してくるという場面を想像してみて下さい。

自分の声に相手が反応してくれる、という感じです。

もしそうであるのならば、おそらくそのスポーツ観戦への熱がより一層増すはずです。

「よっしゃよっしゃよくやった」

と声をかければ、こちらを向き

「ありがとうございます」

と声がしてくるとしたらどうでしょうか?

おそらくただの観戦ではなくなるはずです。

一心同体感が増して、より応援に夢中になるはずです。

そうした感じが「リアリティを高める重要な要素」としての操作性の一つであり、何も自分がスポーツをプレイしなくてもよりその空間に没入できてしまうという感じになります。

ゲームにはそうした要素があるので、ただの鑑賞よりもより一層意識が没入しやすいという感じになります。

レスポンスがない場合の憤り

まあそうした操作性やレスポンスは、逆に考えると想像通りに逆に働きます。操作できる、情報に介入できるという状態ならば良いですが、逆に反応がない場合、操作できない場合には憤りが生まれたりします。

Twitterなどが世に広まってきてからというもの、著名な人とも直接連絡が取れるというような時代になってきました。

そこでよく起こる勘違いが、「反応するとは限らない」ということを見落としているという部分です。

連絡をするということ自体の権限は自分にありますが、それに反応するかどうかという権限は相手にあるということを忘れがちだという点です。

そして連絡内容が憤りに満ちたものであり、かつ、コミュニケーションが拒絶された場合、その憤りが数倍になって自分のもとに返ってきます。

処世術としてのマナー

そうした時に有効なのがマナーというものになります。

別にマナーというものは「決まっていて守らなければならないもの」ではありません。守らなければ社会的に罰せられるというものはルールの範疇になりますし、マナーは特に必要なものではありません。

必要なものではないのですが、「双方向のコミュニケーションを望むならば、こういうふうにすると軋轢が起こりにくい」という世渡り術のようなものになります。

「質問には返答をしなければならない」

という概念があったとしましょう。

その考え方を採用するかしないかは個々人にあります。

だから、相手にされないという場合にそうした倫理的なマナーの範疇のことを持ち出したとしても、それには絶対性がなく、相手の権限の範疇にあることに対して、それを根拠に現実を動かすことはできないのです。

大企業の社長に単に文句を言ったところで、現実を動かすことはできません。本当に動かしたかったら筆頭株主にでもなって株主総会でその問題に対して言及するくらいでないと効きません。

何を目的としているかによって言語表現を含めた「内容」が大きく変わってくる

そうした時に考えてみたいのが、何を目的としているかという点です。

そこで目的としているものが何なのかによって、言語表現を含め内容が大きく変わってくるはずです。

問題提起や反証・根拠が含まれていれば、「議論を高めたいのかなぁ」と思ってもらえるかもしれませんし、逆に単に感情的なつぶやきならば「あ、そ」で終わってしまうかもしれません。

そうして相手に「ああ、憂さ晴らし系ね」と思われて遮断されても、それ以上は何も動かせないという感じになります。

そうなると、憤りをぶつけたつもりが数倍になって自分に返ってくるということになってしまいます。

そういうわけなので、憤りをぶつけられたりしたら「あなたに操作権限はありません」ということをするだけで良いという感じになります。

いい人だと思ってたんですが…

そういえばかなり前になりますが、急に豹変した取引先が交渉において

「いい人だと思ってたんですが…」

ということを言ってきたことがあります。

「はい」

とだけ答えると、

「いい人だと思ってたんですけどね…」

と繰り返してきました。

なので、

「はい。で、どうしたんですか?」

と答えたりしました。

まあ「人はみんないい人だと思われたい」→「あなたもいい人だと思われたいでしょ?」→「じゃあこの交渉で譲歩しなさい」

というような簡単な三段論法的な攻めだったのでしょう。

まあこれは契約内容に無いようなものを追加で無償対応させようとしてきた際に跳ね返したときのやり取りです。

根本的に契約内容を無視している時点でおかしいのですが、その上小学生並みの感情的な交渉術を駆使してきたわけです。

しかし、権限は僕にあり、かつ、契約上も僕が正しく法的にも僕が正しいため相手には権限がありません。

苦し紛れの感情論には動じません。

泣いて駄々をこねても動かせないのです。

自己実現と安らぎ

Category:miscellaneous notes 雑記

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