感謝の効用のカラクリと注意点

「感謝」について、感謝の効用のカラクリと注意点についてでも触れていきます。

胡散臭い自己啓発やスピリチュアリズムなどが蔓延してからというもの「感謝」が安物になりました。

言霊が云々なんてなことを言いながら、何にでも感謝しろというような一種の社会的圧力すら出てきているような感じもします。

ありがとうなんて思ってもいないくせに「ありがとう」とか「感謝してます」みたいなことをひとまず言っておけばいいというような風潮があります。

それはそれで時にうまく働くことがありますが、逆に精神を悪化させてしまうこともあります。そういうわけなので、感謝の注意点と、感謝の効用、そして自己啓発や胡散臭い言霊スピリチュアルのカラクリについてでも触れていきます。

まあこれらは一種のカルトの伝染病のようなものです。そしてそうした人たちの「雑さ」は時に人を苦しめてしまいます。

ということで、無理に感謝なんてしなくてもいいということについて触れていきます。

また、感謝を強要してくるタイプの人もいます。常連さんであればすぐにお察しだと思いますが、そういう人は単に虚像たる自尊心が欠落しているだけだったりします。今回はそれについては触れず、また別の機会に触れることにします。

ひとまずは、そうした「感謝をしよう」ということを盲目的に言っている人たちがなぜそうしたものに陶酔し、アホの一つ覚えみたいに感謝しましょうなんてなことを言っているのかというカラクリや無理に感謝などしなくても良いという理屈についても触れてみます。

蓋を開けてみると笑ってしまうくらい単純ですので、感謝の効用のカラクリを知った上で、こうしたカラクリを利用して人を洗脳するカルトやブラック企業を爆笑してやりましょう。

「親に感謝しよう」なんてことを言う前に

一時インターネット上でも言霊スピリチュアル系の人たちが、思ってもいないくせに「ありがとうございました」とか「感謝しています」的なことをコメントスパムのようにいろいろなところに撒き散らしたりしていました。

おそらく本文を読んでもいないくせに「共感しました」とだけコメントしているような人もいたくらいです。

そして、本人の記事を見てみると「親に感謝しよう」みたいなことが書かれていたりしました。

まあそういう言霊カウンセラーか言霊コーチか、言霊アーティストなのか何なのかは知りませんが、ひとまずそうしたカルトのような胡散臭い系のことを生業にしていて、売名行為と集客に必死だったのでしょう。

おそらく誰かからの受け売りだと思いますが、「親に感謝しよう」というようなことが書かれていたりしました。

そういえば、友人と銭湯に行った時のことです。

僕も知っている知人のことが話の中に出てきて、友人から次のような言葉が出てきました。

「あいつ、親にありがとうって50回言おうみたいなんにハマっとんで」

ということなので、おそらく親に感謝しよう系が社会に蔓延してきているのでしょう。

しかし、世の中にはそれが無理なくらいに劣悪な親もいます。

そういうわけなので、盲目的に「親に感謝しよう」なんてなことを言う人は、今一度自分の思考力を疑ってみましょう。

「可能であれば手始めに親御さんあたりからはどうですか?別に無理なら構いません」くらいでないと、精神に悪影響を与えてしまうこともあるはずです。

十把一絡げに語る前に考えろ

まあ極論で言えば、刑法200条(尊属殺)削除のきっかけとなった1973年の尊属殺重罰規定違憲判決なんかを参照してみて、その被告人にも同じことが言えるのか、ということを考えてみて下さい。

本題ではないので内容については他の文献・ページに任せますが、「親は偉く尊敬すべきであり、感謝するべき存在だ」という一種の儒教的発想があった中、裁判にまつわる大半の人達は、被告人の立場を考え、何とか執行猶予付きの判決にしようと頭を振り絞ったわけです。

その裁判官さんや弁護士さんたちと同じくらい考えてみましょう。

なぜそうしたケースを考えることができないのか、それはおそらくまだ「自分が感じた効用」のことしか考えていないからです。

自分が感動した、自分がスッキリした、だからこれは正しい、だからみんなに教えてあげる的な領域だということです。

目の前にいる人が尊属殺重罰規定違憲判決の被告人と同じような境遇である可能性はゼロではありません。そこまでいかなくても劣悪な環境で育ってきているという可能性は十分にあります。

それを十把一絡げにして説くというのは、バカにしかできないことです。

人を幸せに導いているつもりなのかもしれませんが、逆に苦しめてしまっているかもしれないということを想定できないということになりますし、時に知らず知らずに公害を撒き散らしているということにもなります。

感謝の効用のカラクリ

ただ、そうした人たちは理由なく「親に感謝しよう」とか「思っていなくても感謝の言葉を述べよう」というようなことを言うことはありません。

相手を傷つけるつもりでも何でも無く、良かれと思って説いているはずです。

別に親に限らず「誰に対しても感謝の言葉を言おう」ということのようですが、そうすることで何が起こるのでしょうか?

それはほとんど全ての自己啓発の類や胡散臭いスピリチュアリズムに通じる理屈なので、オチを明かしておきます。

だからオチを見て「アハハ」と笑って下さい。

その1 自分のことしか見えていなかった人が他のことも見えるようになる

サイト内検索においても「復縁」というキーワードが多いように、結局大抵の人は自分のことしか考えておらず、自分の感情に従って自分のことしか見えていません。

例えば、面倒だと思っているアルバイトに行っている時、「早く終われ、客なんか来るな」ということしか考えられなかったりします。

自分としてはお客が来るということは、やることが増えるということなので面倒くさく、なぜお客にありがとうございましたなんて言わなければならないのか、という感覚があったりします。

しかし想像にたやすいですが、お客が来ないと自分のアルバイト代の原資は生まれません。

そのことは少し考えればわかることですが、「ありがとうございました」という言葉を発すると、「なぜありがとうございましたなのか?」ということを考え出しやすくなります。

そんな感じで、お客のことも考えられるようになったりしていきます。

でも、逆に他人のことしか見えないというのも自己犠牲に走ってしまうので危険です。ブラック企業にありがちですが、「お客様は神様であり社員は奴隷である」という発想になってしまい過労死してしまうかもしれません。

そんな感じで自分のことしか考えられず、自分のことしか見えていないという中、「ありがとう」とか「感謝してます」的な言葉を使ったり、実際に親や身近な人に対して感謝の気持ちを感じたりすると、相手の気持ちを考えるようになったり、相手から見た自分が見えるようになったりします。

自分の都合という視点からしか物事を考えられなかった人が相手の都合も含めて全体を考えられるようになり、「お互いのためにどういった答えを出すべきか?」ということも考えられるようになります。

結局視点が「自分だけ」だったものが、相手からの視点、相手から見た自分、といったように捉える範囲が広がっていくという感じにもなりますし、いろいろな解釈可能性を検討することもできるようになります。

そうなると「自分の感情」にばかり集中していた意識が分散していきます。だから自分の感情だけに直接影響される率が下がっていくという感じで気持ちが安定したりします。

まだ続きがありますが、ひとまずはもう一つの要素の方について見ていきましょう。

その2 言葉の概念によって解釈の視点が変化する

自己啓発やカルトが大好きなのが、感謝という概念であり、同時に好まれるのが「レッツポジティブシンキング!」です。

しかし、そう解釈しようと思っても思考上ではなかなか難しいので、「認知のあり方」を言葉によって方向づけるという感じで言葉を利用したりするわけです。

目の前の現象は常に本来無属性ですが、それをこの意識がどう解釈するかというところは、視点によって大きく変わってきたりします。

同じ現象を楽観的に観るのか、暗澹たる思いを持ち悲観的に観るのかというところを言葉の概念によって解釈の視点を変えてしまおうというような試みです。

だから実際には思っていなくても言葉を発すればその視点から現象を解釈しだすという自我の働きを利用して、なるべく気持ちを楽にしようというようなことが説かれているという感じです。

「ありがとう」と言葉を発すると、「なぜありがたいのか?を考えるようになる。

とか

「感謝しています」と伝えると、意識は感謝の方向で現象を捉えて解釈する。

というような理屈です。

それはそれで大いに利用してもいいですが、先に触れたように、そこに無理があると「そう思わなくてはならない」という脅迫観念のようなものがやってきて、余計に苦しむことになってしまいます。

明らかに感謝などできないようなものに対して「それでも感謝をしなくてはならないのだ」ということになり、「感謝の気持ちを起こすことができない自分はダメ人間だ」なんてな自己評価につながり、結局精神に悪影響を与えるという感じです。

その3 世界が違って見えるようになる

その1、その2を統合して考えた上で端的に表すと、感謝の効用としては「世界が違って見えるようになる」という感じになるでしょう。ということで続きを書いていきます。

胡散臭いカルト宗教やスピリチュアリズム、果ては洗脳系ブラック企業なんかは、こうした言葉の効用、感謝の効用を利用し、認知のあり方を変えることで人を盲信させていきます。

また、周りの人に感謝をすることは、もちろん周りの人を喜ばせることになるので、明るい世界が広がっていくというのは事実です。

ただ、それは逆に考えれば、いかに世間が自分のことしか考えず、感謝をしない世の中なのかを如実に表しているということにもなります。

少なくとも自分のことしか見えていなかった人が、親を代表とした身近な人に感謝ができるようになったとすれば、それまでのその人よりは自我による視野の狭まりがマシになるので、生存本能の騒ぎの感覚がマシになります。

そうして幅広い人たちのことが頭に入るようになれば、それだけ感覚としては自己保存への執著がマシになっていきます。

しかしそれが変な方向に行き過ぎると、利他主義的になり、自己犠牲が美徳であるかのような錯覚の方に陥ります。

そんな中、感謝や配慮などの対象が周りの身近な人から、接するすべての人、直接接することのない人という風に範囲が広がっていけば感覚的にはどんどん楽になっていきます。

理屈で考えれば「親に感謝」という親への限定はどこからくるのかという感じにすらなります。別にそこに限定などしなくてもいいはずです。

そうして対象が身近なところから社会全体になり、それが自然界のすべての生き物などになっていくと、より心は安らいでいきます。

無理に感謝なんてしなくてもいい

自己啓発やスピリチュアリズム、特に言霊云々の人たちとしては、感謝を極めて安物にし、猫も杓子も「言葉だけでも感謝しろ」なんてなことを言ったりしています。

ただこれは、結局「自分が幸せになりたいから感謝を利用する」というある意味での原点に戻っているような感じになっています。単純に言えば、我かわいさへの自慰行為なのです。ということで安物にしているという感じです。

一歩間違えれば己の高揚感のために他人を踏み台にしているとすら考えることができます。

そういえば20歳位の時に、完全に洗脳された若者たちが「ありがとうございました!」と連呼しているお店に入ったことがあります。

おそらくそれまでは「お母さんの作ったご飯」を蔑ろにし、それを食すことなく友人とマクドナルドに走っていたような若者たちが目をうるうるさせて感謝を連呼していました。完全にカルト宗教並みの洗脳状態です。

世の大半のカルトやブラック企業は、こうした感謝の効用を大いに利用し、人を洗脳していきます。

そして一方で、相手の状況や立場も慮ること無く、アホの一つ覚えのように「感謝しよう」などと感謝を強要したりしています。

もちろん感謝の気持ちがあるのならそれを大切にしたり、感謝を伝えることはかまいません。しかし、無理に感謝なんてする必要はありません。

結局自分という視点から世界を観ることになるので「我かわいさ」というのはどこまでもついてきますが、我への執著という事自体が逆に苦しみをもたらすという逆説的な構造になっています。

利他精神も感謝も「我への執著の感覚を手放す」のにはひとまず一役買いますが、結局外界を頼りにしているということになり、我への執著自体は残ったりしています。

そうした中、利他精神や感謝が答えだとアイツこと自我が判断を下すと、自己犠牲や感謝の乱発を成功法則とするようになってしまいます。

それらはとどのつまり、錯覚を錯覚によって一時的に打ち消しているにすぎません。

感謝によって意識が反応する範囲が広がり、自己保存の感覚が和らいだり、認知のあり方が変わったりするというのはいいですが、それが全ての答えというわけではありません。

もちろん、意識の状態、情報の状態が変化するということはその後に起こる現象そのものも変化したりします。

だから、感謝したければいくらでもしていいですが、無理にするとその歪んだ意識状態が現象の展開自体にも影響を与えるくらいに思っておいて、無理はしないでください。

しかし、究極の安らぎは楽でも苦でも非苦非楽でもありません。

対象が自分から自分と相手、自分と相手とその周り…とどんどん広がり、社会全体、地球全体…現在だけでなく未来も…というふうに広がっていけば、我への執著の感覚は和らいでいきます。だからそれに比例して苦しみは減っていきます。

しかしながら、その苦しみの感覚の低減を根拠に意味不明な宗教教義やカルト論理と結びつけるのは完全に誤謬です。

まして感謝を条件にするということは、感謝する対象へと何かを依存していることにもなります。

ということくらいは考えた上で、感謝の言葉を利用してみるというのもいいかもしれません。

感謝の心がないのに「感謝しています」などと言うのは、結局己かわいさの自慰行為ですし、それで実質的な自分の利益を欲するとすれば詐欺です。

といっても、無理に感謝しようなんて思わなくても、少し思いを馳せればそれは普通の感覚として実感できるはずです。

この世界のささやかな全て

Category:miscellaneous notes 雑記

「感謝の効用のカラクリと注意点」への4件のフィードバック

  1. こんにちは。
    今年初めてのコメントになります。
    昨年同様、今年も勉強をさせていだきます。
    感謝につきまして、なかなか自分でも納得の行かないことがたくさんありました。
    特に、私は「せっかくやってやったんだから感謝しろ」的な自己中心な考えを持ちがちでした。
    今回の記事は何度も読んで自分の腹に落としていきます。
    僭越ですが、私は感謝は言葉だけでなくその気持ちに応じたことへのお返しもあると思っています。
    共存共栄ではありませんが、相手に感謝をされた場合、直接その方へご返杯をすることだけでなく、違う方にも感謝のお裾分けをしてきました。
    そのことの賛否は分かりませんが、感謝という言葉と気持ちと行動を、もっと深く考えてみたいと思いました。
    いつもご指導をありがとうございます。

    1. こんにちは。コメントどうもありがとうございます。
      例えば、自分が人に道を教えてもらう時、人に道を聞かれてそれを教える時、その時の軽い気持ちが純化されたありがたいなぁと思う気持ち、感謝の気持ち、そして見返りを求めない施しの感覚に近いと思います。
      そして、例えば草の根にいる菌根菌がいなければ、草は育たず、草が育たなければ動物は生きていけないという事実を観察すれば、目に見えないものも対象として感じることができます。当たり前にある全てに対象を広げていけば、自ずと感謝の本質を感じることができると思います。
      そのような感じで、ふわぁっと感じてみて下さい。

  2. 複数の質問に答えてくださりありがとうございました。

    何でもかんでも、質問をするのも良くないと思いながら質問をさせていただいています。

    それでも、他の人に聞いても返ってこないようなご回答を毎回いただいています。

    無視されてもおかしくないことですが、本当にありがたいと感じております。

    しかし、毎回のようにありがとうと書いていたら、自己啓発の[ありがとう]の安売りなのではという気持ちに駆られていました。

    言う側のみならず、受け取る側もありがとうの価値が下がってしまってどちらにとっても違和感を感じることになるのではと思ったのです。

    つい最近までありがとうという言葉を定型文のように使っている自分がいました。

    また、お決まりのバイト先の話ですが、業務をする上で他者との連携が必ず必要です。他の人が快適に業務を遂行できるようちょっとした気遣いをします。大抵の人は気づいているのか気づいていないのかわかりませんが、何もなかったかのように業務をします。一方で自分がしてもらった時は、ありがとうと言います。しかし、常に時間に追われる業務であるため、そのようにありがとうというような機会にたくさん出会います。毎回言っているうちにありがたみを感じている気持ちではなく、機械的に言ってしまっている自分に気がつきました。

    自己嫌悪に陥っている中、周りは感化され始めたのか、ありがとうという言葉が聞こえてくるようになりました。

    ありがとうカードという名指しでありがとうの気持ちを書いて壁に貼る企画があるのですが、急にたくさん書く人が現れては、また誰も書かなくなるということが繰り返されるようになりました。

    そう言っている自分も、ずっーと一人で大量にカードを書いていましたからそこには純化された感謝の気持ちというよりは、誰も利用しない物を一人で独占するおもしろみや、ありがとうという言葉で返報性を期待している気持ちが見えてしまいます。

    いろいろありますが、前よりかは良い環境になったとは思います。でも、ぼっすーさんの記事にあるようにありがとうの安売りが始まってしまったような気がします。不純なありがとうの流通です。

    ぼっすーさんのご返答を何度も読み返し、今の僕はありがたい気持ちが心のコップから溢れ出て仕方がないので、ありがとうの連絡をさせていただきました。

    1. ありがとうに関するテーマとして良い題材がありましたので、こちらの方に移動させていただきました。ついでですのでありがとうについて補足的に触れていきます。

      本来言葉は無属性ですが、ある程度広範囲な文脈においてより良い解釈がなされる言葉ではありますので、ありがとうという言葉自体は少なくとも良い言葉であると思います。なので、使わないよりも使ったほうが良いとは思いますが、おっしゃる通り「諸手を挙げて称賛できるものではない」という少しの問題点があります。

      「誰も利用しない物を一人で独占するおもしろみや、ありがとうという言葉で返報性を期待している気持ち」という部分にご自身で気付かれているということは、それだけでその領域を超えることについて半分くらいはクリアしていることになるのではないでしょうか。

      「不純なありがとうの流通」とは面白く的確な表現であると思います。

      一昔前は「ありがとう」という言葉が用いられる頻度は少なく、その分気持ちが反映されやすいという感じだったため、送り手、受け取り手双方の効用も大きかったように思います。一種の希少性による価値の高さがあったのでしょう。

      例えば、以前は、トイレでも「汚さないでください!」というような文言が多かったですが、最近では「きれいに使っていただきありがとうございます」というようなものが多くなりました。というよりそればっかりでしょう。

      もちろん無意識的な反応で言えば、「ダメなこと+否定」よりも「良いこと+肯定」の方が理にかなってはいますが、自己啓発や胡散臭いカルト宗教やカルト宗教まがいの団体、そして胡散臭いコンサルがそうした構造をやたらと世に広め、結果「安売り」という状態になったりしました。

      行き過ぎると違和感を感じたり、自省・自責のような感じになってしまうという場合があります。という全体的な構造を考えずに、「感謝を乱発」という違和感満載の社会になったように思います。

      言葉から始まるということもいいですが、なぜなのかという構造を把握するというプロセスもやはり必要になると思います。

      「ありがとう」という言葉を交わすのが当たり前のようになるというのは一つの理想的な社会ではありますが、あくまで言葉も行動もひとつの意志の表現であるだけであり、おっしゃるように機械的になるというということは、意志の表現としては機能を果たせていないというか、筋違いになっているような気もします。

      言葉が先に立ち、意識が辻褄を合わせるというのはいいですが、それでも本質的な構造がもたらす違和感というものが完全に消えるわけではありません。

      時に自分としてはありがとうを伝えていながら、その逆はなく、ありがとうを返してこない人に苛立ちを覚えることもあるでしょう。
      しかしながら、そうした場合に着目する点としては、自分の行為により相手に行為させるという「相手をコントロールしたい」と思う自我の執著の方になります。

      端的には、相手がどうであれ、ありがとうを伝えるということについて、その方がいいと思った場合は、相手の様子など関係なしに伝えるというのが良いでしょう。
      一方的であっても、内側のこととして、社会における自分の責任の範囲として「その方がいいなぁ」と思ったことは、相手との関係性を無視するくらいでちょうどいいという感じです。その後の結果は関係ありません。

      こうしたことは「外界にコントロールされない」というひとつの訓練になります。

      そうした意識の状態が現実に反映されていくでしょう。

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