操作が面倒な高級機

基本的には機能がどんどん追加されていくというのが機械の進化のあり方であり、そのうち限界を超えて「操作が面倒」ということになっていって、次には「簡単操作な方が流行る」ということがよく起こっています。

Wordが基本になれば、パソコンとプリンタという組み合わせが主流になるだろうと思いつつも、結構しばらくの間、「ワープロ」が修理されながら使用されたりもしていたようです。

まああれはその場で印刷できるという機能の方が重宝されていたという面が強いので何とも言えませんが、何だかんだで機能がどんどん付いていけば、いざというときの細かな調整はしやすいものの、混乱の方が先に来て「前のほうが良かった」ということになりかねません。

かといって、簡単操作が諸手を挙げて良いものかというと、万事優れているというわけでもなく、それに慣れ親しむと使用者としての感覚しか養われず、開発者的な目線が養われないという側面もあります。

「運転しているぞ」という感じ

そういえば、僕は自分と同い年の単車に乗っていましたが、当時最新のものと比較すると、圧倒的に乗りにくく、お世辞にも素晴らしい乗り心地とは言えない代物でした。

しかしながら、そんな「優等生ではない感じ」こそが、乗っているという実感をもたらすんだ的なことをバイク屋のおっちゃんが言っていたのを覚えています。

最新のものは機能的には最高なのかもしれませんが、何のために乗るのかということの目的によっては、その優等生ぶりは味気なさにもなるという目線を当時教えてもらったという感じです。

確かに現代の最新のものは、運転することに関する負担が少なく、単に空間を移動させているような感覚に見舞われることがあります。

それはそれで快適さという意味で普段使いとしては良いとしても、「運転しているぞ」という感じを味わいたい時には味気なくなります。

ふらっと行くツーリングに関して言えば、見知らぬ土地の風景を見るというのも醍醐味ですが、物理領域で「暴れ馬を乗りこなしている」という部分に少なからず面白みを感じているような気もします。

最新のものと比較すれば機能は劣り、かつ、取得費用も維持費も結構かかる割に、旧車の人気はあまり衰えることがありません。

単にデザイン的にレトロで素敵だからという理由のみならず、そんな部分が旧車への愛好を生み出しているのでしょう。

最近は決定権が分散しているのか、「一緒に乗る人のことを考える」という目線が強いという感じで語られるようですが、ワンマイルシート等々、一緒に乗る人の事をほとんど考えないという極端もまた、惹きつけられる人にはたまらない味を生み出すような気がします。

笑う月(一覧)


自分の意志で情報が変化するという意味での「操作性」や「操作できるという実感」が、リアリティを高める重要な要素となっています。情報の状態の変化に介入できるということが、ひとつの実感として面白みをもたらしますし、逆に何をどうこうしても操作できないとなると苛立ちを覚えてしまいます。

「操作できる」という実感

Category:笑う月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ