動物の行動の真の意味

親が子になす行為のように同種の動物への行為から推測されるものもありますが、動物の行動への意味付けは、結局のところ推測の域を出ないような気がします。

これは例えば「一般的な赤」を「一般にいう緑」のような色彩で見えている人に対して、「これは何色ですか?」と聞いても「緑の色彩のものは赤と呼ばれている」ということから「赤」と答えるというような構造にも似ていて、まあ確かに「こういう時はこうだ」とか、「こうした後はこうする」とかそうしたことは推測することができても本当の意味はわからないという感じになります。

共感の元となる自分の感覚と感情移入のしやすさ

そうした時に推測に利用するのが自分の感覚です。というより基本的にはそれしかありません。なので動物の中でも特に哺乳類であれば何となく推測しやすいという感じになりますし、逆に若干構造の異なる爬虫類や魚類などであれば推測はしにくいという感じになります。

といっても、基本的に生命活動を行っているということは、生理的な反応としての快さと苦しみというものがあり、それを考えれば、種は異なれど何となく相手の気持ちも理解することができるだろうと思います。

そういうわけなので、身体の構造がかけ離れている存在ほどぞんざいに扱われる傾向にあります。

これは、いわば相手の気持ちを理解しにくいというかいわゆる共感の面において感情移入などがしにくいということが原因となっています。

というような旨を以前、道徳的な刺蠅(さしばえ)「真理」のために!などで触れていましたが、結局相手が虫や植物ならば残酷になれるのは、相手が自分とはあまりにかけ離れた生き方をしていて、相手の気持ちになることが難しいというだけだと思っています。

少なくとも共感することはできる苦しみの部分

それは高度な思考を伴ったものであったり複雑な感情であったりというものではないかもしれませんが、少なくとも死を回避するという方向はあると思うので、危険ならばそれから逃れることを命令する痛みなどの苦しみを感じていると思います。

植物は基本的に逃れること自体ができないため、そうした痛みはないのかもしれませんが、それでも自分を傷つける虫に対しての「天敵」を誘き寄せる香りを出すものもいるので、やはり種によっては「できれば逃れたい」という意図は持っているのでしょう。

そういえば、ディアマーベルの首を撫でていた時、彼は僕のお腹を口先でポンポンとしてきました。少なくとも敵意や害意はなく、どちらかというと好意であると捉えつつも、その真の意味はやはりわかりません。

「さっき蹴った分のお返し」という意味かもしれませんし、「実はもっとニンジンを持っているんじゃないのか?」という意味かもしれません。

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