手のこんだ料理

何だかんだで小学校五年生くらいから調理を楽しんでおり、現役で料理を作るということをしています。

「手のこんだ料理」は好きですが、料理人マインドを持たない「儲けるために始めた系」の飲食店が嫌いであり、中途半端な外食も嫌という感じですが、外食を避けている分、調理の腕を上げるために日々修行をしていたりします。

物理的臨場感が高く、事業の全体像をイメージしやすいことから安易に出店されるケースがよくありますが、個人的にはやはり料理人マインドを持っているところしか行かないことにしています。

料理の味というものは調理の腕によって大きく異なってきます。「組み合わせの妙」というものもありますが、同じようなものでも込められている味の種類が豊富でストーリーがあったり、調理法によっても味は大きく変化していきます。

安易な儲けを意図したような店では原料コストを削減していたり、調理時間と人件費、客席回転率などの関係から手間を省いていたりします。なので本質的な「手のこんだ料理」は出てきません。

ということで、それら飲食店においては「料理人マインドが無い感じ」がプンプンしてしまいます。

料理人マインド

僕が持つ最大の料理人マインドは、イメージとしては次のようなものです。

「悩んでいたり病気等々で食欲がない人でも、せっかくだからと手に取ってくれる料理を作る」

という感じです。

また、同時に「食材たちへ感謝の思いを持ち、きちんとした意味を与える」ということも思っています。

つまり、「自分の調理の腕のせいで食べ物が残されるということが起こり得ないように」という感じです。

こうした思いが明確になったのは、「あの日のおにぎり ANOTHER STORY」で触れていた「あの日の松葉焼き」が発端になっています。

単に儲けたい系の飲食店が嫌い理由は、「マズイから廃棄されるということを避けようとする意志はないのか」という点に集約されています。

また、立食パーティーなどでも、やり場のない怒りがこみ上げてきます。お開きの時間になって残された食べ物を見るのが嫌で、参加しないこともあります。

「そんなに人の会話のほうが大事か?」という怒りの方が強くなってしまうという感じです。

「食うなら食う、喋るなら喋るでしっかりとやれ、しっかり生きろ」

と思ってしまいます。

久しぶりに感動を覚えた料理

と、少し脱線しましたが、「手のこんだ料理」です。

ある時から「調味料は味を整えるためにあるものなのだ」とううことを知った僕は、素材の味を活かすのはもちろん、各種ソース系も野菜を多用するようになりました。

概ねセロリやチャービル、パセリが大活躍します。チャービルについては、養子が我が家に来てから「うさぎも食べられそう」と思い購入してからなので、「養子のおかげでさらに料理の幅が広がった」というようなこともあります。

そういえば最近、久しぶりに外食をし、久しぶりに感動を覚えました。

それは「さつまいものニョッキ ゴルゴンゾーラソース」です。

「参りました」の一言でした。

茶飯事の匙加減

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