一種の崩壊感

崩壊感という言葉自体はなんだか、消極的な感じがしてしまいますが、想像と破壊というコントラストが象徴するように、どのような分野や段階の話であっても、新しいものが形成されるときには必ず崩壊がセットになっているので、崩壊感が来た時は新しい世界の幕開けということにもなります。

平穏な状態というものは、普通「安定していて揺るがない」という感じにはなりますが、やじろべえのようにある程度両端が伸びている方が安定したりもします。

両極端の「伸び」による安定

ということで、ある程度両極端を経験していたりしつつ、そのどちらにも傾かないというのが、安定感を増す要因となるということにもなります。

こちらに関しても、どんな分野かとかどんな段階かということを問わずという感じになっています。

見えていた世界は壊れ、新しい世界が見える

そんな両極端が限界を超えて伸びて安定度がさらに増した時、それまで見えていた世界は壊れ、新しい世界が見えます。

振れ幅がないと感動がないというのと同じように、物事の極端を見ないということもまた、まさに「視野が狭い」ということになってしまいますし、片方だけに寄っているというというのもまた、字のごとく「偏見」ということになってしまいます。

そういうわけなので、ある一方をある程度突き進んだかなぁ、と思った時は、逆の方にも手を出すというのが、さらにもう一段階上の、広い視野をもたらす立ち位置へ向かう良策となります。

客観性を持ち、冷静になって中間くらいに戻る

スタートは「対立意見の否定のため」というものでもいいのですが、そのままだと偏見になるので、ある程度概要を知った上で、その分野にハマる人になったつもりで、多少は深入りしてみるというのも良いかもしれません。

もちろん単に逆方向の極端に流れて、ミイラ取りがミイラになるということになるのも変なので、そうなったらそうなったで「客観性を持ち、冷静になって中間くらいに戻る」という作業が必要になってきます。

そんな感じで両極端を行き来してみると、その両者に共通する点が見えてきたりします。それは答えではなく、パターンや問いというものにとどまる場合もありますが、それでも「証明し得ないものに対する執著はどこから生まれるのか?」というような点が客観性をもって見えてくるので安全になっていきます。

快楽や苦痛、立場の両極端

快楽なり苦痛なりもそれぞれ両極端に行こうと思えばどこまででもいけます。

なので、普段苦痛ばかりだという人は、一度くらいは多少散財するなりして徹底的に快楽を味わってみるというのも良いかもしれません。逆に快楽を追求している人は、一度くらいは苦痛にさらされてみるというのも良いかもしれません。

ただ、共に抜け出せなくなるようなタイプのもの、依存の危険性があるものは避けなければなりません。

立ち位置を変更して考える

また、社会的なレベルで考えてみるとすれば、使う側と使われる側という感じで立ち位置を変更して考えるというものが効きます。

しかし、「使う側にいる」というのはあまりなく、また、いきなりは体験し得ないので、すぐには無理かもしれません。しかし、イメージしてみることくらいはできるので、可能な限り使う側の人はどう考えるのか、というあらゆるパターンを考えてみるというのが、その代わりの行為にはなるでしょう。

まあ、「使われている側」がサボっている間、自分の預金残高からお金が減っていくところをイメージしてみるというのがいいかもしれません。

「いいやつだから傷つけたくない」と思っていても、自分の財布から一時間ごとにお金が消えていくというところを想像してみるという感じですね。

逆に使う側しか経験していない人は、次のようなことを考えて見る必要があるでしょう。使われている側の人も、一年を通して常に元気で溌剌な状態ではなく、体調が悪いとか、仕事のことが手につかないほどのショックがあったとか、そういう時もあるだろうということを改めて考えてみるということです。

そしてそれらをさらにイメージの上で両極端にしていってもいいですし、できることならそんな両極端にいる人達に実際に会ってみるということができるのであればそうするに越したことはありません。

普段触れないような両極端に触れてみる

そのような感じで、味覚であれば、うまいものと不味いものという感じが良いかもしれません。

やたらと値が張る高級料理を食べたとして、最初は感動があるかもしれませんが、そのうち「こんなもんか」と思ってくるかもしれません。その逆もまた然りです。

普段触れないような両極端に触れてみるということが幅をもたらしますし、その上で新しい視点を作り出します。

そうして視点が出来上がる時、何かがボロボロと崩れ落ちていくでしょう。

そうなるとみなが羨むような美形の人ですら、「評価されているのは遺伝的レベルの方で、自分の人格は評価対象にすらなっていない」ということに嘆いているかもしれないというところも見えてくるかもしれません。

また、美形ゆえにモテていようとも「結局、両親のDNAの部分がモテているだけで、私自身が愛されているわけではない」という感じで憂いているかもしれないという部分も見えてくるかもしれません。

そうなると、部分的にはなりますが「モテないが正しい」ということの側面がより良く見えてくるはずです。

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