こんなふうに淡々と、日常茶飯のように

ある人にとっては難しく、また難しいからこそワクワクするようなことであっても、またある人にとっては日常茶飯のように淡々とこなすことができるものであったりします。

そんな日常茶飯事レベルになった時、当然ながらその余裕さに比例して、それに「なりたい」という気持ちやワクワクは消えていきます。

それがなく渇望している人にとっては、嫉妬や羨望の対象となるものであっても、それを持つ人にとっては「普段、意識すらしない」ということもよくあります。

ただそうして日常茶飯のようなものになったとしても、それに一種の羨望を抱いていた頃から見れば「夢を叶えた」ということになるので、ワクワクがないからといって「面白くない」と蔑ろにすることもないはずです。

日常茶飯の段階からあと一歩先へ

刺激を求めて行ったことや刺激の酔いにまかせて行ったことは、「もっと他に良いものがあるのではないか?」ということになりやすく、接する年数や熟練度の向上によってそうした思いが起こりやすかったりします。

しかしスタートがどうであれ、それが日常茶飯のようになった時に「この段階からあと一歩」と思えるか否かで、心持ちも行動も大きく変わってきたりします。

例えば、奥さんにときめくことがなくなったとして、どう転べばそんな間柄から新しいときめきを生み出すことができるのかということを考えるという感じです。それこそが創造性であり、芸術でもあるはずです。

「貨幣の消費から刺激を得る」という方法論は、それだけだとあまり創造性がありません。「誰か刺激をくれ」という受け身の消費者のままだと、お金も出ていきますし面白みもたかだかしれています。

感情の振れ幅や揺れの分だけ微笑みが生まれる

感情というものはその振れ幅や揺れによってさらに抽象性の高い感情を呼び起こしたりします。

ある刺激によって感情を動かし、その解釈がぐるぐる回ることでまた別の感情が生じ、その幅の分だけ微笑みが生まれるというようなものです。

喜ばせることスタートではなく、怒りスタートとして平常時の感情にまで戻すということのも一つの方法です。

ある種のアンチテーゼとして高級品で喜びを生むということへの反骨心から低劣なもので嫌悪感を呼び起こし、その嫌悪感自体は傲りから生まれているものなのだと隠喩的に示すという方法もまた、一つの方法ではあります。

そうした創作自体が、一種の無形のプレゼント、非言語的な贈りものとなりえます。

第400回投稿記念で触れていた「はがきを3枚連続で送り続ける」というものがその代表例と言えるでしょう。

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