
なんとかなる
「なんとかなる」 これは僕が17歳くらいの時、父の事業破綻の影響が家庭内にも本格化し始めていた時、母が買ってきた招き猫のような置物に書いてあった言葉です。 「なんとかなる」 うん。いい言葉ですね。 ということで、なんとかなるということについて、自我とバトルを繰り広げてみましょう。 「なんとかなるという証拠を見せろ」 というのがアイツこと自我ですね。 なぜですか?なぜ証拠を見せろ、ということになるのでしょうか? 安心したいからですね。 い

短文コミュニケーション
「短文コミュニケーション」しかできないというのは考えものです。その傾向は、比較的高齢の人たちに増えているような気がします。短文以外になると頭がカーっとなり、短文しか記述できないというような感じになっていくのでしょう。 そんなことを思ったのは最近の業務のメールのやりとりです。 相手が還暦前後の年齢以上になると、短文しか返ってこないということが起こりやすい傾向にあります。 短文コミュニケーションは会話に近い感じになりますが、それしかできない

選ばれない側の「つまらない人たち」の行動
世の中では選ばれない側の「つまらない人」たちが、群れて自分たちと同じようなレベルにまで引きずり落とすということをしようとします。インターネットの普及によりその行動はより起こりやすくなりました。 マスコミが盛り上がるというのも結局人の関心を刺激して収益を上げるということなので、つまらない人たちが反応することを取り上げるというのはご商売柄致し方ないことです。 ちなみにこの「つまらない人たち」というのは、僕から見てつまらないという意味ではあり

「誠実」という若き男の悩み
古今東西、若き男の悩みというものは特に変わっていません。若き男と表現するものの、思春期以降老年期までの間にたいていの男性にはいつか訪れる悩みです。有名どころで言うと、サマセット・モーム氏はその悩み、怒りを「人間の絆」で表現しました。 まずは事実を知り、そして、それをどう取り扱っていくかというところが問題です。これを曖昧にすると、老年に差し掛かるまで悶え苦しむことになりかねません。 これは、本能と理性の問題でもあります。 それは、端的には

イメージの反映としての機能
久しぶりに実家に行った時に、外付けハードディスクを持ち帰ることにしました。 実家PCが壊れた(おそらく電源)ということもあって、外付けHDDの写真や音楽を家のPCに移し替えておこうと思い、移し替えついでに昔の写真を見たりしていました。 そしてついでにZERO STAGEに当時の写真をちょっと追加してみました。 やはりインターネットやパソコンというものは、一周してブログが一番良いような気がしました。 こうしたものをビジネス利用するというの

閉ざされた傷の蓋
物事の表面上の出来事を追い、現実的対処をしているだけでは何度も繰り返されるような問題が起こることがあります。 解決したかのように見えて、構成する人や状況を変えて何度も起こる現象です。 やはりその奥には、巧妙に隠された原因があります。 コロナ感染以降ですが、一度地に落ちたような感じになりました。凡夫に戻るような感覚です。 ただそれには理由があります。いわばやり残していることを片付けようという意図です。やり残しているというよりも、「あっても
既にあるものと心
無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心について触れていきましょう。もちろん、ここで触れることは通常の思考では意味不明のように見える可能性もあります。そして、あえて証明の証明のようなことはパスしていきます。 まずこの空間は、いまただ単にあるものがあるという状態です。 それはこの瞬間に確定しています。同時に、時間というものもあくまで自我が「再生」の如く捉えているだけになります。 この心はただの認識する働きです。受け取るだけです。 ど

駆け引きと安心
思い返すと何人かの女性に「あなたは駆け引きもできない」と言われたことがあります。 駆け引きができるとかできないとかそうした問題ではなくて、そうしたものをしたくないんです。コロコロコミック育ちですからね。 そうした観念がある事自体が息苦しいんです。 とりわけ異性間の付き合いであったり、友達関係であったりにそんなものを持ち込もうという考え自体が貧しすぎます。 裁判や商談ではありません。いや、それらでも相手がよほどの悪人でもない限り、駆け引き
情報と衝動と会話
スマートフォンの普及に伴い変化してきた情報の取り扱い方と情報がもたらす衝動、そして人と人との会話についてでも触れていきましょう。 最近ではセルフレジのようなものも普及して「一言も話さない店員」に出くわす機会も増えてきました。それくらいに個人主義的な風潮になってきているというような感があります。 とりわけ社会情勢により自宅にいる機会が増えたりしていた時期以降は、「会話が噛み合わない」というような事がよくありました。 これは単に「得た情報を

困難を乗り越えることについて
「困難を乗り越えること」についてでも触れていきましょう。いきなりですが、困難は、困難を欲した時にしか生じません。「何かしらの困難を乗り越えることで、何かを叶えたい」というものであっても、「こんな困難はコリゴリだ」という場合でも、いずれにしても、それらは「作り上げれたもの」にしか過ぎません。 困難というものは、それを支える「因」と「縁」が無いと生じません。ということで、困難というものも、「今、形成されているもの」です。 この因縁は、世間一

木漏れ陽が灼く影
この8月、なぜか昔お付き合いしていた方に二人も会いました。共に「ばったり」です。今でもキレイでしたね。でも、それぞれの方に特に思い入れはありません。 思い入れは無いのですが、やはりそれら方々に共通して「なんで?」という疑問がありました。 なぜか「ふっ」と気分が変わるんですね。 気持ちの上で何が変化するのかということがわかりませんし、分かる必要もないと思っています。 何かが足りないというわけでもないのでしょう。 何かが嫌だというわけでもな
許せない相手を許すこと
新約聖書をはじめ、「相手を許しなさい」というようなことがよく言われたりします。自分のために相手を許しなさい、むしろ相手に感謝をしなさいというようなことまで言われたりします。ただ、巷にあふれるものは、結局聖典や偉人の言葉の引用ばかりで胸にも頭にもスッキリ入ってきません。ただのゴリ押しです。 普通の感覚でいくと、何でもかんでも相手を許していたら「人を傷つけたやつがやったもん勝ちじゃないか」ということになってしまいます。なので、到底受け入れら

固定観念への態度
「思い込みを外す」ということの続編でも書いていきましょう。思い込みとはつまり観念であり、ある程度固定化されているものは固定観念と呼ばれたりします。こうした固定観念への態度について触れていきます。 固定観念が様々な「苦」つまりドゥッカを形成しています。 「いやいやそんなことはないだろう。嬉しさ楽しさも固定観念に依る場合があるよ」 というのはわかりますが、前回の流れでいうと、「『うまくいかない…』『だからこそ以前はこうだったのに』という思い

「思い込みを外す」ということ
「思い込みを外す」ということについてでも触れていきましょう。世の中ではいたるところで「思い込みを外しましょう」ということが言われたりします。経営論を始め、メンタルケア的な分野、人生論的なところまで様々なところで、思い込みを外すというような点について語られています。 ただ、「思い込みを外す」ということについて、世間的な目線で近視眼的に捉えてしまうと、本当の意味での「思い込みを外すこと」は難しくなってしまいます。 無理をしたり、抑え込んだり

思考と勢い
古今東西、たいてい社会でうまくいっている人、うまくいっている風に見える人は、少し変わっています。稼ぎの上で、ある程度稼いでいたりするような人ですね。 それで、世間ではある程度稼ぐとか、社会でうまくいくにはどうすればいいかという面で、知識とか思考の方を重視しようとしています。 その原因は、それである程度会社で出世できるというような雰囲気があるからです。でも、その範疇を超えている人たちは、少し変わっていながらも、もっと稼いでいます。 ただ、
おじいちゃんが守ってくれていた環境
思い返すと、僕が中学二年生くらいの時におじいちゃんとおばあちゃんが家を出ていってから、我が家は様々な部分で狂い出しました。 父は事業破綻し、弟は少しの間不登校になりました。家計を支えるためにと母は勤め先をもう一つ増やして、おかげで夕食もまともに食べられない日もありました(冷蔵庫に何も入っておらず、遅い時間まで母の帰宅を待つような時期もありました)。 それまでは、世間で言うところの「小金持ち」くらいの裕福な家庭でした。 それがおじいちゃん
断捨離や掃除で環境を変える
意外と「断捨離」や「掃除」といったキーワードがいつもサイト内検索上位にあります。ということで、断捨離や掃除で環境を変えるということについて触れていきましょう。 世の中では「気分が落ち込んでいます」という人に対して、精神的なアドバイスをしたりはするものの、どのような生活をしているのかの確認、改善案の提案などはパスされています。基準が各々で異なり、下手に提案すると喧嘩になるからです。 本来は、「考え方」から、住環境、職場環境や学校環境、食生
店員さんへの接し方
よく店員さんへの接し方で、その人の人格がよくわかるというようなことが言われたりします。これは特に自分が利用するお店の店員さんに限ったことではなく、自分がお客であるとか世間的には社会的立場が上だとかそういう局面においてどのような態度を取るかというところになります。 ひどい人は本当に酷い態度を取ります。 では、どのような態度が普通で、どのような態度が素晴らしく、逆にどのような態度が酷い態度なのか、ということについては、レジで並んでいたりする

あの日奪われた勇気を取り返す旅
趣味というと語弊がありそうですが、僕の一番の趣味は結局人を勇気づけることなのかもしれない、と思うことがあります。 その奥には、なんだかんだで幼少期からたまに勇気を奪われていたからこそ、幼少期~二十歳くらいの自分を助け出すように、また、奪われた勇気を取り返すために、人を勇気づけたりしているようなフシもあります。 そのようなことに気づいたのは比較的最近です。 様々な出来事が重なってそんなことに気づいてしまいました。 なぜ、できないんだろう?
「いつかやる」の「いつか」が来るための勇気
「いつかやる」の「いつか」が来るための勇気ということで、極めて簡単でゆるいお話をしていこうと思います。 世の中では「いつかやる」と言っている人は、「いつまで経ってもやらない」という感じで取り扱われています。 また自分自身のこととして、「いつかはやるぞ」と思っていてもなかなかそれが現実的に進まなかったというようなこともあります。 なぜでしょうか? 「いつかやる」と思っているということは、一応やりたいこととして設定されているようなことになり

欠点から導く知恵
世の中では、「これができないと話にならない」とされているものがあります。確かに、「商いをする上では」とか「学校に入る上では」といった様々な点において、必要最低限の「できないと困ること」というものはあります。 しかしながら、様々な広告によって、必要でないものも必要であるかのように感じたりしてしまうことがあります。結果、「無理をして面白くもない上に何の成果も出ない」ということが起こったり、「できない私は人として劣っているのではないか」という
やる気の活性化
うつに関して直接的に「やる気の活性化」について触れていこうと思います。サイト内検索においても「やる気」は、常に上位にあります。ということは、それほど需要があるテーマなのでしょう。 「やる気が出ない」 ということに関して、様々な方向から様々なことが説かれていますが、どれもこれも部分部分的な感じになっていて、さらに今そこそこ元気な人がさらに元気になるというような程度の目線で語られることが多いので、絶望的にうつ状態にある人には耳をすり抜けてし
不意に出てくる言葉に込められたヒント
だいたい誰にでも口癖というものはあるものです。また、口癖ではないものの不意に何かの言葉・フレーズが出てくることがあります。 そのような言葉たちは、その時の状態を示しているフシがあります。 また、限界はありますが、これを無理やりにでも明るい言葉に変えることで、気分を明るくすることができたり、意識の向きを積極性のある方へと導くこともできます。 ひとまず野放しにした状態で、不意に出てくる言葉を観察していると、頭の中のイメージがなんとなくわかり
第2100回投稿記念
これで2100記事目になります。ブログ創設から2100回目の投稿ということで「第2100回投稿記念」です。 前回の第2000回投稿記念は、2021年12月27日だったので、前回からの100記事は、1年と少しかけて投稿したという感じです。またローペースで、かつ、アフォリズムで少し数を稼いだ感はあります。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうご

感染後の集中の乱れ
「感染後の集中の乱れ」ということで、コロナ日記の続きを覚え書き程度に書いていきましょう。 個人的にコロナ感染による影響で何よりも面倒なのが集中力が不安定になることです。寒さに連動しているのか日による調子もありますし、一日のうちで調子がうねることもあります。 ― 発熱は2日程度で収まり、その後咳や痰、鼻水が続いていました。 感染から現在で3週間以上経っていますが、未だに咽頭から副鼻腔にかけて炎症があり(先日、耳鼻咽喉科に行きました)、若干
暇つぶしと集中力の分散による怒り
11月は児童虐待防止推進月間ということで、今年も少しだけ児童虐待防止について触れていきましょう(なお、昨年の「しないこと」への評価で触れていますが、個人的には言葉的には児童虐待防止よりも児童愛護の方が表現としては良いのではないかと思ったりします)。 根本的にこうした虐待については、怒りが根底にあります。倫理上虐待というものは、それほど論証を必要とすることなく否定されるようなものであり、している本人たちもたいていそれを頭で理解していること
怒りによって見えなくなる「相手の責任の範囲」
稀にですが、それ以上言っても仕方がないのに、それ以上のことを言って、何かしらを求めてくる人がいます。 いわば、それ以上感情に任せて怒りちらしたところで、現実的にどうしようもないのに、現実に即したことは行わずに、「自分の感情を落ち着かせろ」とでも言わんばかりに、やたらと謝罪等を求めてくるというような感じです。 もちろん僕はこの手の人には、意味のない謝罪はしませんし、要求にも応えません。意味がないからです。 責任の範囲と帰責事由 社会生活に
暇や退屈という苦悩
生きている限り、たいてい欲か怒りに纏わりつかれます。しかしそれらが静まっていても結局「暇」や「退屈」というモヤモヤしてどんよりとした苦悩がやってきます。 そうした暇や退屈な時間は、たいてい思考がめぐります。嫌な記憶ばかりが思い起こされることもあります。そしてまた欲や怒り、不安等々がやってきます。 そしてその思考を止めるため、思考を紛らわせるために、様々なものに依存し、それに汚染されます。 暇や退屈という状況から欲や怒りや不安が生じる思考
社会における自己の抽象的な定義
わかりやすさ重視ということなのか、何かにつけて専門性ばかりが前に押し出される傾向にありますが、社会における自己に関してはなるべく抽象的な定義づけをしておいて、全体像を把握する方が好ましいと思っています。 キーワード重視の社会環境では、具体的な専門性や権威性を武器にする人たちの方が目立つという意味ではやりやすいため、そうしたものに目を奪われがちです。 しかしながら、専門性を高めると盲点が発生しやすく、また想像通り応用が利きにくいというよう

豊かさの感覚
ほんのちょっとのことですが、ぶわぁーっと豊かさの感覚を感じる時があります。 当たり前であると思っているような当たり前のことに感謝をするというようなこともそれにあたりますが、些細な事に気づくということもまた醍醐味があります。 ― 先日、親戚の子が京都に遊びに来た時のことです。 帰りの時間の関係で、次の観光地までそろそろ移動しようかと思った時、「ちょっと寄り道」プランがあったのですが、周りの大人に急かされ、断念しそうになりました。 しかしな
