おじいちゃんが守ってくれていた環境

思い返すと、僕が中学二年生くらいの時におじいちゃんとおばあちゃんが家を出ていってから、我が家は様々な部分で狂い出しました。

父は事業破綻し、弟は少しの間不登校になりました。家計を支えるためにと母は勤め先をもう一つ増やして、おかげで夕食もまともに食べられない日もありました(冷蔵庫に何も入っておらず、遅い時間まで母の帰宅を待つような時期もありました)。

それまでは、世間で言うところの「小金持ち」くらいの裕福な家庭でした。

それがおじいちゃんたちが出ていってから一年か二年でダメになりました。三年も経つと、金融業者からの督促が始まりました。

感覚でいうと、「福の神が出て行って貧乏神がやってきた」という感じです。

おじいちゃんやおばあちゃんが、家にたくさんお金を入れていたかと言うと、実はそんなに渡してはいなかったようです(僕たち兄弟にはよくいろんなものを買ってくれました)。

では、何がそうさせていたのかと言うと、単純におじいちゃんが環境を守っていてくれていたということになります。

毎日の掃除

それは、端的には「毎日掃除をしていた」ということです。

おじいちゃんは、暇があってもなくても、掃除機をかけ、雑巾を持って家中をウロウロしていました。壊れたものを直すか処分し、キレイで整った環境を維持していくれていました。

僕が小さい頃は、もちろん自ら掃除をしながら「この家に女はおらんのか!」と、僕の母やおばあちゃんに説教をしていたようですが、その後、どうやらそうした片付けや掃除ができない女性陣に期待することを諦めたようでした。

僕の父は、浪費家です。すぐに無駄な物を買います。そして物を処分することも掃除もほとんどできません。

僕の母は、掃除ができません。物を処分することもできません。

僕の弟も同じようなものです(彼の場合は被害者側に属するでしょう)。

ということは、おじいちゃんたちが出ていった後は、4人分の重みを僕一人で支えることになります。

僕が外で忙しく働くと、その支えもなくなります。家を出てからはもっとその支えがなくなります。

そうなるとどうなるかというと、想像の通りとなります。

(業者さんに任せなさいと言っています)

掃除と金運や家運の関係

直接的に掃除が「俗に言う金運や家運」と関係しているのかと言われると…

「直接的に関係しています」と僕自身は思っています。

それはオカルト領域にまで踏み込んだ風水や心霊的なオカルトを省いて科学的にもある程度因果関係を証明することができると考えています。

その一部は、「断捨離や掃除で環境を変える」に書いたとおりです。

無形の遺産としての掃除癖と環境基準

幸い僕は中学生の途中までおじいちゃんと一緒に過ごしました。おそらく僕が家族の中で一番深く接したのがおじいちゃんでした。なので、「ある程度きれいな環境を保つ」という癖と、「快適な環境の基準」が精神の奥底に刻み込まれています。

これは無形の遺産です。

意識的なものですが、そうしたことから掃除機をかける時、おじいちゃんと一緒に掃除機をかけています。

それだけで少し豊かな気持ちになります。

おじいちゃんがいなくなるまでは、貧しさという観念がありませんでした。

それがどんどん「貧しさとはどのようなものか」を体験として突きつけられました。

僕にとって、汚く物で溢れかえった環境は貧しさの象徴です。

整理されたきれいな環境は豊かさの象徴です。

相関関係ではなく因果関係

意識の乱れと家の乱れは、相関関係のように説明されますが、短期的には関係がなさそうに見えながら、じわじわと影響を与える因果関係であると思っています。

もちろん精神の狂いや人間関係、金銭にまつわるトラブルの要因の一つです。

しかし無視できない要因です。

自分も少し狂い、家族も少し狂っていくのであれば、家族の仲は少し悪くなります。それが進んでいくとどんどん仲が悪くなります。そうなると、仕事にも影響が出ます。勉学にも影響が出ます。

そうして仕事や勉学がうまくいかなくなると、また気苦労が増え、家族の仲が悪くなる要因になります。どんどん悪循環が加速していきます。

一つ一つは微々たる悪影響しかありません。しかし積み重なっていくと凄まじい悪影響となります。

「普通」の基準

さて、汚い環境であれば、「ひとつくらいゴミを増やしてもいいだろう」という怠け癖が生じます。俗っぽく言えば貧乏神臭い感じです。

逆にきれいな環境であればその状態を保とうとします。

自分の中で「快適なきれいさ」の「普通」の基準があるわけです。

もし、今の自分よりももっともっと豊かになりたいと思った場合は、その基準が変わる程度にまで断捨離と掃除を続けなければなりません。

矛盾の回避

人は意識の上で矛盾を回避しようとします。

「これをできる自分が、あれをできないのはおかしい」

というような感じです。

また、別の側面で

「このような環境にいる自分が、あのような扱われ方をするのはおかしい」

とか

「これほど整理された環境にいる自分が、人にうまく説明ができないのはおかしい」

とか

「こんなに美しく整った部屋に住む自分が、あの程度の収入や資産であることはおかしい」

という変な気分が生じてきます。

ということで、無意識レベルで矛盾を解消するために頭が働きだします。

自立心が起こり、自信もつきます。

表現は悪いかもしれませんが、

「トイレ掃除までできる自分が、全部親の世話になっているようなボクちゃんになめられるのはおかしい」

というような気持ちが生じてきます。

では、なめられないようになるにはどうすれば良いか、どのような態度でいるべきか等々が勝手に無意識で調整されていきます。

関係性や本質的な原因の発見

また、家族の共用部分に放置されている明らかに不要なものを、「他の家族のものだから」と手を付けられないとすれば、

「もしかしたら自分は家族に蔑ろにされているのではないか?なめられているのではないか?」

とか

「自分は気を使いすぎているのではないか?」

というようなことが見えてきます。

そして

「なぜ、せめて『あれをどうにかするように』と家族に伝えられないのだろう?」

ということを疑問視すると

「何かしらで相手に負けている」

とか

「もしかすると広い意味での勇気が足りないのかもしれない」

ということが見えてきます。

そうなると意識は勇気を貯めるために、「勇気」という単語をつぶやき出すかもしれません。

人によっては

男性ホルモン値を上げるためにと

「Z会スクワットーーーー!」

とスクワットを始めるかもしれません。

基準に応じて自動反応するのが理想

随分脱線しましたが、ちなみにおじいちゃんに掃除をしろと言われたことは一度もありません。一緒にしたことは数えきれないほどありますが、掃除をするようにと言われたことは一度もありません。

もしかすると言われてしているようではまだまだ甘いというようなことなのかもしれません。

理想としては自発的意志どころか、自分の環境の基準に応じて自動反応し、勝手に掃除をしているというのが一番です。

ただある程度基準が変化し、かつ、掃除をする癖がつくまでは、言われながらでもやり続けるほうが良いと思っています。

Category:miscellaneous notes 雑記

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