許せない相手を許すこと

新約聖書をはじめ、「相手を許しなさい」というようなことがよく言われたりします。自分のために相手を許しなさい、むしろ相手に感謝をしなさいというようなことまで言われたりします。ただ、巷にあふれるものは、結局聖典や偉人の言葉の引用ばかりで胸にも頭にもスッキリ入ってきません。ただのゴリ押しです。

普通の感覚でいくと、何でもかんでも相手を許していたら「人を傷つけたやつがやったもん勝ちじゃないか」ということになってしまいます。なので、到底受け入れられません。

ということで、こうした許せない相手を許すことについてでもふんわり書いていきましょう。

まあ「どうせ結局、『許せない相手を許しなさい』という結論にたどり着くのだろう」というような予測が立っている人もいるでしょう。

しかしながら、おそらくその予測とは少し違いますね。人によっては予想通りという場合もあれば、大きく観点が違うという場合もあると思います。

まずは世間的な目線から入っていきましょう。

根本問題として許さなくていい

すぐに相手を許せ許せと言いますが、根本問題としては許さなくても構いません。

考え方、捉え方を変えて、少しだけ許せるようになるというような試みをしてみてもいいですが、許す必要はありません。

許せるのであれば許しても構いません。

しかし、何でもかんでも「相手を許さなければならない」というのは自我による脅迫です。

世間的な例となりますが、例えば、自分が社長を務めているとして、自分の会社のお金を使って従業員が仕事風のことをして遊んでいたとします。注意した時に、逆ギレしてきたとします。あげく「うちってバンドみたいな感じですよね」などと、ナメてかかってきたとします(参考:起業により得た絶望と現実)。

その行為、その感覚、考え方等々を、なぜ許さなければならないのですか?

許す必要はありません。

「全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!全然足りねぇじゃん!」

みたいなパワハラ野郎がいたとして、

なぜ許さなければならないのですか?

(参考:しかしわれわれは諸君を信用しない

それよりももっと酷い虐待のようなことをする親がいたとしましょう。

なぜ、許さなければならないのですか?

なぜ、嫌な思いをして、さらに相手を許すというような心の負担をこちらがしなければならないのですか?

もちろん、そんな「遊んでいる従業員」、「パワハラ野郎」、「虐待者」にも、原因はあります。その人達も傷があり、追い詰められていた、致し方なかった、ということを考える余地はあります。

しかし、それでどうしてこちらが許さなければならないのですか?

僕自身は経験がありませんが、例えば親というものを無条件に愛したいのに、相手はそれと逆行したことをしてきた、としましょう。愛したいのに、愛させてくれないというような構造になります。

なぜ、そのような現象に対してこちらが許さなければならないのですか?

おかしいですね。

ただ、「許さなくていい」と言っても、改めて殴りに行ったりする必要はありません。

しかしながら、例えば、その相手がこちらに嫌な思いをさせたことを詫びることもなく、選挙に立候補していたとしましょう。

なぜ、その人に投票しなければならないのですか?

するはずがありませんね。

しなくていいですね。

「相手を許しなさい」という論調に負けて、「『相手を許す』ということを示すために一票を投じよう」

というのは狂っていますね。

もちろんそれぞれは関係ありません。

しかし、こちらの方が心は軽いですね。

「許せない」という自分の気持ちを許していますね。

心が軽くなる方が正解です。

せっかく新入社員時代に「人生で初めての飛び込み訪問で契約をいただける」という瞬間、「手続きが失敗したらお客さんに悪いから」と契約に同行し、成績を半分奪っていった定年間際の「能ある鷹は爪を隠すおじさん」など、個人的には許す要素がありません(参考:能ある鷹は爪を隠す)。

嫌いですね。

僕は、そんな「能ある鷹は爪を隠すおじさん」のことが嫌いな自分を愛しています。

本当に許せないのは、新入社員だからということで、その場であまり言い返せなかったことでした。言ってやればよかったなと思うこともありますが、当時の自分には、その場の流れに身を任すのが精一杯だったのでしょう。

そんな自分を癒やすことのほうが先決です。

「新入社員だからって耐える必要はなかったな。きっと真面目すぎたな。大人に大人を求めすぎていたといったところかな。でもまあ許さなくていいよ。まあもうそんなことは起こらないよ」

許す対象は自分の観念

まず「なぜ、許さなければならないのですか?」と思ってしまう相手を許すのではなく、「なぜ、許さなければならないのですか?許さなくても構いませんね」と自分の観念を許します。

「そういうのは、嫌ですよね。許さなくても構いません」

と自分の思いを許します。

嫌なものは嫌なんですね。

ただ、問題があるとすると、嫌な思いの解決法を間違えてしまうという点です。

本来は、

「許さない」

で完了です。

ただ、思い返して嫌な思いが生じてしまうので、嫌な思いを再度生じさせないとか、生じてもそれを和らげるということをしたいがために、意志の方向性を間違えてしまいます。

それは、「見返してやる」といったものを含めて相手に復讐するということであったり、謝罪を求めたりすることであったり、世間でよく言われる「解釈を変えて相手を許す」というようなことを心がけたりといったことです。

そうしたことでうまくいくのであればそれでも構いません。

解釈変更や記憶の臨場感を下げるといったことで、不快さを和らげることもある程度は可能です。

空想上の相手にコントロールされる構造から脱する

さて、どんどん哲学的な方向に進めていきます。

たまに触れていますが、嫌な相手に意識を奪われることは、「その嫌な相手にコントロールされてしまう」という構造を自分に許可してしまうことになります。

本来は、今のこの瞬間しか存在していません。

その現実の中で、ただでさえ許せないような相手に、過去の記憶だけでなく、今現在も意志が振り回されてしまう、ということは何重にも損です。

なので、そうした「許せない相手」に対する思いを何とかしようと思うのは普通です。

「この嫌な思い、何度も蘇る思いがなんとかなるのであれば、相手を許しても構わない」

と思ったりもしますが、嫌なものは嫌なので抵抗が生まれます。

なのでしつこく残ります。

「相手を許す」

それでうまくいくこともあります。

しかしうまくいかないこともあります。

根本的には、「ある程度情状酌量の余地はあったとしても、その出来事自体は嫌な出来事であり、なぜ、私が許さなければならないのか?」というものがあります。

なので、自分自身に「それは嫌なことだから、許さなくていいよ」と自分を許容する方が正しいという感じになります。

ただ、このような感じでは無限ループです。

相手が与えてきた呪縛から抜け出すことが難しくなってしまいます。

今の瞬間と観念

さてさて、より一層哲学的な方向に進んでいます。

今の瞬間と観念という言葉通りに進めていきます。

今の瞬間に、その出来事は起こっていません。

記憶であり、観念です。

しかしながら、「嫌な思い」です。

トートロジーとなりますが、嫌な思いは嫌な思いです。

自分の観念に不要なものがあります。

邪魔をしてくる邪魔な観念です。

でもそれは、自分自身を守ろうとして「嫌だ」という思いを大切にしてきた観念です。

「そうだろう。嫌だろう。嫌だったな。いやいや、今後も嫌だな。許さなくていい。でも、もう安心してもいいよ」

とその観念を抱きしめてあげてください。

許せない相手は自分の世界で描写された一つの観念です。

今、実在しているわけではありません。

そしてその相手は、ある観念の象徴として、自分を守るための記憶として、その代表として朧気ながら情報として形成されているだけになります。

つまり、現在に切り取って考えると、その相手は、自分の一部であり、その相手への思い、何かの出来事、その時の自分の思い、全てが、自分の内側にあるということになります。

なので、許せない自分を許すと同時に、象徴としての許せない相手、恐怖を覚えてしまう、がっかりしてしまう、悲しんでしまう「反応」、次に備えようとする自我の思考、すべてを慈しんでみてください。

社会生活の中で実際の「許せない相手」を許す必要はありませんし、仲良くする必要はありません。

道でばったり会ったとしたら、無視しても構いませんし、爆笑しても構いません。

その許せない相手を通じて、嫌な思いがくっきりして、その反対も見ることができます。そして、何か自分を制限している観念があることも浮き彫りになったりします。

その時に「不要な観念の象徴としての相手」に自然と感謝が出てくるといった格好になります。

制限を与える観念、邪魔な観念の発見に一役買ってくれた、汚れ役としてやってきてくれたということで「ありがとう」ということになります。

しかしそれは、すべて自分の内側で起こっていることです。

なので全て内側で解放していけば良いということになります。

何かしらの条件付けのような観念、罪悪感のような観念が潜んでいることがよくあります。

それらは、自分を守るために自我が形成したものです。自我は生存本能なのですから当然です。

それを潰すのではなく解放してみましょう。

本来、無条件であるものにたくさんの条件がついていたりします。

それらを発見するのに「許せない相手」は、象徴として形成されるといった感じです。

「ああいうのは嫌いだが、まあいいか」といった態度が一番です。

「責任感のある自分でないと…」とか「こういう条件を満たしていないため、自他ともに愛することはできない」といった余計な観念を解放していってください。

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