西に沈む日に、宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも
夕暮れ時ともなると、世間は慌ただしく「さあ帰るぞ」という感じになってきます。 仕事をしている人、旅行に来ている人、買い物帰りの人、いろいろな人が慌ただしく渋滞を作ったりしている中、公園で養子のうさぎと遊んだ後、彼を抱き上げて「さあおうちに帰ろう」という感じになる瞬間は、ゆったりとしていて、また優雅なものでありました。 「帰省する」という経験がない そういえば人によっては既に長い盆休みということで帰省のシーズンです。両親とも京都であるため
待ちつる人は来らず
この世界においては、自然的な確率が渦巻いている中、常に可能性は重なり合っていて、純粋に意図した瞬間に確定してしまうという感じになっています。 それは自ら意志を確定し能動的となるという場合もありますが、表面的に自らが働きかけなくても起こってしまうという格好になっていることもよくあります。 そんな感じで、再会を望みつつも「待っていても来ない」という場合もありながら、逆に「待ってもいないのに来てしまう」という場合もよくあります。 いつかまた巡
な恚給ひそ
ふとした恐怖心から先手を打つという感じになるのか、予防策を講じる人が出てきたり、何かがうまくいかないことを「言い返しにくいような理由」を用いて当たってくる人がいたりします。 まあそうしたものの奥にあるものは恐怖心なので、下手に抵抗せずに安心してもらうのが先決ということになりますが、何かしらを譲る必要はありません。 可能であればできる限り安心してもらい信頼を得て、意志や立場を理解してもらうのが理想的です。 高卒一般職 VS 大卒総合職 こ
若き男は却物怯して
普段組織のトップに立つような人でも、あまり慣れていないことに対しては臆病になってしまうものです。 知人の話ですが、メディア出演する際に本番5分前まで40分間ほどトイレに立て籠もってしまったという事がありました。 やはり舞台慣れとでも言うべきか、何かしら不特定要素のある多数の人前に出るということに関しては、ある程度の慣れが必要になるのかもしれません。そのような話を聞いた時、「我が事としてはバンド活動を含め様々な経験をしておいて良かった」と

けふは誰某がよき京入なる
京という字だけで都を表すとなれば、京都はみやこにみやこを重ねるという感じになっています。という僕たち京都人の感覚から言ってどう取り扱えばよいのかわからなくなるのが世間一般的な「上京」という言葉です。 さらに上京区民ならもっと「上京」という言葉に違和感を感じてしまいます。第一に「かみぎょう」と読んでしまうはずです。 ― そういえば、イスラエルのエルサレムやトルコのアンカラに行った時にふと思ったことですが、古くからある首都というものは結構内
其の人を見てあわただしからんは、思はんことの恥かしとて
お客が来たときにだけ営業スマイルをしていればいいというようなタイプの人もいますが、そんな瞬間的な切り替わりをお客の側は敏感に察知していたりします。 もちろん雑で鈍感な人は気付かないということはあるでしょうが、平均以上の繊細さがあれば概ねそうした表と裏を瞬時に感覚で察知してしまうはずです。 「表裏がないようにとは思いつつも、仕事は面白くないもの、つまらないものであり、いつでも笑顔でいるということはできない」 というのもわかりますが、やはり
嚢をかたぶけて酒飯の設をす
高校生くらいの時の話ですが、友人宅に行くと、その友人の友人がそのまた友人を連れてやってくるという感じになりました。まあそのくらいの年齢の頃にはありがちです。 その友達の友達の友達くらいの人をひとまずAさんと呼ぶことにしましょう。ちなみに女子です。 どのような経緯があったのかはわかりませんが、Aさんは最近学校を辞めており、どこかの機械工場に勤めているという感じだったようです。 それはそれでいいのですが、Aさんは友達と一緒に僕の友人宅までや
下枝の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶ひやかに
やはり茱萸(ぐみ)と菊は同じ季節の象徴として合わせて語られるのでしょう。ということも雨月物語に触れるまでは知りませんでしたし、日常でそのように感じるということもありませんでした。 現代においては、物心ついてからの成長の過程において画面から情報を得たりすることが多く、その刺激の強さに慣れ、その構造に慣れているせいか、目の前の現実にはそれほど向き合いません。 テレビ、インターネットといったものだけではなく、本やマンガや映画やアニメといったも
重陽の佳節
9月9日が菊の節句であることは知っていましたが、同時に茱萸(ぐみ)の節句であることをこの雨月物語の注釈で知りました。 本来旧暦なので1月ズレますが、現行の9月9日というと、ちょうど毎年のことながら腹の具合が下降気味になり始める時期です。ということは、強烈な暑さが若干弱り始め、夜は過ごしやすくなるということになります。 ということで、そんな体感を感じる少年時代についてでも触れていきましょう。 マンガ「少年時代」 比較的最近になりますが、藤
菽水の奴
貧しさというものは時に苦しく、時に悔しい思いをもたらしたりします。その一方で、時に強さをももたらすものであり、共感の能力や物事の本質を見極める能力の高まりに貢献することもあります。 どう転ぶかはまさに姿勢しだいであり、物事は常に変化し、一時的に状態が悪くなるという可能性は常に潜んでいるため、「常日頃、目の前の現象についてどのような解釈をしているか」が吉と出るか凶と出るかを分けるものとなります。 個々人にそれぞれ「まあこれくらいだろう」と
動静を見んためならば
今年夏の爆睡ツアーについてはまた後日投稿しようと思いますが、先日爆睡ツアーに行ったときのことです。 夜中に母から電話がかかっていたようなので、翌朝にかけ直してみると、 「豪雨がすごいよ。そっちは大丈夫?」 というような連絡でした。 「まあ結構降ってるけど、別に大丈夫」 と言うと 「テレビで見たら熊本がすごいことになってるよ」 と言うので、 「テレビは見ないからわからないなぁ」 と返してみました。 すると 「少しくらいは気にしなさい」 と
大丈夫は義を重しとす
「義」というものは、統制のためにMr.脳筋の思想が取り入れられたものである部分が多少なりとあります。しかしながら、そうした思想的なものがなくても、義を重んじるというところは大丈夫としてのあり方としてある程度自然に成り立っているフシがあります。 そうした義について、それを崩してしまうものの代表例としては、概ねムラムラによる錯乱と「女の入れ知恵」です。 男同士の友情において「友情が崩れてしまう」という局面において垣間見れるもの、それはたいて
をさなき心を肯け給はんや
中学校に上がる時、他の小学校からやってきたメンバーなどおらず、自分がいた小学校のメンバーだけのまま中学生になっていたらきっと「自作すごろく」のメンバーたちと一緒にシミュレーションゲームなどを開発していたんだろうなぁと思うことがあります(眠る感覚との再会)。 そこには人と人との仲を保ち、膨らませる共同創造の要素があるからです。 ― 僕の友人の一人に、婚姻直前で婚約破棄ということが数回、その後見合いなどをするも数ヶ月で破綻ということを繰り返
兄弟の盟
みどりのマキバオーにおいて、たれ蔵は別格として、サトミアマゾンの次に好きなのは実はピーターⅡだったりします(突然現れたマキバオー)。たれ蔵のライバルの一頭アマゴワクチンの全兄ですが、好きというよりも何だか親近感があるという感じです。兄というものはそんな感じなのでしょう。 ― 兄弟というものは不思議な関係であり、友人とはまた一味違った関係性を持っています。 家庭にもよりますが、世の中で唯一わかり合える部分を共有している存在であるという場合
問ひわきまふる心愚かならず
質問の仕方によって、その人が何を考え奥にどんな目的を持っているのか、ということや知能の程度がわかったりします。 抽象的な質問の仕方では返答する相手が対象の特定に困ってしまう、ということで、抽象的過ぎる質問は避けるべきであるということもありますが、あえて抽象的な質問をすることによって、無意識に潜む想念を表出化させるということもあるので一律には論じえません。 ただ、抽象的な質問をしておきながら、対象を特定するため、つまり具体化のためにこちら
見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ
令和という時代になってからというもの、「ギムキョな感じ」がどんどんしてきました。義務教育の成れの果てとしか表現できないような、人を制限すること、人に負担させることしかできず、創造性に欠けているような方法論が蔓延しています。 まあ大体はみんなで目標を達成しよう系のものが出てきた時は、何かしら反発がありそうな取り決めの前フリだと思っておくほうが賢明です。 「こうですよね?あなたもそう思いますよね?じゃあこうしましょう」 という交渉の仕方です
思ひがけずも師を労はしむるは
細かいところまで考えれば「意図せずとも不測の事態が起こる可能性はどこかしらにある」という理からは免れることができません。 どれだけ対策し、予防していたとしても、やはりたくさんの要素において不確定要素があるため不測の事態が起こりうるという感じになっています。 完璧や成功というものは何かしらの基準に基づく判断であり、基準のあり方によって「完璧である」とか「成功した」という感想が異なってきます。 というような構造がある中 「うっかりしてたなあ
外勇にして内怯えたる愚将
普通に考えると、横暴な人が社会でうまくいくはずがないということになりますが、ブラック企業が完全には根絶されていないということにより示されるように、経済的な成功のようなものは、その人の人格とはイコールではないという格好になっています。 希望的観測で言うと「いつかは失墜する」ということになりますが、うまい具合に任期中は失墜せずにリタイアするという可能性も大いにありますし、だいたいその企業の内側にいる人はマインドコントロール下にあるので、革命
わづかに兵書の旨を察めしによりて
経営やマーケティングの分野においては、よく戦略や戦術という言葉が使われたりします。これらは軍事的な理屈からの応用だったりもするので「戦」という字が入っているのもわかるのですが、どうも商い・経済活動を戦いと考えるのは、少し偏っているというふうに思えてしまいます。 様々な合理化の考え方の根底に「最大の合理性は奴隷化や略奪、そして支配による搾取である」という発想が抜けきっていないというようなフシが垣間見れることがあります。 方法論が具体化し、
実やかに約りつつも
様々な試験の結果のデータを見ていると、何故かわずかばかりは「申し込みながらもテストを受けに来ていない」といったものがあったり、「合格したものの入社していない」とか「初日で退職」というものがあったりします。 しかも数が多くなると何故か毎回のように同じような数字というよりも比率になっていたりします。 なので採用等々においては、予めそうしたものを予測して「少し多めに」ということで備えていたりします。 こうした一定比率の「結ばれないもの」が起こ
愛憐の厚きに泪を流して
そういえば昔漢字のテストで、あしたのジョーの「泪橋」につられる形で「涙」を「泪」と書き、丸をもらいつつも先生に呼び出されたことがあります。 さて、普段それほど問題がないと考えられる「憐れみ」ですが、もちろん副作用として相手に憐れみ乞いの癖がついてしまうということが起こったりします。 そして一方で、手をかけた側には、ほんのりとした喜びのようなものが生まれるため、相互依存を生み出しやすくなるという面もあります。 これが自分のことを自分でこな
まことに捨てがたきありさまなり
小学校中学年くらいの時のことです。 ボーイスカウト、というよりも当時カブスカウトだった僕たちのリーダーに荒俣宏氏と重複率97%くらいの人がいました。アリャマタコリャマタ氏にちなんで、この方をアリマタ氏と呼ぶことにしましょう。 関西弁ということを除き、顔もメガネも風貌も、声も話し方もすべて荒俣氏そっくりであり、カブスカウトのみんなからも人気のリーダーでした。 ある時、カブスカウトのハイキング中に誰かが 「アリマタさん、好きな歌はありますか
湯ひとつ恵み給へといふ
かなり昔のことですが、ある時バイト中 「おい、もっと熱い湯をもってこい!」 といきなり客に怒鳴られたことがあります。 「こんなぬるい湯じゃ茶を淹れられないだろう」 というのですが、用意していた茶は煎茶であり、僕たち側としては煎茶の抽出に最適な70℃から80℃くらいの温度にしておいたのですが、相手には伝わらず、 「手を抜きやがって」 などと言われたという感じでした。 カップラーメンなどを食べるというのであれば「ぬるすぎるだろう」というのも
これらは愚俗のことばにて
言葉の乱れというものが問題視されることもありますが、新しい言葉がどんどん生まれるということは必然的であり、若者言葉のようなものもひとつの空間における結束のようなものをもたらすため、それら言葉は社会的機能として別の面で機能を持っているという面があります。 しかしながら、意味に関するものを取り扱う場合、具体的な意味がつかみにくいという場合であったり、相手との意志の疎通において理解が生まれないというような感じで問題が起こっているのであれば、や
かなしき物がたりにこそ
悲しみや苦しみそのものは良きものではありません。それを発端として良きものとなりうることはありますが、それそのものが良いものではないのは自明の理です。 数多の悲劇のその内容は、その時代の生きる辛さを反映するような面があります。激的な悲劇が生み出される時、その時代背景として社会はより強いカタルシスを求めていたということが垣間見れたりもします。 表面的に見れば「何だそんなことか」と思えるような出来事であっても、表面には表れてこないじっとりとし
ここち惑ひ侍りぬ
成長してしまったゆえに、ということなのか、以前は人と接していて戸惑いが起こることがよくありました。否、戸惑いとはまた違うのかもしれませんが、今でも違和感を感じてしまう時がたまにあります。 なぜ昔はこのタイプの人とも普通に話せていたのに、今ではうまく話せないのだろう、というような感じです。 二十代前半頃までは普通に話ができたりしたのに、今では普通に話をすることができないという場合があります。 それはきっと物事をどう捉えればよいかということ
人の痛楚む声いともあはれに聞えければ
弱っているものを助けよう、弱きものを守ろうとするのは、一般感覚として普段からあるような感覚ですが、時にこうした構造を利用して「弱っているふりをすれば何かしら相手に負担をさせることができる」という感じで自己都合を叶えようとする人もいるので困りものです。 「そうしたものには騙されまい」とすべてを遮断するというのも歪んだ極端であり、また、逆に全てにおいて手をかけようとするのも歪んだ極端です。 困っているフリをすることを含め「駄々をこねれば自分
家は頗る富みさかえて有りけるが
必要以上に与えることは、相手の自立や自分自身で獲得する自信、そしてそこから生ずる安心を奪うことになるのではないか、と思うことがよくあります。 実質的にはありがたいような援助であっても、そうした援助自体が自立の機会や意図を奪うことになり、結果、「自分一人でできた」という喜びや自信を奪ってしまうことになるというような感じです。 いくら所有物などで気を紛らわせようとも、本質的に自分には力がないという部分は紛らすことができません。いくら強がろう
友とする書の外は、すべて調度の絮煩を厭ふ
何かしらに集中しようと思った時、それを阻害するものをなるべく排除して脇に追いやった方が良いのは言うまでもありません。 しかしながら「集中しよう」と思ってからでなくとも、物を減らすことで煩いが減るのでなるべく物は無い方が望ましいという感じになっています。そんなこんなで家にテレビはありませんし、携帯電話も法人ガラケーです。 捨てないにしても押入れ、クローゼット、物置の類にしまっておくということをすれば、意識の乱れというか意識の振り回しが減る
軽薄の人は交わりやすくして亦速なり
一過性の流行のようなものを日々使い捨て、その場の享楽に生きる人にとっては、目の前の出来事もまた一過性であり、一過性でありながら、そうした享楽的なものを渇望し、餓鬼の如く消費物を探し彷徨っていたりします。 「前によく言ってたあれはもう言わないの?」 と聞くと 「そんなのはもう古いよ。今は…」 と続くのが関の山、どうせ目の前にいる自分も一過性の暇つぶしなのだろうという予測が立ちます。 また捨て去るだけでなく「忘れる」ということが常であるなら