普段組織のトップに立つような人でも、あまり慣れていないことに対しては臆病になってしまうものです。
知人の話ですが、メディア出演する際に本番5分前まで40分間ほどトイレに立て籠もってしまったという事がありました。
やはり舞台慣れとでも言うべきか、何かしら不特定要素のある多数の人前に出るということに関しては、ある程度の慣れが必要になるのかもしれません。そのような話を聞いた時、「我が事としてはバンド活動を含め様々な経験をしておいて良かった」と思ったりもしました。
―
そのような場に出るにあたっては、元々図太い性格をしているのならいざ知らず、ある程度の繊細さがあるのであれば若干ながらも臆してしまいます。
度胸というほどのものではないですが、やはりちょっとした思い切りは要ります。そんな中、過去に類似経験があるならば抵抗感はやや弱っていくので、思い切りに使うエネルギーも少なくて済みます。
叱られに行くという局面において
生きているとなるべく避けたいとは思いつつ、謝りに行ったり、許しを請いに行ったりというような局面がやってきます。端的には叱られに行くというようなシーンです。
そうした時は緊張してしまうものですが、何かしらでそうした経験を経ていると思いの切り方のコツも掴めてきますし、どのように振る舞えばよいのかとか、どのような流れになるのかということの予測が立つようになってきます。
個人的には新入社員研修中の昼休みに昼寝をして寝過ごし、その日の昼から夜に至るまで会う上司会う上司に頭を下げまくったというような経験があります。
まあそのような例だけではないですが、中学生の時からたくさん叱られてきているので、ある程度の耐性はできています。
相手も長い人生の中で、かつて失敗したり、だれかのケツを拭いたりしてきて、謝りに行く側を経験していたりします。ということで、本気の誠意さえあれば「これ以上叱るのは野暮」というような事を思ってくれている人が大半です。
ということで、何をするにしても思い切る癖がついています。
―
最も強烈な経験としては「反社会的勢力に抗争相手と間違われた事件」ですが、その時も「勘違いさせるようなややこしい振る舞いをしてすいません」という態度を一貫して行いました。
まあそんな事もあったので、個人的には何事も「命を奪われるというようなことでもないだろう」というようなのんきさがどこかにあります。
何を言われても平気で飯を食うし寝る
ある程度舞台上で失敗したり、仕事で失敗したりというようなことを繰り返していると、本当に他人からの評価というものは良いものであればありがたく頂戴し、悪いものの中で、一理あれば反省材料に、その他は完全にスルーという癖がついてきます。その結果、何を言われても平気で飯を食うし寝るという感じになっていきます。
一応スルーには、我が事としての要素と相手のためという要素があります。それは、改心した際に「あの時は感情に任せてやってしまった」ということが起こるといつまでも心苦しいだろうというような慈悲の心でもあります。
そういえば本当に稀ですが、何を思ったのか「お前の会社はブラック企業だろ」ということを送ってくる人がいます(ここ最近はありません)。
その人の中でブラック企業がどのような定義になっているのかは知りませんが、社会保険制度の手続きなども抜かりなく、法令を遵守してちゃんと賃金を払っていたりするという中なのであれば、「何を根拠にその人は呻いているのでしょうか?」と思ってしまいます。
といっても、そうした要素のひとつずつについて無知で幼稚だからこそ言えたりもするのでしょう。
では、もし僕がそのブラック企業の要素の範疇に入っていないと世の大半に承認されるか、労働裁判を起こされても勝ったとすれば、君は僕に10億円よこしますか?
逆に労働裁判を起こされて、負けてブラック認定されたとするならば、10億円あげましょう。
勝負するかい?
なーに、命までは取らないよ♡
―
若き男は却物怯して。
君の後悔を防ぐためのコメント削除ってのもあるのよ♡
最終更新日: