思ひがけずも師を労はしむるは

細かいところまで考えれば「意図せずとも不測の事態が起こる可能性はどこかしらにある」という理からは免れることができません。

どれだけ対策し、予防していたとしても、やはりたくさんの要素において不確定要素があるため不測の事態が起こりうるという感じになっています。

完璧や成功というものは何かしらの基準に基づく判断であり、基準のあり方によって「完璧である」とか「成功した」という感想が異なってきます。

というような構造がある中

「うっかりしてたなあ」

というような事態が起こった時に、「総合的な面でどういう状況を生み出すのか?」という点が日常の生きやすさを決めていく要因となります。

不測の事態の時に許してもらえないというリスク

ヒゲ・メガネやタイヤの細いチャリなどでどこかしらモテようとしている「いつまでも冒険野郎な37歳半くらいの人」への違和感は、

「何かしら不測の事態の時に許してもらえない」

というリスクマネジメント的なところから来ています。

これは、「不意に鼻毛が出ていた時に気まずくなるのは自分にとっても相手にとっても良いとは思えない」という感じの構造を捉えると全体像が見えてきます。

僕の場合は小学生の時から腹が弱いので、いざという時に「腹が痛い」と申告しなければならない場面があることを相当早い時期から自覚していました。

万が一、不測の事態が起こった時に「いろいろな意味で許してもらえるかどうか?」というところを考えると、

「突っ張ってカッコをつけていると、その後に関係性がおかしくなってしまう」

という感じになってしまいます。

表面的なカッコよさとのギャップで生まれる気まずさ

もちろん生理現象等々においては、それ自体で非難され、排斥されるということはなく、「許すも何も」という構造にはなっていますが、表面的なカッコよさとのギャップが生まれるので気まずさというものが必然的に生まれてしまうという面が別の側面としてあるため、一種のリスクとなってしまいます。

もちろん「モテるかもしれない」というようなもの、自尊心の充足のようなリターン的なものはあるのでしょうが、その裏にはきっちりリスクが潜んでいるわけです。

「かもしれない」というようなもの、自尊心というものは主観領域の自我の想定や虚像であるため、虚像のリターンを求めてリスクを抱えてしまうことになるという感じになります。

温情や親和で成り立っているアソビ部分

世の中には「アソビ」の部分があり、温情や親和などで成り立っている部分がふんだんにあります。

シロナガスチ○ポ流の合理化が進められていく中においては、そうした曖昧に成り立っている部分が無視されているというフシがあります。

何事も明確に数値化できるいう前提とその中で最も効率のよい方法を適用するというような感じですが、データ計測だけでは見えない曖昧な部分、温情で成り立っている部分を完全に無視しているという感が否めません。

何かの作業の時間を1分縮められれば、1000人の従業員がいる中では会社全体として「1000分」の人件費が削減できるというような発想などがその代表例です。

しかし、歪んだ形で作業時間を1分縮めても、その歪みにより士気が下がり、「本来は帰ってもいいが、職場への愛情から義務はなくとも居残ってやってくれていたこと」などが無くなり、結果生産性が下がるということも起こるわけです。

アソビが無くなると明文化された権利義務の部分のみとなる

ということをあまり考えないまま

「私には権利があるんで」

などと突っぱねてしまうと、

「いやあこっちにも権利があるんだがな」

ということになり、曖昧性を持った温情部分による「義務以外のところから与えられているもの」が無くなり、やり取りは明文化された権利義務の部分のみで実施されることになります。

そうなると「まあ最初だから仕方がないか」と許されるようなものや「人間たまにはそうしたミスもするだろう」ということが許容されなくなります。

ということで結果損をしてしまうということになりかねません。

突っ張りがあるようなモテ意識がもたらす無駄な苦しみ

というような構造を考えると、やはり、綺麗にしているのは良いもののそこに感情としての突っ張りがあるようなモテ意識は、総合的に考えて「無駄な苦しみを生み出してしまう可能性を高める」という感じになってしまいます。

まあ端的には、高級腕時計をするのもいいですが、その時計をしながら漏らしてしまった時に許してもらえるかと言うような感じになります。

漏らしてしまって何かしらの面で許してもらえないような空気があるのならば、やはりそれはどこかしらに無駄な執著があるということになります。

「うっかりしてたなあ」

思ひがけずも師を労はしむるは、身にあまりたる御恩こそ。

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