これらは愚俗のことばにて

言葉の乱れというものが問題視されることもありますが、新しい言葉がどんどん生まれるということは必然的であり、若者言葉のようなものもひとつの空間における結束のようなものをもたらすため、それら言葉は社会的機能として別の面で機能を持っているという面があります。

しかしながら、意味に関するものを取り扱う場合、具体的な意味がつかみにくいという場合であったり、相手との意志の疎通において理解が生まれないというような感じで問題が起こっているのであれば、やはりそれは問題として考えられたりするのは仕方がありません。

意図的に相手には通じないように話すということをもって、所属する集団を保護したりするという事も起こりますし、そうした社会的な意図があるのならば、言葉自体に問題があるのではなく、内集団と外集団において問題があるという感じになります。

ただ、そうした社会的な意図もなく、芸術的な削ぎ落としの意図もなく、単に知能レベルが低かったり共感に乏しい故に、意味のわからない言葉を平気で使っているという場合もあります。

前提知識がない相手への言葉選び

こうした「共感に関する能力」は、少し話しただけですぐにつかめたりします。

端的には「相手は前提知識がないため、今の話だけでは、相手は理解することができないだろう」という推測ができるかどうかという点です。

前提知識がない相手へ何かを伝える時の言葉選びによって、その人の共感に関する能力がすぐに露見したりします。

そういえば、違和感を感じるような話であれば、芸能人が東京の地名や関東の路線名を平気で出してくるというような点です。

「そんなことを言われても僕たち関西人はイメージすらわかない」

というのが本音です。

大半の人が説明不要で知っていると思う「傲り」

その地名は単なる事実を示すものであり、文脈的に説明不要なものであるのならばいいですが、「若者向けの店舗が多い」とか「少し単価の高い店が並ぶ」とかそうした要素が話に関連するのであれば、単純に説明不足ということになりますし、全国のすべての人ではないにしろ大半の人が説明不要で知っていると思うのは傲りでしかありません。

「そういう話し方は内輪だけにしろ」

ということですね。

それが関東圏の人でも違和感がありますが、関西の出の割に平気で「この間恵比寿で」と言っているのにはさらに違和感があります。関東ローカルならばまだしも、という感じです。

共感力があれば補足説明を加えるはず

共感力のある人であれば、その恵比寿が何なのかを話全体に必要な分だけ補足として説明を加えたりするはずです。

さらに言うと、「えびす」と関西弁で発音すると「恵比須」や「戎」の方が想起されやすいため、東京ではなく大阪の方が浮かびやすくなります。

ということを推測できずに話す様を見ると二流以下という感じがしてしまいます。

プロらしからぬ様に見える

まあ「緊張等々で前後説明を省いてしまった」というケースもあると思うので、いきなり揚げ足を取るようなつもりはありませんが、やはりそうしたことが繰り返し起こると、プロらしからぬ様に見えてしまうことは事実です。

もし社会関係性的な意図で説明を省いていたとすれば、それはそれで何かしらを内集団として捉えていて、外集団たる「それを知らぬもの」を侮蔑しているかのようにすら映ってしまいます。

ということが論理の上で成り立ってしまうので、プロとしてはやはりまだ一流の域ではないと思ってしまうわけです。

文化系にスポーツ選手で例えてくる体育会系に近い

これは身近なところで言えば、文化系の人間を捕まえてスポーツ選手で例えをしてくる体育会系に近いものがあります。

何度も触れていますが、

「例えばイチローが」

と言われても、僕としてはイチロー選手の顔くらいしかわかりません。

もちろんイチロー選手は何も悪くありません。

しかしながら、

「例えばイチローが」

といわれても困惑するというだけということは事実です。前提知識がありませんから。

ということを理解できないまま、話を続ける人はひとまずコミュニケーションにおいて欠陥があるということは間違いがないでしょう。

「例えばイチローが」

これらは愚俗のことばにて。

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