友とする書の外は、すべて調度の絮煩を厭ふ

何かしらに集中しようと思った時、それを阻害するものをなるべく排除して脇に追いやった方が良いのは言うまでもありません。

しかしながら「集中しよう」と思ってからでなくとも、物を減らすことで煩いが減るのでなるべく物は無い方が望ましいという感じになっています。そんなこんなで家にテレビはありませんし、携帯電話も法人ガラケーです。

捨てないにしても押入れ、クローゼット、物置の類にしまっておくということをすれば、意識の乱れというか意識の振り回しが減るのでなるべくそうした方がいいのではないかと思っています。

でも「どっちにしろ使わないかなぁ」と思うようなものなのであれば、ホコリが被って市場価値が無くなる前に売却するということも一つの手ではありますし思い切って捨ててしまったり誰かにあげたりするというのも良いような気がします。

友とする書

さて、「友とする書」についてでも触れていきましょう。

読み耽る書物というものは、当然にその時期に応じて変わっていったりします。ただその中でも「何年かに一度は読む」という感じで「厳選された一軍」がどんどん登場してきます。

それはもちろん書籍という場合がほとんどですが、マンガや絵本の場合もあります。そしてその中の特定のページという場合も往々にしてあります。

モード切替としての機能

それらはもはや大半が「モード切替用」という感じになっています。

既に特定の書物を心の拠り所としたり、未消化の何かに対する緒発見という意図は起こらないため、いわゆるシフトチェンジのように「自我への命令」としてそれら友たる書物を再読するという格好になっています。

最近では会計書類等々を見すぎて「頭が真面目すぎるようになってきたなぁ」と思った時に、河童の三平のタヌキが「うっかりしてたなあ」とつぶやくコマだけを見たりしています。

というような感じなので、マンガが多いような気がしています。

推論のための立ち読み

比較的最近出たもので、最近読むようなものについては、それ自体から何かを得るというよりも、「このようなことを読んだりしているから、あのような行動に出るのかぁ」というような推論のために用いているフシがあります。

ということなので、コンビニなどに立ち寄った時は、棚に並んでいる本や雑誌をパパパっと読んだりしています。表紙だけぐるっと見て終わるときもあります。ひとまず何となく世の中の人はどのようなことに関心を向けているのか、というより、様々な企業が今どのようなことを仕掛けているのか、といったところを少し確認します。

もちろんそこにあるものは、なんだか友とするような書ではないような気がしてしまうので、もう10年以上コンビニで本を買ったことはありません。しかしながら、世の有様が少しだけ垣間見れるので、お世話にはなっているという感じです。

そう考えると、家にある本はどれもこれも「厳選されたもの」ということになるのでしょう。

識に虚空をもたらすべし。

友とする書の外は、すべて調度の絮煩を厭ふ。

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