骨肉の人

深いところで軽視され、また一方深いところで重要視されたりするのが骨肉の人といった印象があります。

深い部分で理解し合えず、また一方深い部分で理解し合えるというようなものでもあり、様々な聖典の部類に示されるように、敬意は示されにくいものという感じになっています。それが「骨肉の争い」の元となっている一つの要因なのでしょう。

だいたい自分がどうなろうと、何をしようと身内や地元の人達からは深い部分では敬意など持たれないということは、太古の昔から人間社会の常となっているようです。

敬意を持たれているとすればそれは大昔から持たれているというだけで、ある程度の年月が経って改めて敬意を持たれるということはそうそうありません。

身内には深い部分で軽視され、理解されない

もちろん何かしらの経験を経て訪れるような気付きによってどこかしらが変化していくということはありますが、身内の間の基本的なパワーバランスはそれほど変化しませんし、深い部分で軽視され、理解されないという感じになっています。

それはおそらく長い年月を共に過ごす間に、否が応でも起こる失態等々によって軽いものとして見られていくということが絡んでいるのかもしれません。

いわばかっこいい部分、きれいな部分の上澄みだけで接する人たちに対しては隠せるようなことも、長い年月の間においては隠しきれないということが絡んでいるのでしょう。

精神の歪みと家族関係

世の中で精神の歪みについて語られる時、すぐに持ち出されるのが家族関係だったりします。その関係の調整によって精神の歪みも落ち着いていくというような感じで説かれています。

それはそれで一つの方法ですし、それで治るならそれでいいですが、結局はそれでも「因果において関連するもの」を余計に設定してしまっていることには変わりありません。

家族との関係により物事の捉え方をはじめとした人格が形成されているという部分はありますが、それはアイツこと自我の領域において、という但し書きがつきます。

今の現実は五蘊により形成されているものにしか過ぎませんし、本来、依存の対象となるものを余計に作って自爆している場合ではありません。

どうしようもないことをいつまでもグチグチ言っている人も結構いたりします。目の前にいて直接関わっているのなら今にかかわることであり、どうにかできることです。しかし例えば、亡くなった家族のこと等々を言われたところで、周りの人としてもどうしようもありませんし、現実としてもどうしようもありません。

どうしようもないことをどうにかしようと混乱するくらいなら、どうにかできることだけをどうにかすれば良いのではないでしょうか。

しかしながら、どうにかしようとすることは、問題が問題であることを支えてしまいます。意識の上に重要なものとして設定され、抵抗するとエネルギーは解放されず、行き場をなくして循環してしまうことがあります。

なので「排除する」という怒りによるものではなく、自由にするという解放の感じで、因縁を解き放つのが最も良いでしょう。

現実を曇らせるは骨肉の人。

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