カテゴリー別アーカイブ: 曙光(ニーチェ)

客観性の賛美者に

子供のときその影響をうけて育った親類や知人たちの、種々様々な感情や強い感情は認めたが、知的な正しさに対する鋭い判断や喜びをほどんど認めたことがなく、したがって感情の教養不足を取り戻すために最上の力と時間を費やした人は、成人したときどんな新しいものでも、どんな新しい人間でも、たちどころに彼の心の中に愛好、嫌悪、嫉妬、軽蔑を換気することに気がつく。この経験から圧迫され、それに無力感を抱いて、彼は感覚の中立性あるいは「客観性」を、不思議なもののように、天才または稀な道徳の事柄として賛美する。そしてこれもやはり単に訓育と習

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逆らうもの

ある組織や主義などと同化し、共通の敵を作ることによってアイデンティティ(自己同一性)を形成しようとしている人がいます。しかしながら、何かの主張を「叫ぶこと」や誰かに対して嫌がらせをすることくらいしかできません。 啓発活動をしても結局は「お知らせ」しかできないから、それしかできていないわけですが、本当に「何かを変える」というのは、彼らの目的としては二の次です。啓発活動をしたり、何かの主義や主張を叫んでいる人たちにとっては、何かに「逆らっていること」に意義があります。 自分たちでは本当に何かを変えようとしていると主張し

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時代に適した美

時代に適した美ということで「平安美人」という言葉が、現代では侮蔑に使われることもあるように、時代時代で美しさの基準は変化していきます。ある程度の「調和」という意味で一定の傾向はあるものの、一応変化していきます。 つい先日も触れましたが、間違っても80年代だけは繰り返してはいけません。いつまでも美しいとされるようなものはたまにありますが、時代時代の流行りが組み込まれたものは、やはり扇動されていることは否めません。 目や顎の好み ところで、僕は昔から、男女ともに目がパッチリした人や多少顎が出ている系の美人とされる人をそ

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犠牲の道徳

犠牲に供することに応じて自らを測定する道徳は、未開の段階の道徳である。 曙光 221 一部抜粋 「犠牲の道徳」 このようなタイトルを見たことがある、と思って見直すと「生贄の道徳」でした。しかも曙光215です。 今回はバラバラに書いているため、すぐには気づきませんでしたが、国語の授業なら「一項目にまとめましょう」と先生に添削されるような書き方ですね。ニーチェもあとで思い返して追記したのでしょうか。「うーん、さっきは生贄だったから、ここは犠牲にしておくか」という具合でしょう。 この項目は先の215とまとめてもいいくらい

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威厳と恐怖心

儀式、職務と地位上の服装、真面目な顔つき、厳かな眼つき、ゆったりした足どり、曲がりくねった話しぶり、威厳とよばれるもののすべて、これは実際のところ恐怖心をもつ人々の偽装形式である。― 彼らはそれによって(自分を、あるいは彼らが代表するものを)恐怖を与えるものにしようとする。恐怖心をもたない人々、すなわち、もともといつも明らかに恐ろしいものをもっている人々は、威厳と儀式を必要としない。彼らは誇りとする恐ろしいものの徴候として、正直と言葉や挙動の率直さとが評判になり、その上排斥までされる。 曙光 220 坊主がやたらと

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決疑論的

どんな人の勇気や性格も耐えられないようなある悪辣(あくらつ)な二者択一がある。ある船に乗っていて、船長や船手が危険な誤ちを犯し、彼らよりも自分の方が航海の知識の点ですぐれていることを発見し、―そこで自分に次のように問う。どうだろう!おまえが彼らに対して暴動を起こし、彼ら二人を監禁してしまったら?おまえの優越はそうするように義務づけないか?だが一方彼らも、服従しないという理由でおまえを拘禁するのはもっともではないか?と。 曙光 436 前半抜粋 あらゆる選択をするときに指針となるのは、道徳・倫理・宗教上の戒律などです

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気づかれないままでは破壊しない

そもそもは認識の誤謬、錯覚というものから起こる悲劇ばかりですが、単純に日常のモヤモヤというものは、奥深くに眠っている「何か」が引っかかっていることがほとんどです。怒りの本音で触れましたね。錯覚がなくなればすべてがガラッと変わり、一気に消えますが、それは少しハードルが高いのかも知れません。 トラウマはそれが何かがわからないからトラウマと呼ぶのと同じように、無意識レベルでの心配事などなど、その奥にあるものがなかなか見えません。 理由が見えにくいモヤモヤ モヤモヤは自分が意識して思っている思い込みによるものもありますが、

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懐疑の懐疑

「恰幅のよい頭にとって、懐疑は何というよい枕だろう!」― モンテーニュのこの言葉は、パスカルをいつも憤怒させた。というのは、パスカルほどよい枕をとくにそんなに強く熱望したい人はいなかったからである。だが、何が欠けていたか?― 曙光 46 パスカルは、お父さんの税金の計算が楽になるようにと計算機を作ったり、「一人一台ってのじゃなくて、みんなで共有すれば楽なのに」という発想で、元祖公共交通機関を構想するという、ただ数学者としてのみならずカリスマ的ビジネスセンスを持った人でした。パスカルの定理の人ですね。圧力・応力の単位

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認識の悲劇の終幕

以前に書きましたが、認識の悲劇は、がっかりによって終りを迎えます。「最大のがっかり」 「自己犠牲が一番の人間向上の手段であった」と、ニーチェは触れていますが、今でもよくブラック企業などはそんなことを言います。 何のために自己犠牲ということをしてしまうのでしょうか。おそらくその点については触れられること無く、自己犠牲の先に「何かの意志に適う」ということを盲信しているという構図です。 自己犠牲の精神からの脱却 認識の悲劇の終幕ということで自己犠牲の力とがっかりについてから進めていこうと思います。 自己犠牲の力と「がっか

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へりくだりの欺瞞

「自分を欺くな!」 曙光のこの箇所(219)はこの言葉で終わります。 今回は、僕が自分を欺き、へりくだった時に、ふと、「自分を欺いてへりくだるのをやめよう」ということを気づかせてくれた同僚のことについてでも書いていきましょう。 先日、その同僚との思い出の場所の前を通ると、そこは内装がすっかり片付けられていて、もぬけの殻になっていました。予想通り、という面と、やはりその同僚とのあの思い出をふと思い返したので記しておきます。 同僚との同行営業 その同僚は「営業」としては天才肌で、上司にもほぼタメ口をきくようなタイプのマ

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とりなす

はじめに「とりなす」という字を見た時に真っ先に思い浮かんだのが「とりとなすびの味噌炒め」です。王将か何処かであったような気がしますが、なぜかそんなものが浮かびました。 これは中学校の時に先生が「Michigan(ミシガン)」と書いてあるトレーナーを着ていたのを見て、同級生が「あれって琵琶湖の船け?」といったレベルのボキャブラリを想起させるレベルです。 そんなことが浮かんだので、せっかくと言ってはなんですが、「茄子」についてでも書いていきましょう。 茄子 中学生くらいの時までは、黒々している風貌から何故かなすびを食べ

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自制と節制とその究極の動機

衝動の激しさを押さえるのに、本質的に異なった六つの方法より以上は見つからない。 (略) 機会を避けること、規則を衝動に植えこむこと、衝動に対する飽満と嫌悪を生み出すこと。苦悩を与える思想の連想を完成すること。次に力の転位。最後に全身的な衰弱と虚脱。― これが六つの方法である。 曙光 109 抜粋 ニーチェには残念です。衝動を解消するのには、この引用の方法論(①機会を避ける、②規則を衝動に植えこむ、③衝動に対する飽満と嫌悪を生み出す、④苦悩を与える思想の連想を完成する、⑤力の転位、⑥全身的な衰弱と虚脱)以外にもたくさ

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見え坊で、けちで、賢くない

諸君の欲望は知性よりも大きく、諸君の虚栄心は欲望よりもさらに大きい。― そうした諸君のような人間には、かなり多くのキリスト教的な実践と、それに加えてわずかばかりのショーペンハウアー的な理論が徹頭徹尾おすすめできる! 曙光 160 見え坊は見栄っ張りを指し、外面・外見をよく飾ることで人からよく思われようとすることであるため、人の虚栄心についてでも書いていきましょう。 見栄を張り方としてはいろいろな張り方がありますが、見え坊とは、見栄っ張りの中でも 特に所有物や外見の装いなんかで見えを張ろうというタイプを指します。 何

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新しい眼で見る

「新しい視点」と銘打って、それまでの考え方から一歩進んで物事を考えてみよう、と学校や研修で説かれることがありますが、説いている方も大したことがない上に、「人が一応納得するレベル」の話しかしてくれないので、根本からガラッと変わることは少ないでしょう。 たまにガラッと変わるようなこともありますが、基本的に人間は、とてもショックな出来事がないとなかなか考え方は変化しません。 頭で一度理解したようなことでも、感情による抵抗によって元の木阿弥になることはよくあります。 パラダイムシフトで一時的に興奮状態に ちょっと想像した「

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死者を復活させるもの

御存知の通り、自分の生まれ年(1983年)付近のものには身体からアレルギー反応が出ます。「80年代の匂いがするものはすべて抹消する」という思いは未だに消えていません。 80年代のすべてがダメというわけではありませんが、せっかく一度は死んでくれたあの「寒気を催す流行」をまた繰り返そうと何とか頑張る人たちを見ると、それだけで嫌いになります。 死者を復活させるものとして、80年代のニオイを復活させるものについてでも触れていきましょう。 80年代のニオイ 「マハラジャ」というものも、復活させようとしてはすぐに潰れ、というこ

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若干の主張

 個人がその幸福を望むかぎり、彼にその幸福への道についての指令を与えてはならぬ。というのは個人的な幸福は、独自の誰も知らない法則から湧き出るからであり、外からの指令によっては、妨げられ阻止されるにすぎない。― いわゆる「道徳的」な指令は、本当は個人と逆の方向であり、個人の幸福は全く望まない。 (略) 意識をもつ存在すべて(動物、人間、人類など)の発展において、特殊な、比較しがたい、高級でも低級でもない、まさしく独特な幸福が獲得されなければならぬ。発展は幸福を望まず、発展を望み、それ以上の何ものも望まない。― 人類が

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その弱点を芸術家として処置する

もしわれわれがあくまで弱点なしではすまされず、それをわれわれに対する法則として結局やはり承認しなければならないとするなら、私は各人に少なくとも、彼がその弱点を自己の美徳の引き立て役にし、その弱点によってわれわれが彼の美徳を熱望することができるほどの、芸術的な力を希望する。 曙光 218 前半抜粋 弱点というものは基本的に隠される事が多いでしょう。それは弱点をつつき、「いじめてこようとする人」が、かつて存在し、今でも付近に潜んでいる可能性があるからです。 世の自己啓発コンサル、通称エヴァンゲリオン、じゃなかったエバン

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芸術家

ドイツ人は、芸術家によって一種の夢想的な熱情に駆られることを願う。イタリア人は、芸術家によって自分の現実的な熱情をやめて休息したいと思う。フランス人は、芸術家によって自らの判断を表明する機会と話のきっかけとをつくりたいと願う。したがって、われわれが公正であることを! 曙光 217 「芸術家」と聞くと嫌な予感がします。さらに「芸術がわかる人」という一種のステータスのようなものを欲しがる人を見るともっと寒気がします。 たいていはソムリエの資格を趣味で取りに行こうとするような人ですが、芸術一つとっても、人と語っている暇が

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探求者で実験者

学問には知識を得るたったひとつの方法というものはない!われわれは事物に対して実験的なやり方をしなければならない。われわれは事物に対してあるときは好意をよせ、あるときは悪意をもち、それらに対する公正や、情熱や、冷静さを次々にもたなければならない。 曙光 432 前半抜粋 それが学問であれ、芸術であれ、師弟関係があるまではいいですが、学会の時に「酒を買ってこい」など、どうしてそういう体育会系の要素を持ち込むのでしょうか。どうしてお歳暮を贈らないとステージに立てないのでしょうか。 ひとことで言えば、そういう無駄な上下関係

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敵の意見

もっとも物分りのよい頭脳であっても、生来どれだけ緻密であるか、あるいはどれだけ低能であるかを測るためには、それらがその敵の意見をどのように把握して再現するかを、われわれは注意すればよい。このときそれぞれの知性の生まれながらの度合いが自分の秘密を漏らす。― 完全な賢人は、そうしようと望むわけではないのに、彼の敵を理想にまで高め、敵の矛盾を一切の汚点や偶然性から解放する。それによって彼の敵が輝かしい武器を持った神になったとき初めて、彼は敵と戦うのである。 曙光 431 よく敵と論争になった時、「意見そのもの」とは別の属

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お世辞屋の風土

卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158 卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。 ウソでもいいから褒め合えというものでしたが、試しにやってみると、相手の顔は綻んでいるものの、こちらはだんだん疲弊するというものでした。 ほめられても困る 何年か前に、「ほめられても困る

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われわれの愚弄さに対するわれわれの要求権

世の中には薄口の人と濃口の人がいます。濃口は言うまでもなく絶倫Z会メンバーですが、薄口の人とは、男性にもかかわらずうどん屋で「わかめうどん」を単品で頼むような人であり、その大半がギムキョであることも傾向として挙げられます。 ギムキョギムキョと言いますが、その中でもさらに細分化されることは言うまでもありません。温厚なギムキョは「人畜無害」というあだ名を付けられるような人です。その名の通り、人畜無害なので、特に語られることもありません。 しかしながらギムキョの割に我が強い人がいます。そういう方は、何かの正当性を持ちだし

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悪人と音楽

音楽は彼らにとって、自分の異常な状態を傍観し、しかも一種の疎遠さと安心感を抱いて初めてその姿にあずかる、ただひとつの手段である、愛する者はだれでも音楽を聴いて思う。「これは私のことを語っている。私の代わりに語っている。音楽は一切を知っている!」 曙光 216 最終部抜粋 原則的にカラオケには行きません。よほどのことがない限り行きません。昔、よく音楽をやっていない人からおすすめされた曲というものは、たいして良いものがありませんでした。 どういう意味で良くないかというと、それが洗練されているものであればいいのですが、単

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「自然音」の礼拝

自然音がリラックスするというのはよくあるケースです。自然界にある音は、耳に入っても特に気に触りません。それどころか自然を感じられて穏やかな気持になってきたりもします。以前少し触れましたが、逆に不自然な機械音はイラッとしてきます。「ピッ」系ですね。 しかしその中間である、自然的な音でありながら、自然界ではほとんどありえない音というものがあります。鐘を鳴らしたような金属音です。 「自然音」の礼拝ということで、坊主がカンカン鳴らしていた音についてでも触れていきます。 坊主等々がカンカン鳴らす音には「四つ打ちによる催眠効果

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道徳的な目標の定義に反対

現在いたるところで道徳の目標がほぼ次のように規定されているのを聞く。それは人類の維持と促進である、と。しかしそれはひとつの定式を持とうとすることでありそれ以上ではない。どこを維持するのか?と直ちにこれに問わざるをえない。どこへ促進するのか?と。ほかならぬ本質的なものが、このどこを?と、どこへ?の答えが、定式の中で脱落しているではないか!したがってこの定式を用いるなら、倫理学のためには現在すでに暗黙の内に無思慮に確定されたとみなされているもの以外の何ものが確定されるであろうか! 曙光 106 前半 本質的なものの定義

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