探求者で実験者

学問には知識を得るたったひとつの方法というものはない!われわれは事物に対して実験的なやり方をしなければならない。われわれは事物に対してあるときは好意をよせ、あるときは悪意をもち、それらに対する公正や、情熱や、冷静さを次々にもたなければならない。 曙光 432 前半抜粋

それが学問であれ、芸術であれ、師弟関係があるまではいいですが、学会の時に「酒を買ってこい」など、どうしてそういう体育会系の要素を持ち込むのでしょうか。どうしてお歳暮を贈らないとステージに立てないのでしょうか。

ひとことで言えば、そういう無駄な上下関係は学問そのものや芸術そのものには必要ありません。

その学問や芸術を愛し、実際の仮説立てと実験をしているというような「探求者であり実験者である人」なら学者と呼んでいいと思いますが、世の中では金魚のフンのように「誰々が語っていたことをよく知っている」というだけで偉ぶる人もいるので困りものです。

学問や芸術というものに「生活の基盤としての収入や役職」が関わっているというところからそうした歪みを生んでしまうのでしょう。

教育というビジネスモデル

プロになりたかったのに、その腕一本ではなんともならなかった人たちがやっているのが「教育」というビジネスモデルです。「腕一本」では不安だという恐怖心が先立って地主のようなモデルを構築したりします。

絵画なら絵画、音楽なら音楽、法律学なら法律学、経済学なら経済学といったように芸術なら芸術、学問なら学問で、プロになりたかったもののなれなかった人たちが、「それでもせっかく勉強したのだからそれを活かそう」というのが教育というビジネスモデルです。果ては哲学までという感じで誰か有名所の哲学者のことを「よく知っている」というだけで食べている人たちもいます。

いまさらサラリーマンというのも勤まらないのでやっているというのが実情でしょう。教育現場では、講師としてプロを連れてきて箔をつけたりもしますが、たいていはなんとか食い扶持を探した末の結果です。教える側ばっかり増えても仕方ありません。

「加藤一郎先生の功績」と雑誌に銘打つ際に、加藤一郎氏はいいですが、「先生」なのは、あなた達の先生なだけで、こちらは関係ありません。ただの学者の一人ですから、お世話になってはいません。結局加藤一郎氏のようにはなれなかった人たちが、彼の威光を借りて、「この人の弟子だぞ」と威張ろうとしているようなものです。

既得権益保護と体育会系組織を形成するための「師事」

世間的にもそんなアピールの仕方なのだから、内部ではもっとひどいでしょう。学問そのものよりも、内部でのポジション取りに大忙しでしょう。

なぜ学問の分野に体育会系の要素を持ち込むのでしょうか。それは、実力がないからです。ただの既得権益保護と体育会系組織を形成するための「師事」という構造にしかなっていません。

学問をラグビーか何かに置き換えていますが、チームプレイではなく個人プレイです。独りで考えなければなりません。

いつも困ったときの「こちらが先輩、お前は後輩」です。「それがどうした」の一言ですが、何かの組織にぶらさがって職業としてやっているからには、そうなってしまうのも仕方ないのかもしれません。しかしそれは、学問とは関係ない話です。

権威付け

音楽系でも「誰に教えてもらった」ということをプロフィールに記載してあったりしますが、そういう箔がないとコンサートに誰も来てくれない、という結果になっています。

つまりは「医師が認めた新製品」というような権威付けがないと商品が売れにくいのと同じように、本質など見ている人はあまりいないのでしょう。それが客側ならまだいいですが、どうして運営側もその手の権威付けの思想を持っているのでしょうか。

聞く耳がないということはプロとして失格なわけですが、それが原因ではなく、体育会系思想を持ち込んでいるからです。

どうして体育会系思想を持ち込むかというと、そういう上下がないと、大学や専門学校というものの運営が苦しくなるからです。

学問や芸術に対しての最大の侮蔑

体育会系的組織の形成と既得権益保護が目的です。コンサート一本で食えない人たちが、「教える」という食い扶持を確保して、しかも大量にその手の人材が余っているのですから仕方ありません。体育会系思想を持ち込むということは、「学問」や「芸術」というものに対しての最大の侮蔑であり、裏切りです

勤め人を始めた頃、「先輩に媚を売らないと仕事を教えてもらえない」ということを言われたことがあります。しかしながら、仕事を教えないのに「なんでできないの?」と聞くのはおかしな話です。

体育会系のプライドのために、会社での人材育成が止まるのは経営者としては腰を上げねばなりません。そのような従業員がいたらクビにします。

「先輩にも媚を売れないのに客に好かれるわけがない」と言われましたが、あるお客さんには見合い話をされ、あるお客さんにはバレンタインにチョコレートをもらうくらい気に入っていただいたりしました。

このような体育会系は、付き合うだけ時間と労力を取られるので切り捨てなければならない横柄な客と同じです。

そんな人を相手にするより、もっとまともなお客さんを新たに見つけたほうが早くて確実で、嫌な気分もしなくてすみます。

探求者で実験者 曙光 432

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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