新しい眼で見る

「新しい視点」と銘打って、それまでの考え方から一歩進んで物事を考えてみよう、と学校や研修で説かれることがありますが、説いている方も大したことがない上に、「人が一応納得するレベル」の話しかしてくれないので、根本からガラッと変わることは少ないでしょう。

たまにガラッと変わるようなこともありますが、基本的に人間は、とてもショックな出来事がないとなかなか考え方は変化しません。

頭で一度理解したようなことでも、感情による抵抗によって元の木阿弥になることはよくあります。

パラダイムシフトで一時的に興奮状態に

ちょっと想像した「新しい視点」によって一時的に興奮状態になって、新しい視点の境地に立てたような気にはなりますが、いきなり変化することはありません。

寝て覚めて興奮が冷めていくのと比例して、元の状態のように戻っていくでしょう。しかし全く意味が無いというわけではありません。

ぼったくりセミナーや、洗脳研修では「パラダイムシフト」という言葉をよく使いますが、こうした研修によるパラダイムシフトは、印象としては日本国内で京都から東京に行く程度のシフトの仕方です。

どうせならブラジルくらいにまで行ってみましょう。しかしそれでもまだ地球の表面上を移動しただけです。

いっそ月面に飛び立って、地球を客観視するくらいまでくらいになってようやく「新しい視点」と言えるレベルです。しかしながら、そんなことは宇宙ロケットに乗るくらいしかできません。

もっと木を見る

「木を見て森を見ず」とはよく言いますが、それでもまだ森しか見えていないわけですから、先の例で言えば、日本がどんな形をしているかを確認はしていません。そのようなことです。

木から森を見ても、緑と茶色くらいしか見えませんが、世の中には他の多種多様な色彩があります。

木を見て森を見ずという言葉をよく使う人は、個人より組織を大事にしろといったようなものを言いたいということがほとんどではないでしょうか。

「木」から「森」へと視点を変える、鳥瞰図的に世の中を捉えるというのも一つの新しい視点だとは思います。しかしながら、木と言っても葉っぱから幹から、実や根までたくさんあります。それを仔細に見るといったことも忘れてはいけません。

ただ、木を具に観察する、木を主軸で考えるといった時には、次の休みにはどこに行くか、といったような「視点」しか普段は出てきません。

木というそのままの眼で見れるような視点を少し飛び越えて、顕微鏡で葉っぱの葉脈を観察するように、ただの木の成長の具合や、季節ごとの葉のつき方だけでなく、詳しく見てみることです。

ただの巨視的成長記録なら、つまらないかもしれませんが、葉脈や花の観察まで対象に入れればだんだん楽しくなってくるものです。

方向性の観察

一言に木と言っても、葉の形状や枝のつき方は異なります。

その分類にラベリングが施された時に品種という区別ができますが、植物としての意志はばらばらの方向に向かっているわけではありません。決して全く同じものではありませんが方向性としては同じような方向性を持っています。

桜は桜として一括りにしても、品種の違いだけでなく同じ品種であってもまた異なる桜であることは言うまでもありません。ただ、姿形は違えど、生き方として同じような設計をされています。

生きるという方向性

どんな木でも植物でもまた、動物でも、生きるという方向性だけは手法は違えど同じ方向を向いています。「生き続けようとする意志」だけは同じです。

自分ではなくても、自分のコピーを存続させようとする手法を取るような生き物がいても、自分を存続させようとする一つの方法論であって、方向性は同じです。

決して同じではない、確かに差があるものでありながら、その方向性だけは同一です。

主従関係が逆転したままの視点

すべての生命が持っている「生き続けようとする意志」、それは当たり前のことながら、忘れられがちな事柄の一つです。いつしか方法論が先に立って、主従関係が逆転してしまいました。

個人よりも組織を大事にするというのは、全身を維持するために一部の細胞を切り捨てるという、まさに身体がとっている方法論が社会に表れている一例でしょう。ある意味で自らの意志よりも、自らの種の維持が主軸になっています。

よくよく考えると、自分の意志よりも、自分の体を維持するために、意志が振り回されています。その意志と身体が不可分かのようにしか捉えられません。

意志のように見えて、身体からの駆り立てによる衝動で「今度の休みは海に行ってリラックスしよう」と思っています。

太古の昔から「体と精神が不可分なのかどうなのか」、ということが、さんざん議論されてきました。しかしながら、その意見、その主義主張、その解釈の結果は、衝動からの独立を叶えてはくれません。

実在しているという前提

すべてそれは錯覚が錯覚ではなく「実在している」という前提から話が始まっているからです。

実在していようがいまいが一緒、ということに気づいた人はかなり少数です。しかしそういう視点から観察しなければなりません。それが「正しいということの証明」が不要であることは、勝手にわかるはずです。

「正しさの証明は説得にしか使えない」ということにはさんざん触れていますが、そんな理屈すら不要です。「見えたとすれば見えたということ(ドグラ・マグラにも出てきましたね)」、ただそれだけで、それにはもしかしたら「眼」はいらないのかもしれません。

目を媒介しようが、イメージの世界であろうが、幻覚により見えたと感じたということであろうが、見えたから見えた、ただそれだけのことなのに、「見えるとはどういうことか」という議論をずーっとしています。

ある人は脳の機能から、ある人は認識論から、ある人は主観客観の逆転という視点から。それはそれで構いません。

しかしながら「見えたから見えた」それ以上ではありません。

今見えているということは、今見えているということ、ただそれだけのことなのに。

新しい眼で見る 曙光 433

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ