第一の天性
現在われわれの教育されている通りでは、われわれは最初に第二の天性を手に入れる。世間の人々がわれわれを成熟した、青年に達した、役に立つと呼ぶとき、われわれはそれを所持しているのである。若干の少数者たちは、それの被いの下でその第一の天性が成熟したまさにそのとき、いつかこの皮を投げ捨てるのに十分な蛇である。大ていの者にあっては第一の天性の芽
傍白(わきぜりふ)
この本のような本は、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。人は頭を突っ込んでは、いつでもまた引き出すことができ、月並みなもの何もあたりに見当たらないに違いない。 曙光 454 このブログのようなブログは、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくために
道徳の空位時代
いつか道徳的な感情や判断と交代するであろうものを、だれが現在早くも記述することができようか!― それらは土台のすべての点で設計に誤りがあり、その建築物は改修不可能なことをわれわれは確実に洞察しているとはいえ、ともかく理性の拘束力が減少しない限り、それらの拘束力は日増しに減少するに違いない! 曙光 453 前半 理性で判断すると、たいて
短気
短気は気が短いということ、というわけで短気な人というのは「我慢ができない人」ということになるのでしょうか。我慢などしてはいけません。やりたいことはどんどんやりましょう。 しかしながら、我慢の手前には欲とか怒りがあるはずです。でもそれを表に出してはいけない、行動に移してはいけないと思う時に我慢が出てくるはずです。 短気というのは気が短い
道化師が必要な人
道化という字を見ると、やはり太宰治氏が思い浮かびますね。「人間失格」「道化の華」(青空文庫)などなど、道化ということについて自分塾を開きすぎたがゆえに入水自殺してしまいました。人間失格については以前に「恐れられる眼」で、少し触れましたね。 さて、無理をすると、どれほど凄まじいことになるか、ということについて書いていきましょう。道化師が
認識の誘惑
学問の門戸をのぞきこむことは、情熱的な精神の持ち主たちにとって、魅力中の魅力のような働きを及ぼす。そしておそらく彼らはそのとき空想家に、うまくいったときには詩人になるであろう。認識する者たちの幸福に対して、彼らはそのように激しい熱望を抱く。 曙光 450 前半 ニーチェはここで、 「妄想を消失させよ!そのとき《ああ悲しい!》もまた消失
精神を必要とする者たちはどこにいるか?
ああ!他人に自分自身の思想を押し付けることは、何と私を不快な気持ちにさせることだろう!他人の思想が自分自身の思想と引き替えにちょうどよいときにやって来るような、すべての気分や私の内面のひそかな改心は、どんなに私を喜ばせることだろう!しかし時折もっと高度の祝祭がある。片隅に座り、窮乏した者がやって来てその思想の困窮を物語り、、それによっ
現実を尊敬する
われわれは自己を失わないために、自分の理性を失わないために、体験を避けなければならない!そこでプラトンは現実から逃げ、事物を単に色あせた抽象物においてのみ観ようと思った。彼は感覚のゆたかな人であり、感覚の波がどんなにたやすく自分の理性を打ち砕くかを知っていた。― したがってこの賢者は、次のようなひとりごとを言わなければならなかったので
師と弟子たち
弟子たちに用心させることは、師たるものの人間性の一部である 曙光 447 どういうわけか、僕には師匠というものがいません。できたらそのような人がいればいいなぁと思いながらも、どこにもそれに値する人はいませんでした。 学校における恩師や習い事の先生、職場の上司など部分的にたくさん学ばせていただいた方々はいますが、心の本質的な部分における
順位
第一に浅薄な思想家がいる。第二に深い思想家―事柄の深みに入り込む人々―がいる。第三に徹底的な思想家がいる。彼らは事柄の根本を究明する。― これは、単に事柄の深みに降りて行くことよりも、はるかに大きな価値のあることである!― 。最後に頭が泥沼にはまりこんでいる思想家がいる。これはしかし深みのしるしでも、徹底性のしるしでもない!彼らは愛す
一番高貴なものが当て外れをするところ
われわれは結局だれかに自分の最上のものを、自分の宝石を与える。― そのとき愛はもはや与えるべきものを何も持たない。しかしそれを受け取る者は、それをたしかに自分の最上のものとは思わない。したがって、与える者が当てにしているあの完全で最高の感謝の心が、彼には欠けている。 曙光 445 感謝を当てにしている時点で少し違うような気がしますね。
抵抗に驚く
あるものがわれわれにとって透明になったので、それはもはや何の抵抗もなし得ないだろうとわれわれは考える。― しかしそのとき、われわれは見透していながら貫通できないできないのに驚く!これは、蝿がすべてのガラス窓の前で陥るのと同じ愚劣であり、同じ驚きである。 曙光 444 たまに、自分は管理者などになったのだから、部下は逆らってこないだろう
教育のために
われわれの流儀の教養や教育の最も一般的な欠陥が、次第に私に分かって来た。だれも学ばない、切望しない、教えない― 孤独に耐えることを。 曙光 443 孤独は耐えるものではなく気づくものです。引用には孤独は苦しいものだという前提があります。孤独でなかった試しはありません。そしてその孤独はただの事実であって、苦しいものという属性は恐怖心から
規則
「規則は私にとっていつも例外よりも興味がある」― こう感じる人は、認識が広く進んでいる人であって、大家に属する。 曙光 442 規則というものは何のためにあるのでしょうか。世の中には意味のわかる規則と、意味のわからない規則、そして、ギムキョ(義務教育の成れの果て)な発想の規則と、タダのわがままの部類に入る規則があります。 「規則を守れ
身近なものがますます遠くなるわけ
家族がいる人には、「家族」というものは嫌でも身近にいてしまいます。離れて欲しくても近くに寄ってきます。 「家族には寄りつかれる」という属性を持っていますが、家族だからといって気が合うかどうかは別問題です。ほとんどの場合は気が合わないでしょう。気が合いすぎるというのも、自分よりも子どもや両親などを優先してしまう要因になるので、適度な距離
諦めるな!
「諦めるな!明らめろ!」というような、言葉遊びをするつもりはありません。そういうちょっとした落語家のようなことして興味関心を惹こうというようなことがよくソーシャルネットワークで行われています。 今回は、気合と根性で突き進みつつ、どうもうまくいかない時の対処法について触れていきましょう。 世の中では様々な方法論が語られていますが、実務的
幸福の目印
あらゆる幸福感の共通点は二様である。感情の充実とその点の自負とであり、それ故にわれわれは魚のように自分の本領を身の回りに感じ、その中で踊る。 曙光 439 前半 何度か触れていますが、「幸福」という言葉が苦手です。その言葉には「良いことがあった」というような、「今までにはなかった」という認定があるからです。すなわち、それまではダメでそ
人間と物
なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである。 曙光 438 パスカルが嘆いたように、花の絵は見て実物の花は見ないという不可解な現象があります。目の前にある花を感じず、名作とされた花の絵にこそ関心が向くという、人間だけが持つ変な現象です。芥川龍之介氏が春画を買いあさっていた時に菊池寛氏が「そんなことに
特権
自分を自分で完全に所有している者、すなわち自分を究極的に征服してしまった者は、自分を罰したり、自分を赦したり、自分を憐れんだりすることを、今後は彼独自の特権であると見なす。 曙光 437 前半抜粋 自分を自分で完全に所有している者と自分を究極的に征服してしまった者という表現はいずれも、まだアイツの内にいることを示します。まず自分という
決疑論的
どんな人の勇気や性格も耐えられないようなある悪辣(あくらつ)な二者択一がある。ある船に乗っていて、船長や船手が危険な誤ちを犯し、彼らよりも自分の方が航海の知識の点ですぐれていることを発見し、―そこで自分に次のように問う。どうだろう!おまえが彼らに対して暴動を起こし、彼ら二人を監禁してしまったら?おまえの優越はそうするように義務づけない
気づかれないままでは破壊しない
そもそもは認識の誤謬、錯覚というものから起こる悲劇ばかりですが、単純に日常のモヤモヤというものは、奥深くに眠っている「何か」が引っかかっていることがほとんどです。怒りの本音で触れましたね。錯覚がなくなればすべてがガラッと変わり、一気に消えますが、それは少しハードルが高いのかも知れません。 トラウマはそれが何かがわからないからトラウマと
とりなす
はじめに「とりなす」という字を見た時に真っ先に思い浮かんだのが「とりとなすびの味噌炒め」です。王将か何処かであったような気がしますが、なぜかそんなものが浮かびました。 これは中学校の時に先生が「Michigan(ミシガン)」と書いてあるトレーナーを着ていたのを見て、同級生が「あれって琵琶湖の船け?」といったレベルのボキャブラリを想起さ
新しい眼で見る
「新しい視点」と銘打って、それまでの考え方から一歩進んで物事を考えてみよう、と学校や研修で説かれることがありますが、説いている方も大したことがない上に、「人が一応納得するレベル」の話しかしてくれないので、根本からガラッと変わることは少ないでしょう。 たまにガラッと変わるようなこともありますが、基本的に人間は、とてもショックな出来事がな
探求者で実験者
学問には知識を得るたったひとつの方法というものはない!われわれは事物に対して実験的なやり方をしなければならない。われわれは事物に対してあるときは好意をよせ、あるときは悪意をもち、それらに対する公正や、情熱や、冷静さを次々にもたなければならない。 曙光 432 前半抜粋 それが学問であれ、芸術であれ、師弟関係があるまではいいですが、学会
敵の意見
もっとも物分りのよい頭脳であっても、生来どれだけ緻密であるか、あるいはどれだけ低能であるかを測るためには、それらがその敵の意見をどのように把握して再現するかを、われわれは注意すればよい。このときそれぞれの知性の生まれながらの度合いが自分の秘密を漏らす。― 完全な賢人は、そうしようと望むわけではないのに、彼の敵を理想にまで高め、敵の矛盾
やはり英雄的
われわれがほとんどあえて口にしないほどいたって評判が悪いけれども、有益であって必要であることは行うこと。―これもやはり英雄的である。ギリシア人は、ヘラクレスの大きな仕事の中に厠の掃除を入れることを恥としなかった。 曙光 430 「やはり英雄的」ということですが、なぜか二十歳くらいから、英雄ならば「ひでお」、正義なら「まさよし」、勝利な
新しい情熱
われわれの持つ認識への衝動があまりに強いために、われわれはまだ認識ぬきの幸福を、あるいは、強い確固とした妄想の持っている幸福を評価することができないのである。 曙光 429 一部抜粋 ニーチェには残念ですが「妄想の持っている云々」は余計でしたね。彼はアンチクリストへの衝動が強すぎて、それを糾弾することに意識が向いていました。キリスト教
二種類の道徳学者
自然の法則をはじめて見ること、しかも全面的に見ること、それゆえ指示することは(例 略)、そのような法則を説明することとは何か違ったことであり、違った精神の持ち主の仕事である。同じように、人間の法則や習慣を見たり示したりするあの道徳学者たち― 耳や、鼻や、眼などが鋭敏な道徳学者たち― もまた、観察されたものを説明する道徳学者たちからあく
学問の美化
「学問は醜悪で、乾燥し、味気なく、困難で、長たらしい―さあ!われわれにこれを美化させてくれ!」という感情から、哲学と呼ばれるものが再三再四発生する。 曙光 427 抜粋 学問を修得していけばその分野での行動は良い結果になる、というのは揺るぎなさそうに見えて、あまり関係がありません。 たくさん勉強することによって、目の前にあるものが見え
思想家の盲目
思想家とは、思想を持ち、時に思想を説く人ですが、あくまで思想はただの思想で、それ以上ではありません。人を狂気に導く性質を持ちながら、問題は何も解決してくれないという性質を持っています。 思想家が思想を説いたりする奥には、たいていその思想が社会にインパクトを与え、その結果自分の都合が良くなるか、自分の中の何かが満たされるかといったものが