特権

自分を自分で完全に所有している者、すなわち自分を究極的に征服してしまった者は、自分を罰したり、自分を赦したり、自分を憐れんだりすることを、今後は彼独自の特権であると見なす。 曙光 437 前半抜粋

自分を自分で完全に所有している者と自分を究極的に征服してしまった者という表現はいずれも、まだアイツの内にいることを示します。まず自分というものがあるという前提ですから当然ですね。少しややこしいですが、自分の実在と所有という考え方を保持している時点でまだアイツの内です。

自分を罰することも赦すことも、憐れむこともありません。なぜそんなことをわざわざしようとするのでしょうか。誰に対して、何を赦すのか、誰の権限によってどういった対象を赦すのか、というような点です。

これでは権限が変更されただけ

まさに自分で掘った穴を自分で埋めているようなことです。

勝手に自分に罪を定め、勝手に罰したり、赦したり憐れんだりしているということになります。

それまでは、いわゆる「神によって裁かれていた」というものが、自分自身に権限が移るというようなことをさしているのかもしれません。

他者からの評価という呪縛からは抜けだしているかもしれませんが、「評価が必要だ」という呪縛からは抜け出せていないことになります。

結局呪縛の内

ニーチェお得意の積極的ニヒリズム的な感じなのでしょうか、「そんな価値なんてキャンセルしちゃってさぁ、無価値になったんなら自分自身で価値を作っていこうぜ」的な匂いを感じてしまいます。

「神が決めるんじゃないのさ、世間が決めるんじゃないのさ、自分が決めるのさ」というような感じです。オレはオレ教などと言っている、その日暮らしの人の匂いがします。

ただ権限が変更されただけで、今なお呪縛の内だということです。

ということで、何のために罰したりするのでしょうか。些か体育会系のニオイがします。克己の精神として、「今日は試合に負けたから素振りを百回追加!」「目標タイムに達しなかったからスクワット百回!」というような精神です。

それはそれでいいですが、それは究極的ではありません。人に「いや、よくやったよ」と言われても、練習をやめない姿のようです。それはそれであの世界ではいいことでしょうが、この項目ではそういうプロ精神を持った人のことを言っているのでしょうか。ニーチェに聞いてみたいですね。

特権 曙光 437

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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