新しい情熱

われわれの持つ認識への衝動があまりに強いために、われわれはまだ認識ぬきの幸福を、あるいは、強い確固とした妄想の持っている幸福を評価することができないのである。 曙光 429 一部抜粋

ニーチェには残念ですが「妄想の持っている云々」は余計でしたね。彼はアンチクリストへの衝動が強すぎて、それを糾弾することに意識が向いていました。キリスト教(キリスト教会)前提の考えをやめようとする試み、その方向性はいいですが、取り外せたのなら、それ自体は最終的には手放して考えねばなりません。

ただ、主張というものは人への説得ですから、そういう糾弾目的の趣旨の書物としてなら、そういう価値はあるかもしれません。

しかしながら、それが執着になって、限界を制限しているのではないかという懸念、取り外しにかかる試みが、次はその先の限界までへの道のりへの足枷になってしまうということをやはり感じてしまいます。

悪用される情熱

情熱は過大評価されます。「情熱」はどこでもたいてい良いものとして扱われ、世間では情熱を錯覚させようとする研修がよくあります。企業の研修でメンタル研修があった時には気をつけたほうがいいでしょう。

確かに、うじうじ考えている時間はかなりの無駄であり、それが疲れを呼び起こすことは事実ですが、概して最終的な結論が変になるときがあります。結論が変

今その場で起こる現象の解釈が、もし誰かから教わった「法則性」というものの影響を受けないのならば、ある思い込みからの解釈が起こらないならば、その場で起こる感情は純粋なものになります。

「確かにそうだ」と確信しつつ行う一見合理的な行動と、それによって得れうる結果についての合理性が正しくても、その「結果を欲し、行動すること自体」は合理的なのでしょうか。つけ加えられた合理性

特に無害な情熱というものもありますが、その希少性はかなり高いでしょう。社長などをしている人は、カッコつけようとしてよく「情熱のままに」などといいますが、たいていは嘘です。

よくよく観察してみると、罪悪感を回避するためにそういった言葉でオブラートに包んでいるだけです。本当に情熱のままに生きているなら夜のクラブなんかには行きませんから。そんな暇はないはずです。

99%の情熱は、性欲などの欲求の充足、自尊心の充足、恐怖心の解消を目的としていますから、安易に手に乗ってはいけません。他人の手に乗るというよりも、自分で自分にだまされないことです。

見分け方は淡々としているかどうかだけです。時にすごいエネルギーが湧いてくる時はありますが、それを利用するのはかまいません。ただ、そのエネルギーの分だけ後々がっかりすることが多いでしょう。結果が出ないというわけではないのですが、燃料切れのようながっかりです。結果がうまくいったとしても、何故か虚しくなります。

情熱のままに進むと、一見充実しているかのような錯覚が訪れます。情熱に比例して刺激も強いですから、その他のウジウジしたような考えが入り込みにくいということでもあります。

しかしながら、一段落するとその刺激がなくなった分だけがっかりします。

最大のがっかりよりはマシですが、かなりがっかりします。ただその虚しさも、含めてすべてのプロセスを思い返せば、良い風に見えるときもそうでない時も、実はあまり変わらないということがわかるかもしれません。

そうなった時でも、ほのかに残る、波のない温かさがどこかに残るなら、それは別に手放さなくてもいい情熱です。それもいつかは消えてしまうかもしれません。それでも「情熱とがっかりの相対差」を見切ったのなら憂うこともなくなります。

あの時の情熱はどこに行ったのか

たまに思うことがあります。人一倍Z会ですから、非常に情熱の類も強かったのですが、知らぬ間にどこかに消えてなくなり、その時を思い返せば「なんだったんだ?」と思うことがよくあります。

よく「なんだったんだ?」となるということはそれだけ成長している、という意見がありますが、確かにそうなのかもしれません。思い返せば馬鹿だったということですが、特にその思い出自体を消したいとは思いません。

それがあって今の意識が作られていったのですから、良いプロセスだったと思います。しかし、それと同じことをもう一度経験したいかといえばそうでもありません。

「やり残したことがある」というタイプのものではないのですが、今ならさらっと捨てて去ることでしょう。

寝て覚めてを繰り返せば

寝て覚めて、泥酔して昏睡してを繰り返せば知らぬ間に情熱は消えています。

しかし、だからといって根本から「癖」が消えたわけではありません。

よく喧嘩している人たちを見ると、毎度同じようなことで喧嘩をしています。一度怒りのエネルギーが消えたとしても、また同じようなエネルギーが蓄積されていくのでしょう。

寝て覚めてを繰り返せば、情熱も怒りも恐怖も和らいではいきますが、それで終わりではありません。奥底で、モノの見方や思考パターンが少しずつは変化しているものの、やはり根本からごそっと変わらねば、結局同じようなことを繰り返してしまいます。

欲と執着と怒りの化身

苦しさは少しずつ和らいでいきます。しかし、原因はなくなっていません。免疫力が上がっている時は大丈夫なものの、体が冷えて免疫力が低下した時に爆発するような、内在しているウイルスのように、隙を見せた時には再発します。

目をそらして、和らげるのは、鎮痛剤を飲むようなことです。痛みは和らぎますが、根本には何の影響もありません。

一旦免疫力が回復したのなら、抵抗するだけでなく根本から根絶やししてやろうではありませんか。それには、そんな癖を見抜いてやることです。

そんなことをしていると、知らぬ間に情熱はなくなります。しかしそれを憂うことはありません。99%が欲と執着と怒りの化身なのですから。

新しい情熱 曙光 429

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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