教育のために

われわれの流儀の教養や教育の最も一般的な欠陥が、次第に私に分かって来た。だれも学ばない、切望しない、教えない― 孤独に耐えることを。 曙光 443

孤独は耐えるものではなく気づくものです。引用には孤独は苦しいものだという前提があります。孤独でなかった試しはありません。そしてその孤独はただの事実であって、苦しいものという属性は恐怖心からの結論です。そんなものに信頼をおいてはいけません。

しかしそれ以前に、教育では「みんないっしょ」「みんなで一緒に」が、たくさん教えられます。あたかもみんなで一緒にやらないいことがおかしいことかのように説かれます。

「成功させよう」という言葉の違和感

みんなで文化祭を成功させよう」と、盛り上がる人達がいましたが、常にその手の人を冷めた目で見ていました。

一つは「みんなで」という点、そして、「失敗というものはおそらくない、どう転んでも成功だったと言うだろう」という違和感です。

これは「成功させようなどと言っておきながら、結局どう転んでも成功だったで終わるんでしょ?」というやつです。

何かがシラケたとしても、盛り上がったとしてもどちらにしても成功だということにするのであれば、「成功させよう」という掛け声は一体何なのかということです。

また、体育会系にありがちですが、試合に負けた後に、それでも成功だというようなシーンがあります。確かに遊びですから、楽しめたのならそれでいいでしょう。

ここでも考えてみたいのが「勝っても負けても成功であるのなら、『成功させよう』という言葉にはどんな意味があるのか?」ということです。

結果はどうあれ、その行為自体は遊びであり、対人コミュニケーションなどを含めた教育などなのであれば、その成功と失敗は別の基準で判断されることなので、別にそれで構いません。

しかし仲間の絆が深まったというのだけは寒いですから、いちどその絆というものが何なのか説明して欲しいのですが、誰も説明してくれません。

そして、時に飛び交う「成功させよう」という言葉は一体何なのかということをいつも思ってしまいます。

共同体意識

人と仲良くすることはいいですが、何か一種の共同体のようになってはいけません。それは錯覚です。

仲間の絆が深まったということを素晴らしいことだと思いこむのは早急です。それは嬉しいような側面もありながら、それを失うことへの恐怖や、後の孤独感を作り出してしまう要因にもなるからです。

錯覚だけならまだいいですが、それを失うことへの恐怖が生まれるのならば、そして、その共同体意識のために自己犠牲などが起こるのなら、そんなものは早急に捨てた方がいいでしょう。

悩みの相談

大昔にラグビー部の顧問に「悩みがあったら相談してみろ」と言われたことがあります。

その「モヤモヤをスポーツにぶつけろ」という趣旨で、ラグビー部への勧誘を含みながらそう言ってきました(その方とは自宅が比較的近く、近所でたまに会います。仲が悪いわけではありません、むしろよい方でしょう)。

しかし、正しく自分塾を開いている人間がもつ悩みというものは、体育会系が思うような浅い悩みではありません。スポーツにぶつけてもなんともならないような悩みです。

「死ぬことへの恐れが消えてくれないのですが、それはスポーツで本当に解消できるのでしょうか。

他のことに集中している時は忘れられますが、その集中がとれた時、またその恐れがやってきます。

つまり消えてはいないということです。

誤魔化さずに根本から消したいのですが、どうしたらいいでしょうか」

その方は黙ってしまいました。

しかしその方は、たまにばったり会うと、「元気にしとるか?」と、声をかけてくれます。ありがたいことです。

教育のために 曙光 443

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ