隠れた人たち

世の中では表舞台に立たずに黒幕に徹している人たちが結構います。

そうすることで、ふとした時の怒りの矛先が自分に向くこともないからです。

意図的に誰かを担ぎ上げているというわけではなく、そうした人を自由に泳がせて、間接的にサポートする形で表舞台に立たせ、いいように使っているという場合もあります。

あえて表には出てこない隠れた人たちは、世の中を動かしつつ「世間からは隠れているため、怒りの矛先が自分たちには向くことはない」という構造をうまく利用しています。

黒幕に徹する理由

企業などの組織でやたらと階層・階級などもが多いのも、こうしたところに理由がある場合があります。

例えば、劣悪な労働環境の裏にある最終的な利益は誰に来るかと言えば株主だったり親会社だったり会社役員だったりです。

でも怒りの矛先は誰に向くでしょうか?

たぶん現場の監督者です。

企業が何かの不祥事をやらかした時、責任を追求されて憔悴し、奔走することになるのは役員や現場責任者であり株主ではありません。多少の評価額的損失はあっても、直接的に動くことが求められないということである意味気楽なものです。

まあこうした仕組みは資本主義や帝王学、君主論の基本形です。

最も恩恵を受け、かつ、横暴なものは表舞台に立たず黒幕に徹するというのが基本です。

悪者

祭り上げ、表舞台で働かせようとする

さて、誰かを担ぎ、祭り上げ、表舞台に立たせて自分の都合に合わせて働かせよう、という感じですが、「ご利益を求めてお参り」というタイプの人達にはこれと同じ心理状況が隠れています。

実際に働いてくれるのかというところは別として、「彼女ができますように」みたいな感じで神社などに行くのは、「祭り上げるので、いいことを起こしてください」という感じですね。

それ自体がご都合主義の貪りであり、「メモリー」による「世話して欲しい」の代表例です。

ということで、実はこの構造は、先ほどの黒幕と同じような発想です。

隠れた人たち 曙光 527

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ