傍白(わきぜりふ)

この本のような本は、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。人は頭を突っ込んでは、いつでもまた引き出すことができ、月並みなもの何もあたりに見当たらないに違いない。 曙光 454

このブログのようなブログは、読み通したり、読んできかせたりするためにあるのではなく、ひもとくためにある。特に散歩や旅行のときに。

ということで、傍白(ぼうはく)、わきぜりふと銘打って、いつもとは少し違う趣旨でいきましょう。

何か散文のような、普通ならツイートするかのようなことを、時間を分散させて書いていきます。

傍白(ぼうはく)は、内心のつぶやきであり、アニメなどで登場人物の心の中のセリフが音声として流れてくるようなことです。

内心のつぶやき

「カッコをつけたい」という気持ちがどういうものだったのか、今ではあまりわからない。

相手はバトルのつもりでもこちらはバトルをしているつもりがない。

いくらでも論理でねじ伏せることは可能でも、確実に感情の抵抗感がある。そこにまで介入するには奥深くの意識まで踏み込まねば厳しいだろう。

「質問に対して質問で返すな」、という反撃の仕方は一種の怠けである。

質問自体が広義にわたっているため、問題のコアとなる部分が見えてこない。勝手な想像で答えを示すと、今度は揚げ足を取ろうとするという戦法のようなものだろう。そんな手ぐらいは想定の範囲内。

何かを実現したいとか、体験として実感したいという旨で方法論ばかりが関心ごとのようです。

その渇望感にアプローチすることは、我慢しろということではない。

ある形式、ある行動に対しての方法論を聞くことは構わないが、その行動や実現自体に無駄に価値をつけてはならない。

ちょっとリスクがありそうなことでも、ちょろちょろやればなんてことはない。でもちょろちょろやる方がリスクが高まることもある。時には思いを切らなくてはならない。

パートナーや仕事なんかを見つけようと躍起になっている場合は、何でもお金で解決、もしくはお金や情報収集でリスクを減らそうとしているという感覚、つまりは消費者的意識が強すぎる場合がある。ひどい場合は、誰かにやらせようとしているというような、純粋消費者の駄々っ子。

話しかけたり面接に行くくらい、何のリスクもない。あるとすれば自分のプライドが傷つくかもしれないという妄想くらい。かかる費用は多少の行動と時間くらい。でも遊びに行くよりは時間も労力もコストもかからない。

「デートに誘うのは『相手の仕事』。自分の仕事じゃない」って結局自分のプライド優先の発想。相手にリスクを追わせようとしているようなことで、ある種の愛がない。

着飾ることにお金をかけるくらいなら、毎日ひとりでも多くの人に、にこやかな挨拶をすれば、すぐに解決する。仕事にもパートナーにも困らない。出会いを求めて飲みに行かなくても、集まりに参加しなくても、勝手に解決する。それくらい単純なこと。

それをお金で解決しようとすると、着飾ったり、肩書をつけたり、資格をとったりとかになる。でもそれは嫌がられるだけ。「なんかすごいのかもしれないけど、なんか嫌な人」になってしまう。

得意な仕事があれば、その仕事をただ話せばいいだけ。「こんなんですけどどうですか?」と、営業臭いことをしなくても、勝手にうまくいく。自信がないと頭を下げなくてはいけなくなるだけで、頭を下げなくても、また虚勢を張らなくても、勝手に相手から「こないだの話、うちもお願いします」といった具合になる。これがどこにもストレスのない仕事のやり方。自分にも相手にもストレスがない。

傍白(わきぜりふ) 曙光 454

アフォリズム(aphorism) 箴言

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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