いかなる道徳が退屈させないか
道徳の時間というのは他の授業とは異なり、変な空気感が出ます。それはやはり道徳というものは人生にストレートに関わることであり、ギムキョの偽善をひしひしと感じる時間であるからです。基本的に何かの教材を使って、自分たちの思想を教え込もうとしますが、やはり多感なティーンにはそれが偽善に映ってしまい、本来の目的からは逆行した結果が生じることがあります。 道徳の時間において懐疑や反駁はつきものです。それをそつなく返し、さらに道徳を語れるほどの哲学的
病人の認識について
病人に気を使いすぎると、かえってその人の治りが悪くなるという場合があります。病中のままの方がその人にとって都合のいいケースがあるからです。 そういう考え方の原因は、人にもよると思いますが、特に幼少期の記憶があります。学校はサボれる、テレビは見放題、ジュースとまではいかないがスポーツドリンクは買ってもらえる、周りが優しくなる、というような記憶です。 そしてもうひとつ厄介なのが、医者に通ってよくならないのに、まだ医者にばかり頼るという点です
人間と物
なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っているのである。 曙光 438 パスカルが嘆いたように、花の絵は見て実物の花は見ないという不可解な現象があります。目の前にある花を感じず、名作とされた花の絵にこそ関心が向くという、人間だけが持つ変な現象です。 芥川龍之介氏が春画を買いあさっていた時に菊池寛氏が「そんなことにカネを使うなら本物のほうがいいだろう」というようなことを言ったことは結構有名ですね。 実際の景色よりも
恐れられる眼
威嚇された時よりも、こちらがギクッとする時の「こちらを見ているの眼」の方が恐ろしく感じる時があります。 それはまさに電車の中で英書を読んでいる人が、その真意を悟られた時です(電車で隣に掛けた客の本)。 世の中には、恐れられているものがたくさんありますが、その相手が「強いかどうか」より、「本気かどうか」の方が重要な事は言うまでもありません。 一見体つきは弱そうな人でも、命がけになればどんな手でも使いますから、そちらのほうが厄介です。 ミナ
多分早すぎる
一昔前までは知りたくても知れない、調べようにもなかなか調べられない、よって自分塾を開き、自問自答するしかないという感じでしたが、最近では小学生でもiPadを持っています。自分が思春期の頃にはそういったものがありませんでした。 知りたくてもなかなか調べることが出来ない、調べようとしても調べ方すらわからない、という状態は自問自答力を鍛え、妄想力も空想力も、そして論理力すら養うものでありました。 しかしながら近年では容易に調べることができます
「汝自身を知れ」は学問の全体である
あらゆる物の認識の終わりになってはじめて、人間は自己自身を認識したことになるであろう。なぜなら、物は人間の限界であるにすぎないからである。 曙光 48 「汝自身を知れ」とぱっと見ると、「まずは自分を知ろう」というよく就職カウンセリングでありがちな自己分析のようなことをしか思い浮かばないと思いますが、一応これは古代ギリシャの神殿に掲げられたものです。 格言は短文であれば短文であるほど、たくさんの解釈ができます。理屈上は、文は長いほどひとつ
言葉がわれわれの妨害になる
言葉に力を与えた時、というよりも意識的無意識的問わず「力があると認めている」時、言葉は力のようなものをもちます。 それが「アイツ騙し」であり、宣言効果であり、アファメーションと言われるものです。言葉を繰り返すことによって、その言葉の影響を利用しようというものです。それは実際の力というよりも、擬似的な力です。 特に「ポジティブな言葉を使おう」という場合、目の前の現象の属性をポジティブなものに解釈するようにフィルターを少し変更するような力で
特権
自分を自分で完全に所有している者、すなわち自分を究極的に征服してしまった者は、自分を罰したり、自分を赦したり、自分を憐れんだりすることを、今後は彼独自の特権であると見なす。 曙光 437 前半抜粋 自分を自分で完全に所有している者と自分を究極的に征服してしまった者という表現はいずれも、まだアイツの内にいることを示します。まず自分というものがあるという前提ですから当然ですね。少しややこしいですが、自分の実在と所有という考え方を保持している

狂信が望まれる場合
粘液質の人々は、狂信されてわずかに感激するだけである。 曙光 222 狂信の対象は、いわゆる宗教的なものだけではありません。企業や政治思想、末端はアイドルまで、様々です。 狂信といえば代表的なものは変なカルト宗教ですが、気が狂れているとしか思えないほど熱烈な信仰というものは、愛社精神や政治思想への信奉、アイドルへの陶酔といったものまで様々なタイプのものがあります。 実際にあった話ですが、強烈な寒気を催したことがあります。 昔の勤め先です
優越への努力
優越感を刺激するものに対する批判への批判としてルサンチマンが使われたりします。つまり弱者の怨恨であり、「僻みだ」と居直るようなことです。 優越に対する批判に対して「それは僻みである」という批判を繰り返すというような感じですが、そういった使われ方もあたっていることはあります。ただ、これは水掛け論であり、「見栄の塊だ」という批判への反論が「僻みだ」というのも、構造上決着がつきません。 「僻みである」ということに対する批判も可能であり、さらに
ルソーに反対
われわれの文明は何かあわれむべきものそれ自体を持つということが真であるなら、ルソーとともに「このあわれむ文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」と結論を続けるか、あるいはルソーに反対して次のように逆の結論を出すかは、諸君のお好み次第である。 「われわれのすぐれた道徳は文明のこれらあわれむべき状態に対して責任がある。善悪に関するわれわれの弱い―社会的な概念、心身に対する絶大な支配は―自主的な、独立的な、とらわれない人間を、すなわち強

現代人の皮肉
日下一切の大きな関心事を皮肉に取り扱うのが、ヨーロッパ人たちの流儀である。彼らはそれらの仕事に忙しいため、それらを真面目に考える暇がないからである。 曙光 162 現代人の皮肉ということで、京都人の皮肉やそうした京都における皮肉の本意などについて触れていきます。 先日、パスカルの「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」という格言について触れましたが、ただ単に皮肉に取り扱う場合と、真に「ばかにする」ということは似て非なるもので
義務と権利の博物学のために
義務と聞くと嫌な響きがしますが、たまに義務を根拠に何かの意見を主張してくる人がいます。体育会系の上下関係など、世間で勝手に義務とされているようなことであり、「そんな義務はどこからきたのか?」ということをまず聞くようにしています。 法律上でも私人間なら権利義務関係は契約という概念がないと原則生じません。つまり双方の意思表示の合致ですね。言い換えれば特に私人間だと合意がないとそんなものは発生しません。 いい年をこいて、「駅まで車で迎えに来る
客観性の賛美者に
子供のときその影響をうけて育った親類や知人たちの、種々様々な感情や強い感情は認めたが、知的な正しさに対する鋭い判断や喜びをほどんど認めたことがなく、したがって感情の教養不足を取り戻すために最上の力と時間を費やした人は、成人したときどんな新しいものでも、どんな新しい人間でも、たちどころに彼の心の中に愛好、嫌悪、嫉妬、軽蔑を換気することに気がつく。この経験から圧迫され、それに無力感を抱いて、彼は感覚の中立性あるいは「客観性」を、不思議なもの
お金を貯める増やすコツ
この「金融」テーマに関しては実は半年ぶりくらいの投稿になるようです。前回のお金を貸す人借りる人では、お金を借りに来る人の心理について触れましたが、やはり「お金テーマ」はみなさんの関心を引くのでしょうか、現段階で最も閲覧されている記事になっているようです。 インターネット空間でも、金融や投資・保険などは広告収入の単価が高いので、様々な記事が乱立していますが、記事を書いている人はほとんど素人です。株式の運用に関しては実際にトレードをしている
逆らうもの
ある組織や主義などと同化し、共通の敵を作ることによってアイデンティティ(自己同一性)を形成しようとしている人がいます。しかしながら、何かの主張を「叫ぶこと」や誰かに対して嫌がらせをすることくらいしかできません。 啓発活動をしても結局は「お知らせ」しかできないから、それしかできていないわけですが、本当に「何かを変える」というのは、彼らの目的としては二の次です。啓発活動をしたり、何かの主義や主張を叫んでいる人たちにとっては、何かに「逆らって
時代に適した美
時代に適した美ということで「平安美人」という言葉が、現代では侮蔑に使われることもあるように、時代時代で美しさの基準は変化していきます。ある程度の「調和」という意味で一定の傾向はあるものの、一応変化していきます。 つい先日も触れましたが、間違っても80年代だけは繰り返してはいけません。いつまでも美しいとされるようなものはたまにありますが、時代時代の流行りが組み込まれたものは、やはり扇動されていることは否めません。 目や顎の好み ところで、
犠牲の道徳
犠牲に供することに応じて自らを測定する道徳は、未開の段階の道徳である。 曙光 221 一部抜粋 「犠牲の道徳」 このようなタイトルを見たことがある、と思って見直すと「生贄の道徳」でした。しかも曙光215です。 今回はバラバラに書いているため、すぐには気づきませんでしたが、国語の授業なら「一項目にまとめましょう」と先生に添削されるような書き方ですね。ニーチェもあとで思い返して追記したのでしょうか。「うーん、さっきは生贄だったから、ここは犠
威厳と恐怖心
儀式、職務と地位上の服装、真面目な顔つき、厳かな眼つき、ゆったりした足どり、曲がりくねった話しぶり、威厳とよばれるもののすべて、これは実際のところ恐怖心をもつ人々の偽装形式である。― 彼らはそれによって(自分を、あるいは彼らが代表するものを)恐怖を与えるものにしようとする。恐怖心をもたない人々、すなわち、もともといつも明らかに恐ろしいものをもっている人々は、威厳と儀式を必要としない。彼らは誇りとする恐ろしいものの徴候として、正直と言葉や
決疑論的
どんな人の勇気や性格も耐えられないようなある悪辣(あくらつ)な二者択一がある。ある船に乗っていて、船長や船手が危険な誤ちを犯し、彼らよりも自分の方が航海の知識の点ですぐれていることを発見し、―そこで自分に次のように問う。どうだろう!おまえが彼らに対して暴動を起こし、彼ら二人を監禁してしまったら?おまえの優越はそうするように義務づけないか?だが一方彼らも、服従しないという理由でおまえを拘禁するのはもっともではないか?と。 曙光 436 前
気づかれないままでは破壊しない
そもそもは認識の誤謬、錯覚というものから起こる悲劇ばかりですが、単純に日常のモヤモヤというものは、奥深くに眠っている「何か」が引っかかっていることがほとんどです。怒りの本音で触れましたね。錯覚がなくなればすべてがガラッと変わり、一気に消えますが、それは少しハードルが高いのかも知れません。 トラウマはそれが何かがわからないからトラウマと呼ぶのと同じように、無意識レベルでの心配事などなど、その奥にあるものがなかなか見えません。 理由が見えに
ワンテーマ B層
B層という言葉をたまに使いますが、類語は「ウェーイ」「おもんないグループ」です。念の為に寄せ集めておきます。ウェーイは、「ただのウェーイ」と、最高を最幸と書きたがる「自己啓発洗脳ウェーイ」などに分類されます。このサイトの常連さんは、B層ではないでしょう。 B層の研究 「絆」という言葉が苦手です。寒気がします。僕はB層のことを「ウェーイのやつ」と呼んでいます。震災の募金活動についても寒気がしていました。この違和感の理由を的確に論じてくださ
ワンテーマ 「モテ」
モテに関しては関心のある方が多いようなので私的寄せ集めをしてみました。モテないが正しいです。ただ、モテるモテないの選択権は己にはありません。本当はありますが、それは世間で言われるようなモテテクを磨くことではありません。 モテる秘訣とモテない理屈 モテる秘訣とモテない理屈について 世間では様々なモテテクやモテるための条件、モテる秘訣、そしてモテない理由としての理屈が並べられています。世間で言うところのモテる男の条件とかモテる女の条件という
ワンテーマ 養子のうさぎとインコたちとゆかいな動物たち
我が養子のうさぎと、インコたち、そしてゆかいな動物たちの記事です。人から教わったこともたくさんありますが、言語を介さずして彼らに教わったことも計り知れません。 動物はエライという境地 改 うちには現在、養子のうさぎがいます。 そして昔、うちにはインコがいました。セキセイインコを漢字で書けるほど(脊黄青鸚哥)、無類のインコ好きなのですが、最初に共同生活を始めたのは小学校2年生の時でした。 動物はエライという境地 改 インコとは心が通じるの
ワンテーマ たられば的脅し
たらればの想像力を駆使して、スケベ心で「人を使おう」、「こいつをコントロールしてやろう」とする人たちの純情物語です。全ては「もしかしたら」という想像力などで相手の心を操作して、ぼったくってやろう、タダで使ってやろうとする「夜の商売」風の手口です。 たられば、かもしれない 以前、ある程度大きな会社の人に、 「もう少し仲良くなったら、○○さんを紹介してあげるよ」 というお言葉をいただいたことがあります。 いままでに何回かその手の切り口を聞い
ワンテーマ
先週くらいにふと「ひとこと」に記載しましたが、ハブページを作っていきます。 世間では「まとめ」という言葉をよく使いますが、僕はこの言葉になんだか好感が持てません。いや、この言葉が悪いわけではないのですが、まとめページを作るだけで、オリジナルページを作った人よりある意味で評価されていることに違和感を感じているからです。 確かにハブページというものの機能は良いかもしれませんが、ハブページばっかり上位表示されるのは変です。転載で新規に作るより
宝探し2015
みなさまいかがお過ごしでしょうか。 投稿数が450を超えました。ということで300回投稿記念くらいの時に考えていた宝探しゲームを行います。 このページの前のページ「お宝箱」はパスワード保護されています。 そのパスワードを一文字ずつ探して遊ぼうというものです。 全部で11文字、半角英字のみを使用しています。書庫カテゴリのものは除外していますが、全個別ページの中に以下の様な画像を組み込んであるページがあります(記事だけとは限りません)。もち
保護中: お宝箱
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懐疑の懐疑
「恰幅のよい頭にとって、懐疑は何というよい枕だろう!」― モンテーニュのこの言葉は、パスカルをいつも憤怒させた。というのは、パスカルほどよい枕をとくにそんなに強く熱望したい人はいなかったからである。だが、何が欠けていたか?― 曙光 46 パスカルは、お父さんの税金の計算が楽になるようにと計算機を作ったり、「一人一台ってのじゃなくて、みんなで共有すれば楽なのに」という発想で、元祖公共交通機関を構想するという、ただ数学者としてのみならずカリ
認識の悲劇の終幕
以前に書きましたが、認識の悲劇は、がっかりによって終りを迎えます。「最大のがっかり」 「自己犠牲が一番の人間向上の手段であった」と、ニーチェは触れていますが、今でもよくブラック企業などはそんなことを言います。 何のために自己犠牲ということをしてしまうのでしょうか。おそらくその点については触れられること無く、自己犠牲の先に「何かの意志に適う」ということを盲信しているという構図です。 自己犠牲の精神からの脱却 認識の悲劇の終幕ということで自
