道徳的と自称する

直接間接問わず、道徳的と自称している人は結構います。 道徳的だと自称していたり、はたまた心のなかで自分は道徳的に生きていると本気で思い込んでいる人がたくさんいます。 しかし、ギムキョだからこそ盲目になっていることがよくあります。以前に少し触れましたね。 聞いた話ですが、例えば障害者の人がどこか福祉系の作業所に勤めた場合の賃金は15000円位だそうです。 一ヶ月働いて、15000円です。ここは日本です。貧困国と言われている地域の賃金の円換算ではありません。 どうして、そのような低賃金になるのでしょうか。 それは仕事っ

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大瀧詠一氏

もう最近は、楽しかったり深く味わったりするより、静寂の中で静かにできるだけ何も感じずにいるほうが好きになりました。 しかしながら、久しぶりにCDを買ったりしたので、この方について。 かなり有名な方ですが、知らない人は知らない(僕より若い人なら)、というような方ですね。しかし彼が手がけた曲を聞いたことがない人は、この日本では生まれたての赤ん坊以外ではおそらくいないでしょう。凄腕アーティストであり、作曲家として僕が最も大好きな人です。語るまでもないほど、というより語ってはいけないほどのすごい人です。 さらにいうと加藤和

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取り違えてはならぬ!

そうだ!彼はその品物を四方八方から観察する。そこで諸君はこれこそ認識にうってつけの人だと思う。しかし彼は値切ろうとするにすぎない。― 彼はそれが買いたいのである。 曙光 341 品物を具に見るときは、自分もそのようなものを作ったり売ったりしている業界にいるか、もしくは買う前の精度のチェックと、難癖つけての値切りのため、というような動機がほとんどです。 最近では「値切りといえば」の家電屋もポイント還元という逃げを使うようになってきました。しかし、その場で、スマートフォンででも型番を調べれば、アマゾンや楽天で全国最安を

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心理的恒常性維持機能と自責

この「うつ、うつ気味」テーマについては、およそ四ヶ月ぶりくらいになります。毎度のことですが、あまり安易に触れないでおこうという方針なので、更新はあまりありません。 今回は、直近に身近で思い当たるフシがあり、一度くらいははっきりと書いておこうということで、心理的な恒常性維持機能(ホメオスタシス)と自責について触れていきます。 ちなみに狭義の恒常性維持機能は、ある安定した状態を保とうとする本能的な生理機能のことです。気温が変動しても体温を平熱付近で安定させようとしたり、病気にかかりかけた時に病原体を退治したりする、体が

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思想家の寛容

ルソーとショーペンハウアーは― 二人ともその存在に人生を真理にあわせるという標語を記入するほど誇りが高かった。そしてまた二人とも― 真理を人生にあわせる― 彼らのいずれもが理解していたような真理を― ことが成功しようとしなかった点で、また彼らの人生は、旋律に一致しようとしない気まぐれな低音部のように、彼らの認識とならんで走った点で、どんなに彼らの誇りに苦しんだことであろう! 曙光 459 前半 「何でもわかりやすく」という流れがやってくると、「そうだカテゴリ分けをしよう」という発想がすぐにやって来ます。 その際は先

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誤認の利益

ある人が言った。憂鬱な気質にありがちな、人の気に入りたがる気まぐれに対して、子供のとき軽蔑を抱いたので、人生の半ばに至るまで、自分には自分がどんな気質であるのか、つまり自分がほかならぬ憂鬱な気質であるということが見えないままであった、と。彼は、これはありうるあらゆる無知の中で最上のものであると明言した。 曙光 341 世の中にはたくさんの誤解、誤認があります。人と人の間の相手にもっている印象などほとんどが勘違いです。 ただ、一言で勘違いだと言っても、どう勘違いしている可能性があるのかまで推測できる場合と、ただ伝家の

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実見は歴史家に逆らう

人間が子宮から出て来ることは、全く証明済みの事柄である。それにもかかわらず、その母親と並んで立つ成長した子供たちは、この想定を全く不合理なものに思わせる。この想定には、それと逆らうような実見がある。 曙光 340 我が家にはサンセベリアくんが今でも同居しています。このサンセベリアくんは、親子でメキメキと成長しています。母というか父というかわかりませんが、脇からひょいと子供サンセベリアが出てきました。 とは言うものの、根もとはつながっています。しかし根を分離させたとしても、お互いに独立して生きていくでしょう。 この場

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一番籤(くじ)

これは非常に珍しいことであり、しかも人を有頂天にするものである。つまり立派に形成された知性を備え、そのような知性に属する正確も、好みも、体験でさえも持っている人間のことである。 曙光 458 最近やたらにコンビニで「700円買ってくじにチャレンジ」が多いですね。一番籤(くじ)ということでクジ引きについてです。 コンビニのクジ引きにおいては、繁忙時間の混雑を避けるために、当たりばっかり入っているくじボックスを用意して、早急に当たりくじを消化するということが多いのか、たいてい当たります。先日は1400円ちょっと買って二

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義務の変化

幾度と無く触れている中学生の時のお話です。義務の変化ということで、やはり義務教育における「義務」について触れていきます。 白靴下の件は幾度と無く出てきているので、既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、さらに自分が卒業して15年以上経った現在、母校の生徒を見てみると、蛍光オレンジなどのスニーカーを履いて歩いているという実情があります。 合理性のない義務というものはたくさんあります。 特に体育会系ではそれが多いでしょう。今でも関わりたくない人種の一つです。 最近知ったのですが、年長者は年下の人の飲み代をおごるという

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うめあわせの良心

ある人間が、他の人間にとってその良心となる。そしてこれがとくに重要であるのは、他の人間がそれ以外の良心を全く持っていないときである。 曙光 338 互いに埋め合わせる、というような時は、互いに穴があるということです。仕事上の向き不向き、得意不得意を埋め合わせる位ならいいですが、心にぽっかり空いた穴を誰かに埋めてもらおうとしてはいけません。 その穴は虚像です。それまで得てきた情報から弾き出した不足の想像であり、そんな穴はどこにもありません。 それが愛であれ、友情であれ、温もりであれ、不足を見つけてそれを埋めるというの

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「自然のまま。」

京都という街は、文化都市だと言われています。 しかし文化そのものがいいかどうかは別問題です。世の中では文化水準の良し悪しや高さ低さを評価する傾向にありますが、「文化」そのものがいいものなのかどうなのかは全く議題に上がりません。 まず、文化というものそのものは良いものであるという盲目的な是認があります。 たまにわざわざそれに逆らうことをアートだとするトンチンカンな人(裸でドロの中に飛び込むことをアートとする人)がいますが、それも生命維持活動とは関係のない行動なので文化には変わりありません。 「文化」については以前「文

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われわれは何ができようか?

ある人は不良で悪意のある息子から、まる一日ひどく責められたので、晩、息子を打ち殺し、深く息をつき、残りの家族のものに言った。「そう!これでわれわれは安心して眠れる!」― 環境はわれわれをどこへ追い立てることができるのか、われわれは何をしっていよう! 曙光 336 ここで少し家族について触れましょう。 家族仲はいいのですが、昔から家族という組織が嫌いです。 どういう意味で嫌いかというと、煩いの方が多いからです。 ノイズとしての影響が多いというような感じです。 昔から独立心が高いため、性格的には家族からの影響はあまりあ

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愛が愛として感じられるために

われわれは、自分に対して誠実であり、自分を非常によく知る必要がある。他人に対して、愛や親切と呼ばれるあの人道主義的な偽装をすることができるためには。 曙光 335 愛や親切と呼ばれるものは、ほとんどが偽装されたものであり、慈しみのように純化されたようなものではなく、何か裏にある自己都合の自己欺瞞のために使われたりします。特に語られる時はそうでしょう。 自己都合を覆い隠すため、つまりは一種の欲などを悟られないように、愛や親切という言葉に変換されているものがほとんどです。 芥川龍之介氏は恋愛の事を性欲の詩的表現だと言い

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浦富海岸(うらどめかいがん)

浦富海岸と「うらどめ号」

今月上旬、鳥取県と兵庫県に旅立ちました。ひとまず最初は鳥取県です。毎度のことながら鳥取砂丘に行きました。 鳥取砂丘でカマキリ(?)とご対面 鳥取砂丘は昨年も行ったので、ここではあまり時間はとらずに今回の鳥取でのメインとなる浦富(うらどめ)海岸に向かいました。 鳥取県岩美郡岩美町(いわみちょう)にある浦富海岸(うらどめかいがん)は、山陰海岸ジオパークの浦富海岸エリアに含まれる山陰海岸国立公園で、約15キロメートルにわたるリアス式海岸です。この浦富海岸は、「山陰の松島」と呼ばれ、日本海の荒波によって形作られた海食地形を

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慈善家

慈善家は、慈善を行なって自分の気持ちの欲求を満たす。彼はこの欲求が強ければ強いだけ、その欲求の満足に役立つ他人のことを、それだけ一層立ち入っては考えない。事情によっては彼は思いやりがなくなり、他人の感情を傷つける(ユダヤ人の善行や慈悲心についてこのようなかげ口がある。周知のようにそれは他の諸民族のものよりも幾分激しい)。 曙光 334 世の中は出来の悪い人ほど目にかけられ、世話をする側に好かれるものです。自立心があり、世話をする側の役に立っている側ほど粗末に扱われることが多くあります。 特に息子や娘に執着している親

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「人間性。」

われわれは動物を道徳的な存在とは考えない。しかし一体諸君は、動物はわれわれを道徳的な存在と考えると思われるか?― 話の出来る動物が言った。「人間性とは、すくなくともわれわれ動物が苦しむことのない偏見である。」  曙光 333 動物が道徳的でないとするならば、その従う指針のようなものがない、という意味ででしょう。以前に触れた我が家のインコの夫婦は、夫婦を解消した後も介護をしていました。インコ同士にも愛情はあります。 どうも動物と人間を対比した時に、人間の傲慢さが出てきますが、動物よりも害のある人間はたくさんいます。露

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高慢ちきな様式

大きくふくらんだ感情を作品の中に注いで安心するのではなく、むしろふくらんだ感情を遠慮なく伝えようとする芸術家は大げさであり、その様式は、高慢ちきな様式である。 曙光 332 何度か触れていますが、人生で式典的なものを行うつもりはありません。そして、そうしたものはすべてどこかしらに高慢ちきな様式という感がしてしまいます。 「おめでとう」や「悲しい」すら、もはや「そうか??」と思うほどなのですが、まあ別に喜んだり悲しんだりすることは、即時的に起こるものなので、いいかなぁなどと思います。それが良い悪いというのはナンセンス

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正しさと限界

禁欲の教えは、感性的な衝動が狂暴な猛獣であるためにこれを根絶しなければならないような人々にとって、うってつけの考え方である。しかし実際またそういう人々にとってだけである。 曙光 332 これはZ会について触れろということでしょう。今回はZ会、つまり「絶倫すぎる男たち」について触れていきます。 世の中には絶倫になりたい人、食べ物などで何とか絶倫になりたいというタイプの非Z会の人がいますが、「絶倫すぎる男たち」=Z会は、基本的には食事等だけでなれるものではありません。 Z会と非Z会 この世の中にはZ会(絶倫すぎる男たち

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まだ十分ではない!

ある事柄を証明するのは、まだ十分なことではない。人はまたさらに人間を誘惑してそれをさせたり、人間をそこに高めたりしなければならない。それゆえ知識のある者は、その知恵を語ることを― しかもしばしばそれが愚かなもののように聞こえるほど― 学ぶべきである! 曙光 330 学んでも学んでも、まだまだいくらでも学べるものはあります。 しかしながら、大抵のことは学んでも仕方ないようなことです。いつか何かの役に立つことはありますが、遠く離れた妄想の先にあるような事柄よりも、主要な事柄に集中したほうがいいのは当然です。 「学ぶこと

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快活さをそしる者

人生に深傷を負った人間たちは、一切の快活さに疑念を抱いた。快活さとは、いつも子供らしい、子供っぽいものであって、死に瀕している子供がそのベッドでなお玩具をかわいがるときのように、それを眺めると、あわれみと同情しか感じえないような愚かなものを漏らしているかのように。 曙光 329 前半 快活さをそしる者ということで、少し路線は外れますが「快活さが削がれる瞬間」についてでも触れていきます。最近、怒りが生じるわけではないのですが、一気に快活さが失われるケースがあります。 何かをやっている最中に横槍が入ったりした時、快活さ

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理想主義的な理論は何を推測させるか

理想主義的な理論に最も確実に出会うのは、ためらわない実行者たちにおいてである。なぜなら、彼らはその理論の光彩を自分の評判のために必要とするからである。彼らは、その本能によってそれを摑み、その際全く偽善感を持たない。 曙光 328 前半 自己啓発洗脳組も、ブラック企業営業マンも、胡散臭いコンサルタントも、新興宗教と同じくわざわざ人を騙している自覚がない場合があります。 自分自身ですら自分自身の意識が作り上げた虚像に騙されています。 それが「なんでもできる自分」なのか、「成功者(笑)」なのか崇高そうに見える企業理念なの

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最後の寡黙

少数の人々は宝物を掘り探す人のような目に遭う。彼らは他人の魂に隠されているものをたまたま発見し、それについて知識を持つ。これはしばしば耐えがたい!われわれは事情によっては、生きている人々や死んだ人々をある程度までよく知り、その内心を突き止めることができるが、彼らのことを他人に語るのは苦痛となる。われわれは言葉ごとに無分別になりはしないかと懸念する。― 最も賢明な歴史家でさえ突然無言になることが、私には想像できる。 曙光 457 事実傍から他人を観察すると、その人のことがよく見えるものです。 自分と同じ特性を持ってい

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ひとつの寓話

今年に入ってからですが、久しぶりに手塚治虫氏の漫画を読みました。 もう10年以上も前に一度読んだ作品ですが、改めて読んでみるとやはり今の「後々のキャラ化のグッズ化」を意図していない純化された作品だけに、作者の意志がよくよく染みこんでいると感じました。 手塚治虫氏の「ブッダ」 そんなことで読んだのは手塚治虫氏の「ブッダ」です。 もちろん手塚氏ならではのブッダですが、仏教に関する下手な本よりもよくよく伝わるのではないでしょうか。 核心に迫るポイントはぼかしてありますが、わからなくてもせめて感じる必要があるポイントだけは

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自分の環境を知る

われわれは自分のいろいろな力を評価することはできるが、われわれの力そのものは評価できない。環境はこの力をわれわれに対して隠したり、示したりするばかりではない。― それどころか!環境はこの力を大きくしたり、小さくしたりする。われわれは自分を変化しうる量とみなすべきである。この量の能力は、恵まれた環境の場合、おそらく最高度の能力に匹敵する事が出来るであろう。それ故にわれわれは環境を熟慮し、その観察に当って、いかなる勤勉もいとわないようにしなければならない。 曙光 326 向いていないことを仕事にすると、その能率は著しく

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成長しつつある徳

「徳が高い」「功徳がある」というようなことを言語情報として見聞きしても、何の説得力もありません。「あの人は徳が高いことで有名だ」というような情報ですね。それを第三者から聞かされた場合などです。 功徳といったようなものは、そういう一種のプロモーションをしても、実際に会ったりしてしまえば、その人からぷんぷん情報が出ていますから、取り繕うことはできません。 簡単にいえば、いくらライターが新曲の事をあれこれ感想や過去の楽曲との対比のような記事を書いても、その曲を実際に聞いた時にそのような言語情報など何の意味も成さなくなるの

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by bossu

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