ニヒリズムの義務教育解釈

なぜこのように誇り高いのだろう!

高貴な性格が野卑な性格と相違するのは、後者が前者と同じく若干の数の習慣や視点を持ち合わせていないことによる。すなわちそれらの習慣や視点は、後者にとっては偶然にも相続されておらず、また仕付けられてもいないのである。 曙光 267

つい先日、「なぜこのように崇高なのだろう!」という見出しがあったにも関わらず、すぐにこういった事を言い出す癖がニーチェにはあります。

ニーチェはその文体にも表れるように、気分的なものが多いですが、それがやたらと的を得ていることが、面白い点ですね。「積極的ニヒリズム」ひとつとっても、厳密な論理というよりも、気分的なものです。ただ、それまでの宗教的しがらみを破壊してから考えたというところは、彼を褒めてあげてください。ニーチェがせっかくしがらみを破壊したのに、後世にはギムキョと体育会系の餌食になっています。その中の最たるものはニヒリズムとルサンチマンあたりでしょう。

積極的ニヒリズムの義務教育解釈

ニヒリズムや一期一会の体育会系解釈

積極的ニヒリズム(能動的ニヒリズム)の一般的な解釈である「すべてが無価値だというのなら、自ら積極的に仮象を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度がいい」ということを、ギムキョな人や体育会系が解釈すると、上記のような結果が生じます。ただ、まずニーチェのニヒリズム自体が、ひとつの思想であり主義です。もっと広義のニヒリズム、虚無主義ですら、虚無「主義」ですから、主義です。揺るぎないものではありません。ある角度から見た解釈にしか過ぎません。それは自我の領域からの意見です。

「ニヒリズム」すら最初からタダの「意見」なのに、それをさらに解釈するとなると、一生懸命とカッコイイがセットになるようになるようです。そんなことはニーチェも思っていなかったでしょう。カッコイイとかカッコよくないとかはどうでもいいことです。

思春期特有の発情を餌に、「カッコイイと思われたいだろ?」ということです。誰にでしょうか。それは異性に、保護者に、教師に、先輩に、後輩に、世間に、です。つかみ所のない空虚な外界に基準を置いてはいけません。

「一生懸命がカッコいい」から、どうしたというのでしょうか。これは何かを指し示しているようで、雰囲気だけの「責任は負わないぞ!実は何も言ってないぞ!」、という類の不明瞭な憲法前文のようなものです。

またもう一方で、支配者側は都合がいい、ということがあります。一生懸命がカッコイイという事なれば、「だるい」という言葉が使えなくなるだろう、ということです。「だるい」という言葉で、やる気のない、レスポンスのない生徒よりは、何事も積極的に言うことを聞いてくれる人のほうが都合がいいという側面です。

これは自分だけが思っておけばいいだけで、標語として掲げるようなものではありません。むしろ「言わせた」に近いものがあるでしょう。自己啓発に影響の受けた営業部長などが、部下に営業目標を紙に書くように命令するのと同じです。

「言ったのはおまえだろ?」

という逃げの口実です。

書いたことに意識が縛られる、という手法です。まんまと若者を手中に収めようとしています。そのために悪用されたニーチェは憐れではないでしょうか。

「え、何だって?別にニーチェが出処と決まったわけではない?そうかなるほどその通りだ!すると君はこの命題をどこからどのように出してきたのかね?え、何だって?これは普遍的でわれわれの神がもたらしたものだって?とっくに神は死んだというのに、君はまだ聞いていないのか!」

とニーチェ風です。

そうか、そうだったのか、それならばもう一度!

「一期一会」の義務教育・体育会系解釈

一瞬一瞬の今が大切である、と言う旨のことが書いてありますね。

これが少しおかしいことに気づいた人は賢明です。

「一瞬一瞬の今しかない」のです。「大切」というのはある尺度からの相対的な感想です。比較から生まれる優劣の印象になります。

標語にあるのは、授業中にスマートフォンを触っていたら、「そうじゃなくて、今やるべきことは何だ?」と聞くために書いてあります。今しかないということになれば、時間帯によるゲリライベントがあったらその時間しかそのイベントには参加できません(いやいやそういうことではありません)。

では、どうして将来を考えて、勉強をしているのでしょうか。では、どうして受験を考えて、勉強しているのでしょうか。志望校を絞って狙っているのでしょうか。

僕が中学生なら、絶対にこのような質問をしていたはずです。この質問が来た時に真っ当な回答ができるのか疑問です。

一期一会と諸行無常

一期一会という言葉も本来は、この今の一瞬の現象は一度しか無いという意味で諸行無常を意味しています。「一期一会、この人とのご縁」という意味ではありません。本来的には「この人とのご縁」ではなく、「この人との果」であり、縁ではありません。因果の結果ですね。

原因があって条件が揃って(これも原因といえば原因です)、それが結ばれたから「結果」です。種子が、土や水に触れ、そして気温などの条件が揃った時に発芽するといったことです。

現象が一度しか無いと言っても、外部に現象があるという事を前提としているわけではありません。あろうがなかろうが、「自分の心はそれを捉えているという現象」という風に捉えたほうがいいでしょう。

一呼吸一呼吸の今が大切なら、呼吸系のサマタ瞑想をしながら集中力を上げて、ヴィパッサナー瞑想をするということです。授業はそれだけでよくなります。

本気でやるから面白い、ということがすべてを物語っています。

「面白い」という快楽の刺激、それがないといけないという宣言です。

それは確実に自我に縛られている人の「意見」です。

なぜこのように誇り高いのだろう 曙光 267

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ