休憩時間が過ぎれば、いずれまた幕が上る

絶望の淵に立った時、あえて絶望を楽しんでみてはいかがでしょうか。

やることがなくて虚無感に苛まれた時、虚無感を楽しむ時間としてそれを楽しんでみるというのも一つの手ではあります。

またいずれうつテーマにでも書こうと思いますが、感情は抑えずに味わい切ったほうがうまくいきます。

ただ、絶望感なり虚無感なりに苛まれた時は、具体的行動として人や物に八つ当たりしてパワー的に解放しようとしたり、具体的解決策にいきなり奔走しようとはしないほうが賢明です。

そうした行動ではなく、情動、わかりにくければ今感じている絶望「感」、虚無「感」という感情的なものに意識を集中してみるということが第一ステップです。

ネガティブを楽しむという最高の積極性、最強のポジティブ

ここであえて、ウルトラC的で必殺技的になりますが、最高の積極性、最強のポジティブとは、無理なポジティブシンキングではなく、いわゆるネガティブを楽しむということになるという旨を伝えておきます。

絶望なり虚無感なりを感じると、普通は「そこから逃れたい」と思ってしまいます。そして逃れるためにと、無理に解釈を変えたりしてみて、無理に「レッツポジティブシンキング!」ということをしてみたり、実際に何かしら奔走したりしてみたり、ということをしてしまいます。

しかしながら、それは絶望や虚無感を「ダメなもの」ということで押し込めているだけになるというケースもあるということを頭に入れていただければと思います。

そこでですが、最高のポジティブとは、何かにつけて好意的に、そして積極的に解釈するというものというより、そんな絶望なり何なりを、楽しみとして味わってしまうというものになります。

映画を観て悲しんだり、怒ったり、ハラハラしたり、怖くなってみたりするのと同じように今の絶望感を一種のエンターテイメントして取り扱ってみましょう。

体感してみるとわかりますが、嫌な情動は、涙が流れるほどに味わい切ると意外とスーッとしたりします。

色々と悲しいことがあったとしても、きちんと涙を流せば意外とスッキリします。それと同じです。

しかしながら、「泣きたくても涙も出ない」という時があります。

そんな時は、ある意味で「きちんと生きていない」ということをひとまずは認めつつ、意識の奥に閉じ込めて見ないようにしている「嫌なもの」の蓋を開けてみましょう。そしてその情動だけに着目します。

胸のあたりがつかえたり、目頭がカーッとなったりすることがあります。

そんな時に、「おう、なんぼでもこい」

という感じで、どんどん味わって涙が出るまで浸ってみるというのがおすすめです。

グズグズ感を最大限に味わい、絶望の絶望のような情動を味わう

嫌な客に嫌なことを言われたとしましょう。

そこで、「情けないなぁ」という思いを筆頭に仕事上「何をやってもダメだ」と思えてきたり、「打開策を考える気力もない」という感じになってくることもあります。

で、そんなダメダメグズグズ感がやってきたりした時、「情けないままでいたくない」ということで、抵抗したりしまいます。「お父ちゃんは頑張るぞ」とか「お母ちゃんとしてしっかりせねば」という感じです。

しかしそんな抵抗でうまくいくのならばいいですが、うまくいかない場合もあります。

そんな時は、グズグズ感を最大限に味わって、絶望の絶望のような情動を味わってみましょう。涙が出るなりなんなりというレベルまで全開まで思い出して情動を増幅させます。

するとある時、スーッと消えていったりします。

しかしその消えていった瞬間が少し心地良いので、「何ならもう一回、頽廃感を味わいたいなぁ」ということすら思えてきます。

そこまでくると、嫌な客に会うことがちょっとした楽しみになってしまったりもします。

「おう、なんぼでもこいや」

という感じでありながら、

「たまには来てくれよ」

という感じにもなってきます。

すると、「嫌なことが続いていて…」みたいな感じから、嫌な出来事すら面白く感じるようになってきます。

「さあ、アポ電話で怒鳴り返されよう」

「きたきた、案の定キレてきやがった」

くらいの楽しみになってきます。

こうなってくると、最強レベルのポジティブです。

「この嫌な人も私の欠点を指摘するために現れた素晴らしい人なのだ」などと無理に解釈する必要はありません。

一旦絶望を楽しみとして味わってしまうと、残高ゼロ付近の預金通帳を見ても「よっしゃ!」とすら思えてしまいます。

「よっしゃ!」とすら思っている自分が笑えてくれば、最強レベル中の最強です。

しかし、そのレベルにまでボジティブになってしまうと、世の中ではうまくいってしまいます。

みんなが微妙に嫌で避けることを楽しみにすらできるのですから引く手数多になります。

「あ、じゃああの人に理不尽な罵声でも浴びせられてきましょか?」とお詫び代行を打って出ることすら出来ます。

そんな人は、どこの会社でも欲しすぎます。

どうせ陽はまた昇るのですから、いっそ暗闇なら暗闇を楽しんで、そんな感じで陽が昇るのを待ちましょう。

笑う月(一覧)

Category:笑う月

「休憩時間が過ぎれば、いずれまた幕が上る」への3件のフィードバック

  1. ぼっすーさん

    あけましておめでとうございます。

    じゃがです。

    この度は憐れみ乞いのようなメールにもかかわらず、助言をくださりありがとうございました。

    自分から飛び込んで肌で感じたいと思います。

    仕事にこだわりはないと言っていたものの、あれから、今は熱中出来ることについてずっと考えています。

    人が喜ぶことはとても嬉しいです。

    しかし、仕事内容は好きで熱中できることじゃないと人から喜ばれても疲れて続かないのではないかと思うのです。

    一方で熱があるということは将来冷めることがあるということです。

    好きで熱中出来る内容を仕事にすることは危ないのでしょうか。

    そもそも、熱中出来ること=好きなことという関係は正しいのでしょうか。好きじゃなくても続くことはあるのでしょうか。

    と質問しようと考えましたが、諸行無常の世において永遠などありえないため、熱が冷めたら別に熱中出来る仕事を見つければいいんだと今思いました。

    すみません、この通り、質問になりませんでしたが、ぼっすーさんの視点から何かあればヒントが欲しいです。

    よろしくお願いします。

    1. あけましておめでとうございます。
      「熱中出来ること=好きなこと」についてですが、いわゆる熱中には興奮系のものが混じっており、その手のものはある地点で必然的に冷めていきます。
      誰かが仕組んだようなものでない限り、もちろん興奮からスタートするのは構いませんが、「興奮」に伴う熱中度のみに着目すると、一過性の興奮のみで終わってしまうことになります。

      「人が喜ぶことはとても嬉しい」という抽象的な印象を軸にされていると、それに即したものが訪れてくると思います。
      しかしながらそうした中でも、直接的に全てが嬉しいことかと言われればそうでもない局面がやってくるでしょう。また、他の重要なこととの間に何かしらの葛藤が生まれることもあると思います。
      そうした時、短期的に訪れる混乱やそれに伴う不快感を素早く避けようと、白か黒かというような極端に走ってしまいやすくなりますが、軸さえブレなければ自分なりの新しい解釈による納得や具体的な調整の方法、もしくはそれらを統合したような第三の方法や方向性が見えてきたりもします。

      本能的なことなので少し異なる分野にはなりますが、最もわかりやすいのは、恋人同士の「激しい恋愛感情」から「友情にも似た揺るぎない夫婦愛」に変化するような感じが最も理想的な一種の熱中のあり方であると思います。
      そしてそれが依存の対象ではなく、それのみで完結するひとつの尊敬と慈悲であるのならば、憂いもありません。

      少し脇道にそれたような構造になりましたが、職業に関しても同じような構造を持っていると思っています。

      接しているうちに好意が生まれることもあれば、ある日突然恋に落ちるように突き進んでしまうこともあります。

      対象がどのようなものであれ、経験が増え、知らないことが知っていくうちに、必ず変化が起こります。気持ちの上でも初めのうちにあった気持ちとは変化してしまうでしょう。
      しかしながらそうした中で「その先を見よう」と思えたなら、「最初のワクワクはなくとも」という感じで歩んでいけると思います。それが一過性の興奮系ではない熱中というものになるでしょうか。
      それでもダメならダメ時として、経験を経て成長した視点から新しい方向を見定めていけば良いのではないでしょうか。

      どのような仕事でも、そこに一種の「無理」というか何かしらの歪みがない限り、「人の役に立つこと」であることには変わりありません。
      様々なことにチャレンジしてみてください。

      1. 深く考えすぎないように、ただやってきたご縁を大切に、また、そのご縁に執着しないようにしたいと思います。ありがとうございました。

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